3.蝶から毒蛾
徐々に蘇ってくる記憶を思い起こしながら、私は相変わらず窓の外を見つめていた。
——そう、ナノリアは愛情深く育てられていた。
途中までは。
国王ドローネの温かい抱擁は今でも覚えている。王妃サフィアも優しく、一人息子のアディノスと兄妹のように育てられた。——4歳までは。
「……………」
日はもう既に高く昇り、朝ご飯のいい香りが漂って来る。
まだこの部屋に来る人はいない。——いや、呼ばない限りここには誰も来ない。
あれほど眩しかった日々が、嘘だったかのように色を失っていった。幸せだった記憶さえ、消えそうなほどに。
——そう、あの日を境にナノリアの世界は一変した。
ナノリアが4つになった時、国王ドローネが、病に伏した。
国政の場で突然倒れたと聞いて、ナノリアは慌てて駆け付けた。
いつもなら素通りするはずの扉は固く閉ざされ、ナノリアを中に入れてはくれなかった。
「へいかは……へいか!」
「お入り頂くわけにはいきません。姫様、お戻りください」
いつもは挨拶を交わす近衛が今日は立ちはだかり、頑として退いてくれない。
心配でたまらないのにどうしようもなくて、ナノリアはその場にへたり込んだ。
「どうして……」
「陛下は病に侵されておる。原因不明のな」
聞き慣れた王妃サフィアの声。でも、これまで聞いたことが無いくらい冷たい声だった。
青い顔をしていた。袖には血が付いている。——ドローネは吐血して倒れたと聞いた、それだろうか。
「おうひさま、へいかは……ご、ごぶじで」
「今は、まだ」
「あいたい——」
「ならぬ!!」
びくりと肩が震えた。
サフィアのこんな大きな声も、初めて聞いた。
「これまでロフェリア王国は精霊の加護により盤石であった。——そなたが来るまでは!」
「え」
「国王が謎の病に倒れるなど、ありえなかった。昨日までお元気でいらしたというのに」
それは、その言い方だとまるで。
「陛下に何かしたのではあるまいな」
「え……?」
言っている言葉の意味が分からなくて、ナノリアはただサフィアの顔を見た。サフィアはハンカチで口と鼻を覆っていた。
「聞けば蛾の羽には、毒の鱗粉なるものがあるらしいではないか」
「でも。でも、わたし……」
サフィアが近衛に厳しい視線を向けた。
「連れてゆけ。ナノリアを部屋より出すな」
「おうひさま……!」
バタン! 大きな音を立てて、扉は閉められた。そして二度とその扉がナノリアに開かれることはなかった。
王妃サフィアはそれ以降、ナノリアとの会話を全て拒否した。
愛する夫の吐血と急激な病があまりにもショックだったのだろう。これまで優しい母の顔だったサフィアはどこにもいなかった。一瞬でナノリアを王の敵として責め立て、許さなかった。
動揺し、理由を探し——これまでは美しいと褒めていたナノリアのその羽が、急に異質なものに見えてきたのだろう。
王妃が手のひらを返せば、王城の者らはみな従わざるを得ない。
ナノリアは急激に人々から冷たくされた。もう誰もナノリアを姫とは呼ばなくなった。
ドローネの病は良くなることはなかったが、病床にありながらもなんとか自分の後継をアディノスと定め、辺境からその後見人を呼び寄せた。
毎日欠かすことなく祈り続けた甲斐もなく、あっという間にドローネは息を引き取った。
ドローネとの別れはナノリアにとってもあまりにもショックだった。
会う事は敵わなかったが、遺言でナノリアを頼むと言い残して、崩御したらしい。
最後まで心配をしてくれたという事に涙が止まらず、一人部屋で泣き続けた。
その遺言のお蔭で、ナノリアは何とか今日まで生き続けることができた。
王族の生活空間である内城の、限られた一角から出ることは許されなかったが、それでも殺されることも追放される事もなく、暮らすことを許されて。
毒蛾の妖精だと言われ、羽を隠し、忌み嫌われながら——10年。
そうして15の歳、ついにナノリアの魂は擦り切れてしまった。
「わたし、死ぬのね」
ナノリアは最期、一人きりの部屋で、このベッドの上でそう呟いていた。
身体はもう、指一本動かすのもつらい。食事も喉を通らなくなって、部屋に閉じこもるようになって。それでも誰一人見舞いには来なかった。
ひたすら縋りついたアディノスからも、もう何日も口をきいてもらえていない。
寂しい人生。
「わたしが何者かもわからないまま、こうして死ぬんだわ」
飛べない妖精。妖精かどうかも分からない異質な存在。
前国王の恩情により何とか生きながらえていたけれど、長く生きられないような気はしていた。国王が亡くなってから、日に日に体が重たくなっていたから。
ナノリアは最期——そのすべてが絶望の中、ひっそりと息を引き取った。
***
私はまだ空虚なままの胸に手を当てた。
ここは、まだぽっかりしたままだ。埋まる日なんて来ないのかもしれない。——でも。
胸に手を当てて、その感触を確かめる。この感覚は現実のものだ。
「よし」
記憶は整理できた。
不思議な感覚だ。確かに自分の体験として頭の中にあるのに、俯瞰して見たような気もする。
「ナノリア」
名前を呼んでみる。
応える声は勿論ないし、彼女はもう消滅してしまったのだろう。
時間が経てば経つほど、少しずつこの身体が私に馴染んでくるのがわかる。
託されたのだとしたら——何かの導きと思って精一杯、生きるしかない。
「私はナノリア……」
ナノリアとしての人生を今から歩むしかないのなら、過去は代えられないし、未来はまだどうなるかわからない。
だから、今を生きていくしかない。
そのためにはこの状況を少しでも良くしなければ。
私は呼び鈴を鳴らした。




