1.この子の名前はナノリア——私?
目が覚めるとそこが別世界のように思う事ってあるだろうか。
それもはっきりと、夢うつつではなくて現実味を帯びた感覚がある場合。
例えば……異世界に転生した、とか?
ありえない。
ただ寝ぼけているだけと言われた方が信憑性がある。
でも。
胸にぽっかりと穴が開いたみたい。
何かすごくすごく、大切なことを忘れているような……。
私は胸を押さえた。
泣いてたんだっけ。頬に涙の跡が濡れている。
不思議な感覚だ。私は確かにこの景色を知っている。毎日見る、いつもの私の部屋。
昔イギリスに旅行に行ったときに見たお城の中みたいな一室だ。
石の壁、豪華な壁絵、それから……大きなベッドに寝てる、私。
——ん? イギリスって何だっけ。
そこまで考えてから、ふと思考が止まる。
喉が乾燥しているのに気付いた。
「こほ……ちょっと埃っぽいな」
この部屋はあまり衛生的ではないらしい。叩けば埃が出てきそうだし、実際目を凝らすとあちこちに埃や汚れも見える。
こんな汚いところで生活してたんだ、私。——できていたっけ?
広さはあるけれど、家具はほとんどない。
どうしようかと思って、視線を落とした。今はくすんだ白いワンピースを着ている。
今日はジャージじゃないんだ。——ジャージ?
違和感にまた目が留まった。
私の手、指……こんなに細くて白かったっけ。
それより、とにかく背中が痒い。たまらなく痒くて、ついぼりぼりと掻きむしってしまう。
蚊に噛まれたかな。やだ、不衛生だからダニとか?
触れた背中に、ごり、と物体の感触がある。何かが背中に、付いている?
怖くなって動きが止まる。——こぶ? 薄くて、何だかさらさらしていて……。
掻いた所からボロボロと何かが剥がれ落ちる感触があった。
「ひいっ……」
恐ろしくなって私は手を止めた。
そうだ、鏡! 部屋の中の鏡に走り寄る。
「これ……私? 私よね」
うん、私だ。
ナノリアの顔だ——ナノリア? 私の名前……。
可愛らしい見た目をしている。光の加減によっては青色にも見える白銀の髪はふわふわしていて、瞳は深い藍色。まだ幼い顔立ちをして、頼りなく華奢な身体をしている。
見慣れているようで見慣れない。
自分のようで、自分でないような。
何を言ってるかわからないけど、違和感がひどい。
そして気になった背中を鏡に映すと、そこには青くて小さい、蝶の羽みたいなのが付いていた。
羽……。しかも私は、これの動かし方を知っているのだ。微かにぱたぱたと動かせる。
じっと鏡に向き直って、これはやっぱり夢なのかなと思い始めた時。
「ああ、間に合わなかったか……」
背後からのその声に、びっくりして振り返る。
目の前に、一人の男の人が立っていた。こちらも恐ろしく美しい容貌だ。金の長い髪は足元まで伸びており、輝くような金の眼が私を見ている。完璧すぎて彫刻のように冷たくも感じる。
「だ……っ! ど、どちらさま!?」
輝かんばかりの美貌のその人は、唐突に、つ……と涙を流した。
透明な涙が頬を伝う。綺麗な人は泣き顔も美しいんだな——て、そうではなく。
「あ、あの……」
「可哀想な子……結局、消えてしまったのか」
私を見ながら不穏な事を言われる。
「消え……?」
その人はゆっくりと瞬きをした。長い睫毛が濡れている。
とにかく悲しみに暮れている目の前の人を放っては置けない。
「あの……元気出してください」
えと、ハンカチ……ないな。部屋を探せばあるだろうか。かび臭そうだけどいいかな。
そんなことを思って見渡していると、その人はやっと少しだけ笑った。笑うと冷たい雰囲気がなくなる。
「優しい子が入ったようだな」
「入った……」
「ナノリアの魂はたった今、消滅してしまった」
えっと、つまり私は、死んだ人の体に入っている、と。
ひええ。
「恐れることはない」
その人は私の事をまたじっと見つめた。
「その子の記憶がじきに蘇る。そうすれば、この子がどれほど憐れで、そして愛らしい子であったかわかるであろう」
この胸のぽっかりと空虚な感じを、見透かされているような気がした。
何か大きなものを失ったような気がしたのは、ナノリアが消えたからなのか。
「この子の分まで生きておくれ。おそらくそれが、この子の最後の望みだろうから」
「貴方は——」
その瞬間には、目の前の人は跡形もなく消えていた。
金色に光っていたように思う空間も、元の薄暗く陰気な部屋に戻っている。
不思議と怖くもないし、それほどおかしい事のようにも思わなかった。
得体の知れない人だったけど、昔から知っているような。
私はぐっと拳を握って胸に当てた。そうしたってこの気持ち悪さは拭えないのだけど。
窓の外を見れば、まだ夜明け間近の薄暗さだ。
ゆっくりと窓の側まで近づいて、窓枠に手を伸ばす。——この開け方も、私は知っている。
とりあえず埃っぽい部屋の中に空気を取り込んだ。
身体が記憶している香りがする。人々の気配、この景色。
ここは——そうだ、ここはロフェリア王国。
妖精の祝福の元に建国されたと言われている、小さくも豊かな王国だ。
私——ナノリアはこの国に、拾われたんだった。
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