◆9 煩音
中神は天井点検口から中に入ろうとして藻掻いた。
「あ…くそ……
この脚立、少し低い…!」
何種類かあった脚立の内、持ち運び易いサイズの脚立を担いで来た。
コレはコレで長いのだが、少しばかり目測を誤った。
点検口に頭は通る。天板に乗れば胸まで届く。
でもそれ以上は、つま先立ちでも届かない。
せめて腹まで越えないと、天井裏には上がれない。
「あと少しだってのに……!」
なぁぁぁん……なぁぁぁん……!
音はますます大きくなる。
天井裏で反響し、中神の鼓膜を激しく震わせた。
『うるせぇんだよ!!』
鳴き声を消そうとして怒鳴り返した。
その時……
上階から、地下まで貫くP・Sの縦穴には、沢山並んだ排水管。
懐中電灯の照らす先。排水管が作る陰の中。
細い棒の様なモノが『ペタン』。光の中に這い出てきた。
「…ん?」
それは、節のある白い棒に見えた。
ペタ…ペタ…ペタ……
白い棒は二本、三本と増えていき…
「虫か?気持ち悪い…」
五本に増えた所で全体が見えた。
壁にバンッと叩きつけられたそれは、『手』だった。
小さな白い手。
「ひっ…!」
中神は驚いて、咄嗟に頭を引っ込めた。
急に動いた所為で、片脚を脚立天板から滑らせた。
「う…うわ!」
体勢を立て直そうと、両手で天井点検口にしがみつき、残った片足を脚立に引っ掛けた。
足下の脚立が激しく揺れる。
トイレの床は硬い磁器タイル。
閉店作業中に行われた清掃の時に撒いた水が、まだ乾ききっていなかった。
脚立の足が横に滑った。
「や……!!」
ガッシャーン!!!
言葉を発する間もなく、中神は脚立と一緒に転倒した。
◆
なぁぁぁん……!なぁぁぁん……!
煩い声が、中神の左耳を震わせた。
「……ぐっ…ごほ…」
中神は目を覚ました。
一瞬の間だが、気絶していたらしい。
彼の直ぐ横には、自分と同じ格好で倒れている長脚立。
天井には開けっ放しの点検口。
「何を…してたんだっけか…」
記憶が混濁し、置かれている状況が理解らない。
「ぐっ…!」
意識がハッキリして来ると同時に、激しい痛みが彼の全身を駆け巡った。
右足首から右膝、右太腿を上って右腰、右脇腹を庇う様に右腕…そして何より、酷く痛む右側頭部。
その辺りを触ろうとして、気付いた。
右手が…動かない…!?
指に力を入れようとしても、意思通りに動かない。
右手を確認しようとするが、上手く力が入らない。
仰向けで倒れている自分の目で見える位置まで、自身の右手首を持ち上げる事が出来なかった。
なぁぁぁん……!なぁぁぁん……!
左耳元辺りから、鳴き声が響いた。
仰向けのまま、右手側から左耳へと視線を動かす。
その途中、開けっ放しの点検口が視界に入った。
点検口の縁に白い棒が一本…ペタン。
中神は、ほんの数瞬前に見たものを思い出した。
「ひぃ!」
辛うじて動く左腕と左脚を必死に使った。
仰向けで這いずり、トイレの出口へと向かう。
その間も、真っ暗な点検口から目が離せなかった。
ペタ…ペタ…ペタ…と、白く細い指が並ぶ。
そして、点検口の縁から垂れる様に這い出して来た。
なぁぁぁん……なぁぁぁん……
相変わらず煩い。
ただ、いつもと少し違う。
常に、左隣に張り付いて居るかの様。
『ふぅ…!ふぅ…!』
漏れ出る呼吸が、遠くに聴こえる。
口を開く度、肺が圧迫される様な奇妙な感覚。
左腕と左膝でタイルの上を這いずると、胃の内容物が漏れ出そうになる。
右半身は既に度を越えたのか、痛くない。その代わり、麻痺したかの様に動かない。
中神は左半身の這いずりだけで、トイレの入口まで辿り着いた。
中神の居る場所からは丁度、姿見を通して中の天井の様子が見えた。
ぽっかりと開いたままの点検口から伸びるのは、細くて白い腕と長くて黒い髪。
粘性の高い汚泥が滴り落ちるかの様なゆっくりとした速さで、それは点検口から垂れて来ていた。
なぁぁぁん……!なぁぁぁん……!
垂れ落ちる『何か』に向けていた意識が、突然響いた『声』の方に引き戻された。
『うるせぇ!…来るな!』
中神は『声』と『何か』、両方に向けて怒鳴った。
声を張る度、息をする度、吐きそうになる。
『声』は今も、左耳の鼓膜を激しく震わせている。
声の主は左耳に齧りつきそうな程に近く。
生温い吐息を感じた。
『うるせぇ!!来るな!!』
中神は左手を振り回し、左隣の相手へ向けて一発。
拳は空を切った。
なぁぁぁん……!なぁぁぁん……!
垂れ落ちた白い片手と長い髪は既に床に着いている。
それの腰は、既に点検口から這い出してきている。
長く伸びた胴が下方の頭と天井の腰を繋いでいる。
細くて長いそれの全体像が、少しずつ明らかになってきた。
それと同時に広がる臭気。
『う…!くせぇ!』
中神は左掌で鼻を押さえた。
臭い…凄まじい臭気。この臭いは、まるで……
なぁぁぁん……!!なぁぁぁん……!!
突然、『声』が爆音になった。
『痛え!!』
左耳が震えるのが分かるくらい。激しい音の暴力。
すぐに左手で左耳を押さえた。
臭気の不快さより、震える鼓膜が酷く痛む。
音の振動で左側頭部が揺れる。
細かい震えが、左耳の痛覚神経を直接撫でる。
『…痒い…痒い…』
音は『痛い』のに、触覚は『痒い』。
左手で左耳を掻く。
『…か…痒い…煩い…痛い…』
段々と力が入ってくる。
引っ掻いた所がヌルヌルと滑る。
滑って上手く掻けない。
『濡れ…滑…掻けない…。痒い…痒い…』
垂れ落ちた『何か』を凝視したまま、中神は左手に力を込めた。
ブツリ…
何かの『音』が骨に伝わった。
その途端、左耳を覆っていた『痒み』が消えた。
だが、音は消えなかった。
なぁぁぁん……!!なぁぁぁん……!!
響き渡る『声』が、左耳の鼓膜を激しく震わせながら、頭の中を引っ掻き回す。
…苦し…い…左耳の中…痛い……
…ぁ…右から音が…しない…?
その時になって初めて、中神は右耳の鼓膜が破れている事に気付いた。
…鼓膜…無け…ば…煩わ、い音…消せ…
中神は左耳に左手の指を突っ込んだ。
だが、指が太くて入らない。
その間も、『声』は左耳から脳内を刺激し、中身を激しく揺さぶっていた。
…耳に突っ込むモノを…
鼓膜を破る為に、尖った物を探した。
だが此処は女子トイレの出入口。売り場から少し離れている。
見える範囲には、細く尖った物は無かった。
探す途中、姿見の方に視線が向いた。
『真っ黒』なワンピースから伸びる『真っ白』な手足。
白骨よりも白い首筋に、奈落の様に黒い髪。
先程まで『粘体』だったモノは、『女』の形を造っていた。
『化…物の…に…人…を…』
『女』はゆっくりと近付いて来た。
…武器…武器になる物…
咄嗟に腰に引っ掛けていた無線機を手に取った。
仰向けのまま、それを『女』に向けて投げつけた。
ガシャン!
無線機は姿見にぶつかり、落ちた。
鏡と無線機、両方とも壊れた。
なぁぁぁん……!!!
響く『声』は未だ止まらず。彼の頭の中で反響していた。
『音を…止めないと!……何か…』
身体に装着した物で、尖った物を探す。
『鍵!』
腰に着けた警備員用の鍵を思い出し、左手で鍵ホルダーを掴んだ。
『コレで!』
思いっ切り引っ張る。
だが、盗難防止用のコイルチェーンは専門の器具でないと破壊出来ない。
自分の耳元までは届かず、引っ張った反動で足下の方へ飛んで行った。
相変わらず、『鳴き声』は左耳の中。
『声』で意識を失いそうになる度、女子トイレに居るであろう『女』から漂って来る『悪臭』が、無理矢理彼の意識を引き起こす。
『他に…何か尖ったモノ…!』
財布を取り出そうとするが、左手だけでは上手くいかない。
必死に左手を動かし、そして気付いた。
『あった!!!』
彼は左手を口元に持っていき、人差し指、中指、薬指の三本の『爪』を、思いっ切り噛んだ。
そしてそのまま、左手を勢い良く引っ張った。
ぶちぶちぶち……
三つの音が鳴り響いた気がした。
左耳の中で反響している『声』が、他全ての音を掻き消していなければ、肉から剥がされた爪の音がハッキリ聴こえただろう。
剥がれた三枚の爪を、左手の親指と小指を使って一枚ずつ。左耳の中に押し込んだ。
ビキビキビキ…
何かが切れた音が、頭の中に拡がった。
同時に、ヌルヌルとした液体が耳から溢れ出す。
『入る…!指が…入る!』
左手の中指を自分の左耳の穴に押し込んで、先に入れた爪で鼓膜を破ろうとした。
『い…痛くない…?これなら…いける!』
なぁぁぁん……!!
相変わらず『声』は続いていた。
だが、彼には聴こえない。
彼の爪は鼓膜を突き破り、中耳にまで届いていた。
嬉しそうに笑みを浮かべながら、泣いていた。
上下も正誤も判らなくなった静寂の世界の中で、彼は更に爪を押し込んでいく。
既に正常な判断は出来なかった。
『音』の消えた世界で、彼は安堵していた。
彼の這いずった道には擦れた血の跡。
右半身は動かない。左手の中指は耳の中。
激しい恐怖と突き抜けた痛みは、彼から思考を奪っていた。
◆
なぁぁぁん……!なぁぁぁん……!
笑いながら『鳴く』彼の足下に、『女』が居た。
凄まじい『悪臭』を伴って、それは『物体』として立っていた。
哀れみを湛えた泣きそうな瞳で、笑う彼を見下ろしていた。
内耳まで傷付け、上下も左右も判らなくなった彼には、目の前の『女』が見えていなかった。
『女』はゆっくりと彼に跨った。
白骨の様な細く白い両膝で、彼の脇腹を押さえる。
細く小さな右手で、尚も左耳の中に爪を刺し込み続けている彼の左手を掴む。
細く小さな左手で、ずっと『鳴き』続けている彼の口を押さえた。
『駄目…お願い……静かにして……』
『女』は強く、とても強く押さえた。
『ゴメンね…ゴメンね……泣かないで…』
『女』から溢れ出す『涙』は悪臭を伴った。
『ゴメンね…。泣かないで…アタシの赤ちゃん…』
『女』の破れた皮膚からは、『血』ではなく『汚泥』が漏れ出していた。
彼女の左手の下にある中神の口の中から、ゴボゴボ…という低い音が漏れ聴こえる。
ヘドロの様な粘性の気泡が、押さえつける『女』の左手と彼の口の隙間で膨らむ。そして弾ける。何度も…何度も…。
『お願い…泣き止んで…
あの人が怒るから…静かにして……』
押さえつけられている彼の身体が激しく痙攣した。
『女』が押さえつけている時、トイレの中から声がした。
声の元は開けっ放しの点検口の中から。
真っ暗な闇の中から、低い男の声が響いた。
『うるせぇぞ!眠れねぇじゃねえか!
そのガキ、早く黙らせろ!!』
『女』の身体がビクッと跳ねた。
『女』は中神の身体を強く押さえながら、『ゴメンね』を繰り返した。
『女』が『ゴメンね』を10回言い終わる頃には、彼の身体はピクリとも動かなくなっていた。
『女』の『身体』はあちこちが破けていた。
『女』の『茶色い血』が中神の制服を濡らしていた。
彼の口からは、『女』の流した『血』が溢れ出ていた。
◆
なんで居るかな…
深夜発報だけ15分遅れて鳴る様に細工しておいたのに。
発報してから見に来れば、『彼女』に遭わないで済んだのに……
「…ああ、そうだ。15年前と同じ…。
処理は…そう。頼んだ…」
男は点検口を元に戻し、脚立を担いで三階売り場を後にした。
今回は王道です。
元凶や原因なども書きましたが、蛇足と思い、消しました。




