四
客先の工場から宿へ戻り、いそいそと街へ向かう。港近くから例の川沿いの道へくると靄がかかる。
倉田は毎夜女と会うようになった。
橋の上で偶然再会した翌日、三度目もあるのではないかとクラシック喫茶に行くと期待通り女がいた。また隣り合ってしばらく音楽に耳を傾け、いっしょに店を出た。その翌日も約束はしていなかったがやはり同じ喫茶店で会った。女は先に来ていて倉田を見つけると嬉しそうに微笑んだ。その日もやはりいっしょに店を出て肩を並べ歩いた。靄のかかる橋の上で立ち止まる。
「クラシック音楽が好きなんですか」
倉田が尋ねると女は困ったように微笑んで首をかしげた。
「好き、なんだと思います」
明るいグレーのストールに顎を半ば埋め倉田を見上げた女はぽ、と頬を赤らめ視線を逸らした。
「ああいう音楽を聴いたのはずいぶん昔のことで――改めて聴いてみたら好きかも、と思いました」
女自身の好みなのにずいぶんあやふやだ。今度は倉田が首をかしげる。
「私、つい最近まで家に閉じこもりっぱなしでしたから、ものを知らないんです」
ぽつぽつと語るのを倉田なりにつなげてみると、どうも女は先頃伴侶と別れたらしい。離婚か死別か、気になるものの踏み込むのが憚られる。元伴侶というのが悋気深い性質だったのか、女はあまり外に出たことがなかったのだという。
「許せませんね、その男」
「――そう、でしょうか」
困ったように微笑み、
「私はそう思わなかったんです。不満はありませんでした」
川面へと視線を逸らした。頑なな表情からうかがえる元伴侶への思慕がまぶしい。しかしそのまぶしさは心で眠っていた熾火をちりちりと刺激する。苛立ちを倉田は心の奥底へ隠した。
元伴侶に反発を覚えたものの、橋の欄干に両手をつく女の横顔を眺めていると
――無理もないかなあ。
とも思う。三十歳は超えていそうなのに靄のかかる川面を眺める女の表情はあどけなく、庇護欲をそそる。元伴侶の仕打ちは庇護の域を超えていたようだが、どこか幼いこの女を手もとに囲い込み外へ出したくなくなる気持ちも分かる気がした。
「このところ落ち着いていたんですが、主人はよく女の人と――」
――監禁紛いの囲い込みだけでなく浮気まで……!
ぎょっとする倉田に構わず女は懐かしむように元伴侶のことを語った。
「女の人と出かけた話をしてくれました」
映画とか、美術館や博物館めぐりとか、公園とか、旅行とか、と女は指を折って数えた。
「――こういっちゃなんですが、よく我慢されましたね」
「我慢? ええ、まあ、ひとりで置いていかれるとさびしいとは思いましたけれども」
元伴侶は女の人のよさにつけこんでやりたい放題だったようだ。
「楽しそうに主人が話すものですから、私も一度行ってみたくって。ひとりになってしまいましたしぶらっと旅行でも、とこちらへまいりました」
本人が平気そうにしているから深刻な感じがしないが、相当ひどい目に遭ったのではなかろうか。死んだんだか別れたんだか知らないが、元伴侶に文句をいいたくなった。しかし目の前の女にそれをぶつけたところで詮ない。
「行きましょう、映画」
倉田の提案に女は目を瞠った。
出張はあと少しで終わる。ひとり旅をしているという女がいつまでS市に滞在しているか分からないが、そう長くはないだろう。毎夜喫茶店でともに音楽を聴き橋の上で別れる前に少しだけ会話を交わす。それだけでなく、できればあともう少し踏みこみたい。
「映画……はい、行ってみたいです」
女がふんわり笑った。