三
宿で作ってもらった弁当を広げると中原がやってきて向かいに陣取った。中原の弁当は食べ盛りの子どもらとおそろいだとかで、唐揚げだの卵焼きだの、なかなかに食べ応えのありそうなメニューだ。
「いいことありました?」
中原がにっこり笑んだ。
「はい?」
「倉田さん、今日あんまりスマホいじんないでしょ。だから――ああ」
中原の表情が沈んだ。
「勘違いでしたかね、すみません」
「いや、いつもお気遣いいただいて、こちらこそすみません」
気のいい中原をしょんぼりさせたのがいたたまれない。十五歳の飼い猫が行方知れずになったこと、ペット探偵に捜索を、いつ猫が戻ってきてもよいようにペットシッターに餌や水などの手配を依頼していること、日に一回探偵とシッターから報告のメールが届くが今のところ吉報はないことを倉田は訥々と語った。喫茶店で出会った女のことは何となく話せなかった。
「それで気晴らしに夜の街へ繰り出した、と」
「ええ、まあ」
――夜の街って……。
勘違いされているような気がする。確かに昨夜は気晴らしに出かけたがただうろうろと散歩して喫茶店に寄っただけだ。もごもごと言いよどむ倉田に構わず、中原は丸い顔面いっぱいに笑みを広げ
「じゃあ今夜も、行っちゃいましょう」
くいっとエアなグラスを傾けた。
中原の案内で向かったのは居酒屋で、地魚と地酒に舌鼓を打ったのだがこの一軒ではすまなかった。「次、次行きましょおおお」と普段よりさらに機嫌がよくテンションの高い中原に引きずられて入ったのは港にほど近い一角にある「波止場」という名のスナックだった。
「あら、なかちゃーン、ご無沙汰ね」
カウンターの内側からハスキーな声がかかった。声の主は男なのか女なのか、判別しづらい見た目をした老人だった。ラメがきらきら光る黒いニットの中で細い体がぶかぶかと泳いでいる。深い皺に半ば埋もれた目が炯々と光っている。
「この人ね、倉田さん! 東京の人!」
中原の機嫌はゲージ満タンどころか突き抜けてしまっているようだった。だっはっは、と機嫌良く笑って呑んで意味もなく肩をばんばん叩かれる。はじめは客がいなかった店内もだんだんと人が集まりはじめ、賑やかになってきた。酒の力を借りているからか、普段は苦手としているこうした雰囲気も悪くないと感じる。
「はい、ボトル」
中原がキープしていたものと同じウィスキーを注文した。東京に戻るまでに呑みきるとも思えない。中原に呑んでもらうために同じものにした。
「なかちゃン、ご機嫌ねえ」
「いつもはそうでもないんですか」
「いンや、いつもどおりさね」
中原は常連客と挨拶を交わし、ひと言口にするたびに「だっはっは」と大笑いしている。新しく入れたボトルから酒を勧めると老人は「嬉しいねえ」と機嫌良く相好を崩した。
「倉田さンさ、――ボトル入れてくれたお礼といっちゃなンだがひとつだけ」
賑わう店内をひととおり見渡して老人は倉田を見た。目に猛禽類のような鋭い光が宿る。
「悪いこたあいわない、よしときな、その女」
「はい?」
どういう意味か、問い返そうとする倉田の声は「ママ、オレとも呑んでくれよおおお」と割って入った胴間声に遮られた。
したたかに酔った中原を「波止場」の前で馴染みだという運転代行業者に託して倉田は歩き出した。潮が香る。
――よしときな、その女。
「波止場」老店主の猛禽類のような目が見た女というのは誰だろう。
――考えるまでもないか。
昨日からずっと倉田の胸の奥でふわふわと居座りつづけるあたたかいようなくすぐったいような何かの真ん中に喫茶店で隣り合ったあの女がいる。
「よしときな、か」
いつの間にか倉田は橋の上に立っていた。石造りの家々、街灯と枝垂れ柳、小さな川から立ちのぼる靄は昨日より濃い。
「波止場」の老店主の警告めいた言葉が倉田の心に引っかかった。自分は恋をしているように見えたのだろうか。初めて恋を知った少年のように明け透けだったのだろうか。倉田は橋の欄干に肘をつき靄に包まれた川面を眺めた。
――恋、か。
三十代も半ばにさしかかり、倉田もさすがに恋愛に初心でいられない程度に経験がある。それでも昨夜喫茶店で隣り合っただけの女に惚れてしまうほど堪え性がないわけではない。だからこれは恋ではない。だいたいこれまでの恋人はあんなに儚げではなかった。倉田の好みは太陽のように明るく包容力のある女だ。こちらが話題をつくってやらなくても楽しげにしゃべり、疲れていれば胸を貸してくれる、地母神のような女だ。
――きっと、ゲイルがいなくなってしまったから。
どこかゲイルを思わせる雰囲気をした女が気になっているだけだ。だから昨日の女が気になるのは恋情ではない。そのはずだった。
「こんばんは」
振り返ると女が立っていた。街灯の明かりでアッシュグレーの髪が透き通るように輝く。目を細め微笑むさまが猫のようだった。胸の奥のふわふわの中でばらばらになっていた美しく好ましいディティールが目の前で女の形になった。




