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 S市は東京より温暖な地にある港町だ。夏場は海水浴客が多く訪れるが晩秋の今は人出が落ち着いている。だからだろうか、完全に日の落ちた今、閉店しているところが多い。S市は周辺の温泉街に比べると格段に規模が大きい。コーヒーショップのひとつやふたつ、あるだろうと高をくくっていたが見当たらない。その代わり紅灯がやたら目につく。しかし今夜は酒を飲む気分じゃない。ひとりでスナックに行ったところで遠巻きにされるならまだしも、構われ倒されてはかなわない。人恋しくても人と距離を置きたい、そんな(こじ)れた気分なのだ。


――喫茶店は開いてないな。


 潮が香ってきた。港が近い。思いの外歩いたようだ。仕方ない。缶コーヒーでも買うとしよう。つらつらとそんな考えにふけっていたのがいけなかったか、気がつくと橋を倉田は渡っていた。見覚えのない辺りだが同じ街の中だ。明るいほうへ歩いていればいずれ中心部へ出るだろう。迷ったら流しのタクシーでもつかまえればいい。ひとりで宿の部屋に閉じこもるのが何となく嫌で倉田は川沿いの道を歩いた。小さな川を挟んで石造りの家々が並んでいる。街灯が枝垂れ柳の葉を照らす。川から立ちのぼる(もや)で光も暗がりもやわらかくかすむ。

 ふと目を上げると


――喫茶店だ。


 明るい看板が見えた。助かった、そんな気持ちで店に入った。わわーん、と弦楽器の音に包まれる。薄暗い店の奥に大きなスピーカーと、ぎっしりとレコードが詰まった棚が見えた。


――名曲喫茶か、珍しいな。


 倉田自身はあまりたしなまないが、亡くなった母親が好んでクラシック音楽を聴いていた。CDをかけるとまだ子猫だったゲイルがやんちゃをやめ不思議そうに、音楽に耳を傾ける母親を見上げていたものだ。


「いらっしゃいませ。どうぞ」


 細身の店員がす、とカウンターへ導く。

 暖房が効いていてあたたかい。空いている隣席に脱いだジャケットを置いた。

 店内はそこそこに混んでいる。きっと倉田のように夜のひとときを喫茶店で過ごしたい人々が集うのだろう。客は皆静かにしている。目を閉じて音楽に聴き入る者、本を読む者、連れと小声で囁き合う者、過ごし方は様々だ。すすけた壁、テーブルや椅子などが琥珀越しに見るような色合いに古びている。

 注文したホットコーヒーを前に倉田も携えていた文庫本に目を落とした。コーヒーの香り。どこか懐かしい穏やかな音楽。時折微かに混じるスクラッチノイズ。静かにしていても伝わる店員や客の気配。適度に近く、かといって近すぎないこの距離感とあたたかさが心地よい。


――ここにゲイルがいれば完璧なのに。


 ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えたような気がした。またメールを確認する。受信トレイを隅から隅まで探しても望む知らせは届いていなかった。仕事中は思い出さないよう努めていたことがずっしりと重くのしかかる。つかんだスマートフォンを額にいただくようにあて目を閉じる。ストラップに付けたカメオのチャームが大きく揺れ頬を叩いた。


「お隣、よろしいですか」


 静かにかけられた声に倉田の肩がびくりと震える。振り向くと女が立っていた。


「ゲ」

「げ?」


 女が首をかしげ困ったように微笑む。


――危うく「ゲイル」って呼んでしまうところだった。


 緩くウェーブのかかったショートボブの髪色がアッシュグレーだったからか、あるいは首に巻いた明るいグレーのストールがゲイルのやわらかいサバ白の毛のイメージに結びついてしまったのかもしれない。それにしても見も知らぬ女性に向かって猫の名を呼んでしまいそうになるなんて――。


「失礼しました、どうぞ」

「ありがとうございます」


 女はするりと優雅にスツールに腰かけた。年の頃は自分より少し年下、三十過ぎあたりか。


「?」


 女がちらりと目を向け、また困ったような笑みを浮かべた。不躾(ぶしつけ)にじろじろと見てしまったようだ。倉田は慌てて手もとの文庫本に視線を戻した。頬が熱い。

 髪の色だけでなく、女は肌が白く瞳の色も薄かった。いわゆる美形と評されるタイプの顔かというとどうだろう。しかし倉田の目には美しく見えた。そして細身の女の色素が薄く透き通った感じが、やはり帰ってこない愛猫を思わせた。首輪代わりのチョーカーにつけていたカメオのチャームを指で撫でる。


――だめだ。戻ろう。


 本の内容も頭に入らない。それに明日も仕事があるから夜更かししたくない。ジャケットをつかみ立ち上がろうと腰を浮かすと女が申し訳なさそうに倉田を見た。


「お気に障りました?」

「まさか……!」


 倉田の声は少々大きかったようだ。しー、しー、と女があたふた唇に人差し指を当てる。倉田もまわりの客や店員に頭を下げた。


「いやその、明日も仕事で朝が早いので。お先に」


 そうですか、と首をかしげ女は


「じゃあ、また」


 と微笑んだ。

 喫茶店を出てしばらく、倉田はふわふわとした何かに囚われていた。目の前の景色と意識がぴったり歩調を合わせたのは、宿のある高台を目指し坂道を上っているところだった。どこをどう歩いたのかまるで覚えていない。


――「また」って言ってたな。


 部屋に戻ってもまだ倉田の胸の奥にふわふわが残っていた。喫茶店で出会った女の姿、その全体像はほろほろと記憶から崩れ落ちつつあるのに、――明るいグレーのストール、白い頬、その頬にやわらかく影を落とすアッシュグレーの髪、色素の薄い瞳――ディティールは断片のまま鮮やかにふわふわの中で漂っている。


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