それが、わたしの夢
リタの登場は『ハルト』にとってある程度予測できるものであった。なぜなら、以前にリタが『マユ』と知り合いであることを言っていたからだ。
「運命の使者?一体誰なの」
『まゆ』は一歩下がって問いかけた。両手を合わせて胸につけている。明らかに怯えている様子であったが、リタは関係なく話を続ける。
「夏野まゆ様、あなたには世界を選択する権利が与えられています。そのことについてお話したいことがございますので、一緒についてきていただけませんか」
「ちょ、ちょっと待って。わたしはここではるとを、待たなくてはいけないのよ」
『まゆ』は必死になりながらリタに食い下がった。小さな声ではあるが必死の反撃であると、『ハルト』は思った。しかし、リタは露骨に眉間にしわを寄せて不機嫌な表情を見せていた。
「では、言い方を変えましょう。はると様をお救いになりたいのなら、私についてきなさい。今のあなたにはそれ以外に彼を救う道はないのです」
リタの宣告に『まゆ』は目を丸くした。
「今、何て言ったの……」
「あなたには私の言うことを聞く以外に幼なじみを救う方法はない。そのように申し上げたつもりですが、伝わりませんでしたか?」
リタは厳しい口調で『まゆ』に問いかけている。『まゆ』も言葉を絞り出すように反論する。
「そんなことは……あなたの言っていることは嘘よ!」
「いいえ。私についてこないのなら、浦上はると様は百パーセント、お亡くなりになります」
「そんなはずない!」
『まゆ』は珍しく大声を上げた。そして、両手で顔を隠しながらその場に泣き崩れてしまった。
「そんなことがあるはずない。第一、あなたみたいな突然現れた人にそんなこと言われて信じろなんて無理に決まっている!」
「私はあなたが許容できる範囲の限界を確かめに来たのではありません。運命の使者として、このままの世界を選択した場合の可能性について説明させていただいているのです」
リタは事務的な口調で対応していた。『ハルト』はリタの様子に疑問を抱いていた。『ハルト』が現実世界でリタに初めて会った時は、リタはもっと余裕を持って『ハルト』に対応しているように思えた。しかし、今、この世界で『まゆ』に質問しているリタは法に忠実な官吏のような受け答え方である。
・・・オレの知っているリタと違う
『ハルト』がそのように思っているのも束の間、泣き崩れている『まゆ』に対してリタはゆっくりと近づいてきた。床にしゃがんで泣いている『まゆ』を見下ろすようにしながら、リタは吐き捨てた。
「いいかげんにしなさい!」
大きな声に驚いた『まゆ』はリタのことを見上げた。両手に覆われていた顔には二筋の涙の跡が残っていた。
「夏野まゆ様、あなたには幼なじみを救うチャンスが残されているのです。今はそのチャンスをどのように使うべきか考える時です。泣くのは後でもできるではないですか」
先程までの厳格な役人のような言葉とは異なり、『まゆ』に寄り添うような言葉を選んでいる。
「ここでは落ち着いて話もできません。この病院の裏に公園があるのですが、そこで二人で話しませんか?」
「……はるとを、救えるの?」
『まゆ』はリタの目をじっと見つめていた。『まゆ』にメガネのレンズを通してリタの瞳がどう見えたのか、『ハルト』には分からなかった。でも、やり取りを横から見ていた『ハルト』には初めてリタにあったあの時の燃えるような紅い瞳が脳裏に浮かんだ。
「あなたにはその機会が与えられているのです。そのことを踏まえてご説明させていただきます。立てますか?」
リタは『まゆ』の前に右手を差し出した。『まゆ』はリタの手を見てから、顔をもう一度見た。そこには優しく笑いかけるリタの顔があった。
「ありがとう」
『まゆ』はリタの右手をつかんでゆっくりと立ち上がった。
「では、参りましょう」
そういうと、二人は時が止まった病院の中を歩いていった。『ハルト』もすぐに二人の後を追いかけていく。
※ ※ ※ ※ ※
「ここまで来れば大丈夫でしょう」
病院の裏にある公園の中央まで来ると、リタは指を鳴らした。すると、北風が吹き始めた。辺りを走る車の走行音も聞こえる。時間が再び流れ始めた。
「では、早速ですが、ご本人確認から始めさせていただきたいと思います。まず、あなたは夏野まゆ様でお間違えございませんか」
「……はい」
「了解です。では、生体確認へ移らせていただきます。まゆ様、手をお貸しください」
『まゆ』はこの先どうなるのか不安そうにしながら指示に従っている。言われるがまま、右手を出すと、リタは握手をした。じっと三秒。
「はい、結構です。ご協力ありがとうございました。本人確認が取れましたので、ご説明を始めさせていただきます。夏野まゆ様、あなたは世界を変え……」
「お願い、早くはるとを助けて!」
『まゆ』はリタに迫るような前のめりの姿勢で話を遮った。
「あなたは、さっきわたしにはるとを救えると言った。とにかく、それが本当に出来るのか教えてほしいの!」
ぐいぐいと前に出てくる『まゆ』にリタが押されていた。
「夏野まゆ様、分かりました。分かりましたから、一度落ち着いて話をしましょう。そうですね、あのベンチで座りながら話をしましょう」
リタは公園の端にあるベンチを指差した。それは、『ハルト』がリタに拘束されて座らされたベンチであった。二人はそのベンチへ歩いていくと、並んで座った。
「では、簡単にご説明させていただきます。夏野まゆ様、あなたには世界を選択する権利が与えられました。この権利を行使することによって事実を変えることができます」
リタは一語一語ゆっくりとした話し方で相手が聞き取りやすいように話している。
「その権利を得るためには私と契約していただく必要がございます。契約は二段階でしてまず、仮契約をしていただきます。仮契約が済むと世界を選択する際に参考となる資料があなたに提供されることになります」
「資料?」
「はい、資料です。提供される媒体や提供するための方法は色々ありますが、なぜ、世界を選択する権利があなたに与えられたのか、その経緯や世界を選択する、つまり、一つの事実を変えることによって生じる未来について知ることができます」
『まゆ』は真剣に聞いている。『ハルト』にとっては聞くのが二度目になるので内容は把握しているが、初めてそんな話をされて、『まゆ』は理解できるのであろうか。
「最後に、本契約をして世界を選択する権利が行使されます。補足として付け加えるとするならば、この契約は一人の人生で一度しかできない契約となっています。また、仮契約の期限も定まっています。あと、十五分二十秒です」
「そ、そんなに厳密に定まっているの?」
『まゆ』は驚いて腕時計を見た。『ハルト』も公園の時計で時刻を確認した。現在の時刻が午後七時四十五分だから、午後八時ぐらいが仮契約の期限となるだろう。
「今回の契約はそのようになっています。それで、夏野まゆ様、契約などについて何か質問はございませんか?答えられる範囲でお答えします」
リタは優しく問いかけた。『まゆ』は少し間を置いて呼吸を整えてから話しだした。
「わたしの聞きたいことは一つです。あなたと契約すれば、はるとを救うことも可能なんですよね?あなたの言葉で言うなら、はるとの生きている世界を選ぶこともできるんですよね?」
「そのようなことも可能です。『世界』という言葉は『可能性』という言葉に置き換え可能だと言えるでしょう。きちんとした手続きを踏んでいただければ、あなたが、そのような可能性を選択することもできるということです」
リタは言葉を選びながら答えている。『ハルト』に説明していた時よりも丁寧に話を進めているようだ、と『ハルト』は二人の会話を聞きながら考えていた。『まゆ』は下を向き、また一呼吸置いてからリタの顔を見つめた。膝の上に置いた両手の握りこぶしに力が入っている。
「わたし、決めました。はるとを救います。あなたと契約します!」
『まゆ』はリタの顔をじっと見つめている。メガネ越しの『まゆ』の深緑色の瞳がリタの紅い瞳に挑みかかるように輝いていた。
「本当によろしいのですか?」
リタは『まゆ』に問い直した。
「はい、お願いします」
『まゆ』は、はっきりとした口調で答えた。
「分かりました。その意思、承りました」
そういうと、リタは両手を胸の前で二度大きく鳴らした。二人と『ハルト』はあの仮契約の空間へと移された。
※ ※ ※ ※ ※
「では、こちらにサインをお願いします」
そう言うと、リタは『まゆ』の前に書類とペンを置いた。それは、『ハルト』がリタと仮契約した時と同じセットだった。
「名前を書けばいいの?」
リタが首を縦に振ると『まゆ』はサインを書き始めた。
この契約の空間では、やはり周りの世界の時間が止まり、木彫りのイスと机が出てきた。『まゆ』をイスに座らせるとリタは、本人確認を行なってから、仮契約の内容について話を始めた。内容は『ハルト』が受けたものと変わらなかったが、『まゆ』はただ黙って聞いていた。最後まで特に言い返すこともなく、最後の意志確認もすぐに済ませてしまい、あとは書類にサインをするだけとなっていた。
「はい、できました」
そういって、『まゆ』はサインを終えて書類とペンをリタに返した。
「では、改めさせていただきますね」
リタはそそくさと確認を済ませると、『まゆ』の方を見た。
「大丈夫です。これで仮契約完了です。お疲れさまでした」
リタは座りながら頭を下げた。そして、ゆっくりと顔を上げた。『まゆ』はその一連の動きを黙って見ていたが、『ハルト』は『まゆ』が膝の上に置いた手をぎゅっと握り直していることに気がついた。アゴの丸みにそって汗が一筋流れている間に『まゆ』は一つノドを鳴らしていた。
「リ、リタさん。わ、わたしは、はるとを救えるんですよね?」
『まゆ』の声は震えていた。
「まゆさん、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。あなたには世界を選ぶための権利があり、その行使ができる状況なのですから」
リタにも『まゆ』が緊張していることが伝わっていて、『ハルト』は安心した。もともと、人の心を読むことができるリタのことであるから、『ハルト』のそのような心配は無用だったのかもしれない。しかし、今、『ハルト』の目の前にいるリタはどこか役人らしい一面が強く出ていた。だから、『ハルト』は心配したのだが、今のリタの言葉を聞いて胸を撫で下ろした。
「あ、ありがとう」
『まゆ』も笑顔で答える。病院で目を覚まして以来、はじめてかもしれない。
「では、今から資料を提供させていただく空間へ転送します」
そういうと、リタは指を鳴らした。
「うぅ……」
『まゆ』は苦しそうなうめき声をあげる。それはあの時の『ハルト』と同じ状況であろう。つまり、人間は資料をみせるためと言われた空間へはどうしても酔いやすいということである。
「申し訳ございません、人間の方にはこの空間酔いが耐えられないようですので」
リタはイスから立ち上がり、机の上に額をつけて苦しんでいる『まゆ』の隣まで来ると、背中をさすっていた。
「はい、もうすぐですよ」
リタは背中をさすりながらやさしく声をかける。すると、はじめは苦しそう声を出していた。しかし、『まゆ』の苦しさを訴えるうめき声も段々と小さくなり、そしてついに『まゆ』は動かなくなってしまった。
・・・ここまではオレと一緒だな
と、『ハルト』は考えていた。『ハルト』は仮契約を結んでからすぐに今の空間を飛ばされた。そして、今、目の前で『まゆ』が仮契約をして同じ空間に飛ばされている。ほぼ同じ経過だといっていいだろう。
・・・ということは、マユは俺みたいに色んなものを見せられるのか
そして、それに自分も付き合うのか、と『ハルト』は考えていた。
しかし、実際はそうはならなかった。なぜなら、『まゆ』がすぐに目を覚ましたのだった。
「おかえりなさい。いかがでしたが?」
目を覚ますまでの時間は数秒であったが、その間に『まゆ』の様子が大きく変わっていたことに『ハルト』は気づいた。幼なじみを助けるという義務感から緊張している様子が『まゆ』からは伝わってきていた。しかし、今『まゆ』は机の上にうつ伏せになりながら、小さな泣き声を上げて小刻みに震えている。風もない、時間も止まっている空間では、リタと『まゆ』の二人だけしか音の発生源はない。リタはずっと『まゆ』の背中をさすっていたが、特に声を上げていなかった。だから、この空間に響く小さな泣き声は『まゆ』だけのものだった。
「夏野まゆ様、資料は全て提供されました。あなたには世界を選択するために必要な情報があらゆる媒体を介して提供されたと思います。……心中を、お察しします」
リタは背中を撫でていた手を『まゆ』の頭に持っていきて撫でていた。
「私は運命の使者です。その役割はあなたの無数に存在する未来の可能性を選ぶためのお手伝いをすることです。ここであなたがなさった決定に私は全力でサポートさせていただきます」
リタは最後の一文を力強く述べた。それは、自信に満ちていたというよりも、自分を励ましていたように『ハルト』には聞こえた。対照的に、『まゆ』はずっと腕に顔を隠して泣いている。リタが頭を撫で続けていると徐々に泣き声も小さくなり、『まゆ』は顔を上げた。それは、ゆっくりとした動作だった。メガネを上げて、手で涙を払う。目の周りは赤くなっていた。
「わ、わたしが、今、見てきたものが、世界を選択するための、資料、なの?」
震えながら出ている『まゆ』の声は、細切れに言葉を運んでいた。
「そうです。あなたが今、見てきたもの、感じてきたものが世界を選択するために提供された資料です」
リタはゆっくりと説明する。先程まで頭にあった手は『まゆ』の背中を再びさすっている。それは『まゆ』の乱れた息遣いに合わせられていた。
「間違いは、ないんだよね」
先程よりは落ち着いてきた『まゆ』はひと言一言を丁寧に話している。
「間違いはございません」
リタははっきりと言った。その時に背中をさする手が一瞬止まったことを『ハルト』は見逃さなかった。すると、『まゆ』は一つ呼吸を置いてから、はっきりとした声でリタに問いかけた。
「だったら、わたし、来年死ぬの?」
※ ※ ※ ※ ※
「少し説明と補足が必要なようですね」
リタはそう言うと、再び『まゆ』の向かいの席に座った。『まゆ』は座ったリタの顔をじっと見ている。
「夏野まゆ様、あなたが資料、いや、世界と言った方が適当かもしれませんね。あなたの見た世界は今の世界とだいぶ違っていた。そのことがあなたを困惑させているのではないですか」
リタの問いかけに、『まゆ』は頷く。
「今、ご覧に頂いた世界はあなたが先程まで望んでいた世界です。つまり、あの事故がなかった世界、浦上はると様があの時に亡くならなかった世界です」
「ちょっと、それは、おかしくない、ですか?」
『まゆ』はリタの話に割り込んだ。
「わたしが今、見た世界では、はるとも、わたしもまるで別人だった。あの事故がなかったかのように、はるとは元気だった。ただ、はるとは、見た目は変わっていなかったけど、勉強も運動も得意ではなかった。それに対して、わたしは勉強も運動もできて、何でもこなしていた。まるで、二人の人生が入れ替わったみたいになっていた」
『まゆ』は一つ一つ言葉を選びながら、リタに訴えかけていた。リタも慎重な言葉遣いで答える。
「それは、あなたが世界の中の事実を変えたことによる影響だと考えられます。つまり、あなたが世界を、はると様があの事故で亡くなるという事実を変えたことによる影響があなたたちの過去や生き方にまで影響を及ぼしたということでしょう」
「過去にまでって、そんなことができるの?」
「あなたは、今、あなたがこの十六年間で培ってきた知識で説明できる状況に置かれていますか?」
リタのもっともな質問に、『まゆ』も黙ってしまった。リタは話を続ける。
「そんな質問はさておき。あなたが見た世界はこれから一年間の様子でしたよね?」
『まゆ』はうなずく。
「それは結構。では、夏野まゆ様、あなたは最後の結末まで見られたということですので、資料の確認は済みました。あと、今回の権利があなたに付与されたいきさつについて、説明させていただきます」
リタは、手続きを順序良く進めることに躍起のようだった。
「今回、あなたが世界を選択する権利を与えられたのは、浦上はると様による対価のお支払いがあったからです」
「対価って、はるとが、お金を払ったの?」
『まゆ』は真剣な顔で問いかけている。
「対価というのは、何も金銭的なものだけではありません。浦上はると様がお支払いいただいたのは今までの人生の輝きです。それは、はると様が日々努力を惜しまず、誰に対しても誠実に接してきたいわば、はると様の人徳のようなものです」
「もしかして、わたしが、さっき見たはるとは、その対価を支払ったせいで、今までとは別人みたいになっていしまったの?」
「いや、そういうわけではございません。あのはると様は、まったく別の原因です。先程申し上げました通り、あなた方の人生が入れ替わったことによる症状だと思われます」
リタはテンポよく話して説明していた。まるで、早く結論を出させようとしているようだった。
「他にご質問はございますか?」
『まゆ』はリタの話を聞きながら、ずっと頷いていた。リタの最後の質問には首を横に振った。その様子を見て、リタは姿勢を正して『まゆ』の目を見る。
「それでは、問います。夏野まゆ様。あなたは世界を選択する権利を行使しますか?」
『まゆ』は一つ深呼吸をしてから答えた。
「はい、権利を行使します。わたしは、浦上はるとが生きている世界を希望します」
「それは、あの事故をなかったことにするという事実の変更を行なうことになります。それでも、構いませんか?」
「はい」
『まゆ』は膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
「その事実の変更によって、あなたは翌年には亡くなることになるのですよ。それでも、その世界を選択しますか」
「はい」
リタはその返事を聞くと眉間にしわを寄せた。しかし、それを声にまで反映させないように気をつけながら、言葉を続けた。
「その意向、承りました。では、こちらの契約書にサインをお願いします」
※ ※ ※ ※ ※
「まゆ様、これは私の個人的な質問なんですが、よろしいでしょうか」
リタが書類にサインを済ませた『まゆ』に問いかけた。『まゆ』は頭を縦に振って答えていた。
「少し言葉が荒っぽくなりますが、お許しください。なぜ、このような契約を結ばれるのですか。あなたには何のメリットもないように思われます」
リタが言葉の通り、まっすぐな質問をぶつけてきた。その質問はこのやり取りをただ脇から聞くしかない『ハルト』がもっとも気になっていることであった。
「それは、わたしが、はるとのことを……」
『まゆ』は頬を赤くして恥ずかしがりながら、言葉を詰まらした。そんな態度がリタの眉間で止めていた感情を溢れさせた。
「あなたが、はると様に好意をずっと抱いていらっしゃることは存じ上げています。しかし、あなたの命を差し出してまで救う人間が、普通の凡人になってしまうのですよ。そして、あなたが彼の代わりにお亡くなりになる必要があるのですか」
リタは堰を切ったようにしゃべり出す。その濁流のような勢いにもかかわらず、『まゆ』は微笑んだまま聞いていた。そのことが余計にリタの怒りを買った。
「あなたは、好きな人を助けられて満足かもしれない。けど、そんなことに何の意味があるというのですか?あなたは、一年後に亡くなってしまうのですよ」
リタは身を前に乗り出して話している。
「確かに、あなたは今までとは比べ物にならない輝いた余生を手に入れるでしょう。勉強やスポーツなどが全て上手くいく。だけどですね、それはただ座っていれば手に入れられるものではないんですよ。毎日遅くまで勉強して、厳しい練習に耐えて初めて得られるものなのです。そのような苦労をあなたにできるのですか?」
リタは机の上に握りこぶしを作った。
「人生は変わってもあなた自身の中身までは変わりません。好きな人にずっと自分からは声をかけられず、声をかけてもらったら嬉しく思い、話しているうちに、自らの不甲斐なさに心を痛めているような人間にそんな孤独な努力ができるのですか?あなたは、余命一年の宣告をされて、なお、苦しみを、あなたの性格では耐えられないような人生を過ごさなくてはならないことに耐えられるのですか?」
リタのまくし立てる口調に『まゆ』の様子を心配した『ハルト』はいつもでは見られない光景を見た。『まゆ』が微笑んでいたのだ。威圧するような口調にもかかわらず、いつも気弱な姿勢を見せていた『まゆ』がリタの怒りを笑ってやり過ごそうとしていた。
しかし、それが、リタの怒りを爆発させた。握りしめたこぶしを机の上に叩きつけ、その場に立ち上がった。無音の空間にリタの座ったイスが倒れる音が響いた。
「あなたは、この出来事が夢だとでも思っているのですか!これは現実です。あなたは今、ここで自分が一年後に亡くなるという契約を結んでいるのですよ。こんな理不尽な契約を結ぶなんて普通では考えられないことです。確かに、はると様とは、あなたにとって大切な人、失いたくない人なのかもしれません。でも、あなたは自分自身をもっと大切にするべきではないですか!何で、そんなに命を粗末にするのですか!」
リタが、言いたいことを言い切ると両手を机の上についた。肩で息をしながら、乱れた呼吸を整えている。
「わたしは、自分の命を粗末なんかにしてないよ」
『まゆ』はゆっくりと口を開いた。
「わたし、考えたんだよ。あの世界、事故がなかった後の世界のはるとを見てね。どうして、この男を好きになったのかって」
『まゆ』は立ち上がった。
「あっちの世界のはるとは、本当に何をやらせても、ダメでね。けど、まったく出来ない訳ではない。いくらやっても人並みにできるのが精いっぱいって感じだったんだよね」
『まゆ』はゆっくりと机の反対側にいるリタに近づく。
「それに対して、わたしはすごかったよ。自分で言うのも恥ずかしいけど、あんなに目覚ましい活躍してさ。本当に自分なのかって自分の目を疑っちゃった。わたし、あんなにがんばれるんだってはじめて思えたの」
そして、リタの上下運動をしている肩にそっと片手を添えた。
「でもね、一つ変わっていないことがあったの。それは、とても出来ているわたしも、やっぱり、はるとのことが好きだったんだよね。あんなにダメダメだったのに、自分にはもっといい男の人が言い寄ってきた。けどね、やっぱり、はるとを選んでいたんだよ」
「そのようなことが、分かるのですか」
リタは下を向いたまま話していいた。そんなリタの問いに『まゆ』は笑みを浮かべて答え始める。
「分かるよ。だって、わたしだもの。確かに、はるとは、すごい才能をもっていなかったけど、中身はまったく変わっていなかった。誰に対してもやさしく、わたしのような人間に対しても、何にも恐れることなく、昔のまま付き合ってくれた。もちろん、周りの人たちの中にはわたしを慕ってくれる人もいた。けどね、非常に出来るわたしってね、今のわたしと大して変わってないの。いつも、寂しいんだよ」
『まゆ』は机の周りを歩き出した。話はゆっくりと続けている。
「今のわたしは好きな人に近づけないってことですごく寂しい思いをしていたの。こんな釣り合わない恋をしてはいけないって。そのことが、はると、と会話をする時にずっとわたしの心をずっと痛めていた」
『まゆ』は下を向き、後ろで両手を握りながら歩いている。。
「けど、できるわたしも一緒だった。本当に好きな人の近くには、なかなかいけなかった。全てを勉強とスポーツに打ち込んできたからね。けど、本当は、寂しかったみたい。出来る人には出来る人に対するプレッシャーだの期待だのっていうのに一人で悩まされていたみたい。だって、ずっとわたしの心を痛めていたのだもの。それは、わたしが、はるとに対して抱いていた、釣り合わないっていう気持ちと同じ痛みだったの」
『ハルト』は自分の胸に手をあてた。あの胸の痛みはもしかして、『まゆ』の心の痛みだったのではないか。そのように『ハルト』が思っていると、『まゆ』は机を挟んでリタの反対側まで歩いてきた。自分が座っていた位置で立ち止まると、ひとつ、深呼吸をして話を再開した。
「けど、そんな時にはるとは、わたしに気さくに声をかけてきてくれた。わたしを普通の幼なじみとして扱ってくれた。何でもできるわたしも、それに喜んでいたと思う。わたし、その様子を見て気づいたんだ。わたしは、この男の中身に惚れたんだってね。」
『まゆ』の屈託のない笑顔を『ハルト』は久しぶりに見た。
「そしたら、何だか気持ちが軽くなったの。自分が惚れた男のどこを好きに分かったことが嬉しかった。自分は、見た目やその活躍とか言った表面的なものに好いているんじゃない。その人のやさしさ、本当にもっているやさしさに惹かれたんだって気づいたの。そしたら、なんだか自分に自信が湧いて来たんだよね」
『まゆ』は再び机の周りを、先ほどと同じ時計回りに歩き始めた。
「たぶん、その思いに何でも出来ちゃうわたしも気づいたんだと思うよ。けど、あの事故が起こってしまった。あの事故は、今でも思い出したくないな」
『まゆ』は右手を胸の前にもってきた。ぎゅっと力を入れて胸にあてた。
「わたしだって、ただ単に死にたくない。けど、それ以上に嫌なのは、はるとが、こんなに自分に自信を持たせてくれたはるとが、死んじゃうことだよ!」
『まゆ』は一段と語気を強めた。リタは先程からピクリとも動かずに『まゆ』の話を聞いていた。
「わたしが目立たない人間でも、わたしが活躍している人間でも、ずっとわたしのことを、変わらない態度で接してくれたただ、唯一の人、それが、はるとなんだよ。そんな人を失いたくはないの。それがわたしの願いなの」
「ですが、あなたは、そのために命を落とすんですよ。あなたが、好きな人とずっと一緒にいれるという可能性はゼロなんですよ」
リタは下を向いたまま話している。『まゆ』は再びリタの肩に手を添えた。
「それでもいいの。わたしね、ずっと願っていたことがあるの。わたしはずっとはるとに対して自信をもって話をしてみたいって思っていたの。わたしは、人に積極的に話せる性格ではなかった。それは、たぶん、自分に自信がなかったのね。ずっと、自分は優れた人間ではないと思っていたから」
「そんなことは、ありません。あなたは十分に素晴らしい人間です!」
リタは肩に置かれた手を取り、『まゆ』に迫った。
「あなたは世界の選択をしなかった時の未来も考えるべきです。あなたが、その後、ショックから立ち直る姿をご覧になるべきです。あなたはまだ生きられるのですよ!」
リタの迫力に一瞬たじろいだ『まゆ』だったが、すぐに体勢を立て直して、話し始める。
「リタさん、ありがとう。けどね、はるとのいない長い人生なんて、意味がないの。わたしがこんなに自信をもっていられるのは、自分が好きになった男が間違っていなかったっていうことだから。その自信に満ちた態度で、わたしは、最後まではるとに向き合っていたい」
『まゆ』はリタの手を強く握り返した。深緑色の瞳がリタの真っ赤な瞳を映し出している。
「それが、わたしの夢。はるとは、ずっと、わたしにやさしくしてくれた。でも、一方的なやさしさはもういいの。これからはわたしも、はるとにやさしくできる、はるとを勇気づけられる、はるとに自信をもたせてあげることができる関係になりたい。それがわたしの夢。その夢が現実となっているのが、わたしが見てきた世界。わたしが選ぶ世界よ」
※ ※ ※ ※ ※
「けど……」
リタは何か言い返そうとして言葉が詰まってしまった。何かを言い返したくても、『まゆ』の輝いている深い緑色の瞳がリタから言葉を奪った。はっきりとした自己主張をする瞳がリタを拘束していた。
「リタさん、ひとつ確認したいことがあるの」
『まゆ』は手を握りながら声をかける。
「な、何でしょうか」
「あなたは、さっき、世界を選択する権利の対価について何か言っていたわよね」
「はい、言いましたが、それが何か」
『まゆ』の問いにリタは首をかしげている。
「詳しく聞かせてほしいの。どうすれば、その権利をもらえるのかっていうことを」
今度は『まゆ』がリタに詰め寄った。
「あまり詳しいことは申せませんが、その人の行為が対価として認められれば、世界を選択する権利付与されることになっています。しかし、具体的な数値や基準といったものはありません。ただ、その人の行為が善いのか、悪いのかが判断され、決定に関するひとつの指標となっているようです。私自身も、詳細については知らされていないというのが、本当の所です」
リタは『まゆ』から目線をそらした。『ハルト』の方に振り向いた瞳は半分閉じていた。リタでさえ
『まゆ』に押されて、困っているようだった。
「ちなみに、わたしの今までの行為は今、対価として認められるの?」
「それは、答えられません。ただ、人生の行ないが理由となって認められる人は極わずかです。ほとんど、いないと言ってもいいぐらいです」
リタは少し考えながら答えていた。『まゆ』は返事を聞くや否や、再び尋ねる。
「それってさ、これから一年間、本当にいいことをしていれば、何とか対価としてみとめられるの?」
「かなり難しいです。しかし、まったく可能性がないという訳でもありません。私でも明確な基準値やどのような行為に対して評価されるのかが分かりませんから。そんなことを聞いて、まゆ様は、何をお考えですか?」
リタは再び顔を『まゆ』の顔を見ている。『まゆ』の瞳を見ながらリタは答えていたが、何かを感じ取ったらしく、慌てた様子で聞き返した。
「まさかとは、思いますが……残りの一年で、対価として認められる行為をしようとお考えですか?」
「うん、そう」
『まゆ』はあっさりと答えた。リタがその答えに驚いて目を丸くしているのに対して、『まゆ』はリタに企みが見透かされたところで、表情を変えるようなことはなかった。
「お、お忘れかも知れませんが、夏野まゆ様。世界の選択はその人の人生において、一回しかできないものなのですよ。つまり、あなたが、対価に値する行動をして、世界を変えることができる権利として認めれようとも、今回の契約を行なっている時点で、あなたが再び世界を選択することはできませんよ」
「選んでもらうのは私ではないよ」
『まゆ』はオウムのようにすぐ答えた。それに対して、リタは少し間を置いてから尋ねた。
「まさか、はると様に選んでいただこうとお思いですか?」
リタの問いかけに、『まゆ』は首肯した。そして、『まゆ』が話を始める。
「今回だって、私の権利の選択は、はるとが基準を満たしていて、わたしが代わりに選んでいるものでしょ?だったら、わたしは余命一年間の中で、権利として認められることをたくさんやって、少しでも認められるようにしたいの」
「そんなことをおっしゃられましても。その人の行為が善行であったからという理由で認められることはめったにないのですよ」
リタは必死に説得している。しかし、その努力もむなしく、情勢は『まゆ』がリタに問い詰めているということに変わりがなかった。
「だから、そのためにリタさんがいるんでしょう?」
『まゆ』の唐突な話の展開にリタはポカンと口を開けている。どうして、そういうことになるのか、リタが問いかけようとする前に、『まゆ』が話を続ける。
「あなたは最初に言ったわよね。私の決定を全力でサポートしますって。だったら、サポートしてよ。わたしが善い行為をすることを手助けしてよ」
『まゆ』はリタに詰め寄る。前に出る『まゆ』に対して、それと同じかそれ以上にリタは後退しなくてはならなかった。
「いや、そ、それは……私たちは権利行使に関わる契約行為やその補助活動以外の世界への干渉が禁止されていますから、難しいかと」
「わたしは、何も直接手を貸せって言ってるんじゃないんだよ?わたしの行為が対価の評価として認められたかどうかとかを教えてくれればいいんだよ」
リタは規則に縛られているようで、その範囲内で何と話しているのに対して、『まゆ』は自由に言いたいことを話している。
「そのようなことが認められるのかは、上長の指示を仰がないといけませんので……」
「じゃあ、聞いてみてよ。リタさん!」
「少々、お待ちください」
リタはそう言うと、右手で側頭部を抑えた。ぴたっと三秒。
「確認いたしました。わたしがマユさんと一年間連絡を取ることに関しては許可が出ました。契約後のアフターケアを行なう部署があるのですが、そこにわたしが夏野まゆ様専任担当となって赴任することになりました。一年間、夏野まゆ様の携帯電話にメールで連絡を取り合うことができるようになります。しかし、評価に関する個別具体的な質問には答えられません。一般的なアドバイスのようなものしかできませんが、それでもよろしいですか?」
リタは説明し終わると、右手で額の汗をぬぐった。一つ仕事を片付けたことに対して一息ついたようだ。
「わたしは、それでいいけど、リタさんは?お仕事が変わっちゃうってことでしょ?」
『まゆ』はさっきまでの前に迫るような態度ではなく、一歩引いてリタのことを気づかうようになっていた。リタは一つ呼吸を置いてから話し出した。
「私も、覚悟を決めました。自分が未来で死ぬような契約を結ぶ人を他人になんて任せておけません。夏野まゆ様、私があなたのことを全力でサポートさせていただきます」
リタはまっすぐ『まゆ』の目を見ながら答えていた。
「だったらさ、早速ひとつお願いしたいことがあるんだけど」
「はい、どのようなご用件でしょうか?」
「私のことを夏野まゆ様って呼ぶのを止めてくれないかな?あなたは、これからはわたしの人生をサポートをしてくれるパートナーでしょ?だったら、もう少し肩肘のはらない言い方をしてくれないかな。その言い方だけで疲れちゃうよ」
『まゆ』はそう言うと、リタの正面に来て話を続けた。
「わたしは、あなたのことを、“リタ”って呼ぶから、あなたは、私のことを“まゆ”って呼んでくれない?」
『まゆ』は言い終えると、少し下を向きながら相手の返事を待っていた。
「あなたが、それを望むなら、そのようにいたしましょう。……まゆ」
最後の言葉は少し、遅れて出てきた。
「ありがとう。これから一年間、わたしを支えるパートナーとしてよろしくお願いね、リタ」
『まゆ』はリタの前に右手を出した。その意図にリタもすぐに応えた。リタが右手でしっかりと『まゆ』の手を握った。
「こちらこそ。あなたのことを支えていきますよ、まゆ」
※ ※ ※ ※ ※
「では、時間のようです」
握手をしている手とは逆の手で、リタは錆びついた金色の懐中時計を取り出して時間を確認しながら話している。
「分かったわ」
『まゆ』が答える。二人は手を離すと、お互いの顔を確かめ合い、そして、笑い合った。
「では」
そう言うと、リタは手を二回ポンポンと叩いた。
すると、世界が暗転した。
『ハルト』は最初何が起こっているのか分からなかった。目の前は真っ暗になり、自分が立っているのか、座っているのか、自分の身体の状態すら分からなかった。そして、次第に意識も遠くなっていった。
そんな時、一つの声が聞こえてきた。
「ハルト様、大丈夫ですか」
暗闇の中、聞こえてきたリタの声。
そう、ハルトは戻ってきたのだ。仮契約を結んだ契約の空間に。