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冒険者の宿屋アーポット亭/魔剣の中の悪魔  作者: 春夏かなた
第1部 赤き魔剣の章

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プロローグ:雨の日の出来事

6年前。


雨だった。


空を裂くような雨脚が、石畳も、家々の屋根も、道端の泥も、容赦なく叩いている。


そんな土砂降りの中、ひとりの少女が、傘も差さずにその場へうずくまっていた。


肩は濡れきり、髪は頬にはりつき、服は水を吸って重たそうに垂れている。


それでも少女は身じろぎひとつしなかった。


ただ、虚ろな瞳のまま、どこでもない宙をぼんやりと見つめている。


まるで、自分だけがこの世界から切り離されてしまったかのように。


そこへ、ひとりの長身の男が通りかかった。


トレントだった。


トレントは足を止める。


「…………」


何も言わない。


問いかけもしない。


ただ無言のまま少女の傍らへ歩み寄ると、静かに傘を差しかけた。


「…………」


雨が、少女の身体を直接打たなくなる。


けれど少女は顔を上げようともしなかった。


感謝の言葉もない。


驚いた様子もない。


ただ、相変わらず空虚な目で、宙を見つめ続けている。


それでもトレントは何も言わなかった。


立ち去ることもせず、


慰めの言葉をかけることもせず、


ただ黙って、少女の隣に立ち続ける。


激しい雨音だけが、ふたりのあいだを埋めていた。


どれほどの時間が流れただろうか。



「……っ」


少女の肩が、小さく震えた。


「…………」


わずかに眉をひそめた、その直後。


「こんなところにいやがったのか」


下卑た声が、雨音の向こうから割り込んできた。


ぬかるんだ道の先から、数人のチンピラたちが姿を現す。


どいつもこいつも、見るからに品のない連中だった。


雨の中だというのに、その顔に貼りついた卑しい笑みだけは、いやにくっきりと見える。


少女――レディは、何も言わない。


ただ、今にも倒れそうな足取りで、ゆっくりと立ち上がった。


「ほら、レディ。行くぞ」


チンピラのひとりが、乱暴にその腕をつかむ。


その時、チンピラはトレントと目が合った。


「……」


トレントは無言で男を見据え、身じろぎもしない。

トレントの右手がわずかに動き、すぐに固く握り込まれた。

「へん。」


チンピラは鼻で笑って、視線を外す。


「……いや」


消え入りそうな声だった。


怯えたように、レディはかすかに首を振る。


だが、その拒絶はあまりにも弱い。


「あぁ? 俺に逆らう気か」


苛立ちをにじませたチンピラが、次の瞬間――


パシンッ!


乾いた音が、雨の帳を鋭く引き裂いた。


容赦のない平手打ちが、レディの頬を打つ。


小さな身体が、その衝撃でふわりと浮き上がる。


けれど受け身を取ることもできないまま、無防備に地面へ叩きつけられた。


どさっ、と鈍い音が響く。


「……うっ」


苦しげな呻きが、わずかに漏れる。


だが、それきりだった。


泥の混じった雨に打たれながら、レディはそのまま意識を手放す。


「手間かけさせやがって」


吐き捨てるように言って、チンピラは倒れたレディへ近づく。


――その前に。


トレントが、静かに一歩踏み出した。


「な、なんだ。て……」


チンピラの言葉は、最後まで続かなかった。


ザンッ――。


一閃。


抜き放たれた刃が、男の喉笛を音もなく両断していた。


「が……っ」


短い呻きを漏らし、チンピラは地面に崩れ落ちた。


「ひっ……!」


「に、逃げろ!」


残ったチンピラたちの顔から、下卑た笑みが一瞬で消える。


次の瞬間には、蜘蛛の子を散らすように、一斉にその場から逃げ出していた。


だが雨は、なおも激しく降り続いていた。


「ぐえっ――」


背後から迫る一撃が、逃げ惑う男のひとりをあっけなく斬り伏せた。


トレントは止まらない。


逃げる者も。


腰を抜かして地べたに這いつくばっているものも。


命乞いの言葉を口にしかけた者すらも。


容赦なく、淡々と斬り捨てていく。


チンピラたちは抗おうとした。


だが、どうにもならなかった。


剣を抜くより早く斬られ、


踵を返せば背を裂かれ、


震える足で逃げようとしても、次の瞬間には泥の上へ転がっている。


雨の中、鈍い悲鳴と肉を断つ音だけが次々と響いた。


やがて――静寂が訪れる。


その場にいた男たちは、ひとり残らず地面に倒れ伏していた。


降りしきる雨が、倒れた連中の血を洗い流していく。


トレントは何も言わない。


ただ無造作に剣の血を払い、鞘へ収めた。


「…………」


短く沈黙したあと、トレントはレディのもとへ歩み寄る。


泥と雨にまみれ、ぐったりと動かない小さな身体を見下ろすと、


しゃがみ込み、無言のままその身体を肩に担ぎ上げた。


トレントは表情ひとつ変えず、レディを担いだまま踵を返す。


そしてそのまま、雨の降りしきる夜道を歩き出した。


黒々とした闇の中へ、


長身の男と小さな少女の姿は、やがて静かに溶けるように消えていった。


トレントの背が、雨の帳の向こうへ完全に消えていく。


その背中を、物陰からじっと見つめている影が二つあった。


ベルモア。

そして、ドーマ。


ふたりはしばらく無言のまま、闇の先を見つめていたが――やがてトレントの姿が完全に見えなくなると、ゆっくりと物陰から姿を現した。


「おやおや……ずいぶんと物騒な男だねぇ」


引きつった笑みを浮かべながら、ドーマは手の中の禍々しい球をふわりと掲げる。


その球体は、不気味な光を帯びながら、周囲の雨粒まで妖しく照らしていた。


「……こりゃあ、いいぞ」


ベルモアのぽつりと漏れた声には、隠しきれない愉悦がにじんでいた。


「なにがだい」


倒れ伏していたチンピラたちへ球の力を向けながら、ドーマは怪訝そうにベルモアを振り返る。


地に沈んでいた男たちの身体が、ぞろり、と不気味に起き上がりはじめる。


「あいつは楽しんで、人を斬ってやがった」


だが、そんな光景など意にも介さず、ベルモアは口元を大きく吊り上げた。


「奴は――悪だ」


次の瞬間、ベルモアは堪えきれなくなったように肩を揺らし、狂気じみた笑い声を雨の中へ響かせる。


「ははっ……はははははっ! ようやく俺にも運が向いてきたぞ!」


雨はなおも激しく降り続いている。


けれどその場に満ちていたのは、冷たさだけではなかった。


じわりと滲み出すような、不穏な熱。


それはまるで、新たな災いの芽が、闇の中で静かに目を覚ましたかのようだった。




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