二十八歳のぬるい夜
1
二十八歳という年齢は、驚くほどぬるい。
熱狂するほど若くはなく、かといってすべてを諦めて枯れるには早すぎる。
金曜日の午後八時、淀屋橋のオフィスを出て御堂筋を歩いていると、初夏の夜風がストールをすり抜けて肌にまとわりついた。梅雨入り前の、湿気を含んだ生暖かい風。それが、今の自分の人生そのもののようで、美咲は小さくため息をついた。
スマートフォンの画面が震え、画面に『香織』の二文字が表示される。
美咲はバッグの肩紐をかけ直しながら、通話ボタンをスライドさせた。
「もしもし、香織? 今、駅に向かってるところ」
『お疲れ、美咲。こっちも今、京橋の改札出た。いつもの店でいいよね?』
受話器の向こうから聞こえる香織の声は、少し疲れているようでありながら、どこか張り詰めたエネルギーを孕んでいた。高校の一年、同じクラスの隣の席になって以来、十四年間聴き続けてきた声だ。互いの声のトーンだけで、その日の精神状態がパーセント単位で把握できる。
「うん、いつものところで。私も今から京阪の特急乗るから、十分後くらいには着くと思う」
『了解。冷たいビール、先に頼んどくわ』
短いやり取りで通話を切り、美咲は地下ホームへと階段を下りた。
ちょうどホームに入ってきた京阪電車の特急に乗り込む。金曜夜の車内はそれなりに混み合っていたが、ドア近くの手すりに寄りかかり、ほっと息をついた。淀屋橋から京橋までは、特急ならわずか一駅、七分ほどの距離だ。この短い移動時間が、オンからオフへと頭を切り替えるスイッチになっていた。
窓の外を流れる暗闇を見つめながら、美咲は自分の「二十八歳」について考えていた。
インテリア関連の商社に勤めて五年。仕事は一通り覚え、後輩もでき、それなりに裁量も与えられている。大きな不満はない。しかし、劇的な変化もない。
恋愛にいたっては、半年前、三年間付き合って「なんとなく結婚するのだろう」と思っていた男に、突然「他に好きな人ができた」と振られて以来、完全に休業状態だった。
あの夜のことを思い出す。
別れを告げられた二時間後、美咲は香織のマンションの床に座り込み、コンビニで買い占めた缶ビールとハイボールの空き缶の山の中で、文字通り朝まで泣き明かした。
香織は文句一つ言わず、美咲の涙で濡れたティッシュの山を片付け、ただ隣で一緒に酒を飲み、時折「その男、見る目なさすぎ」とだけ言って、美咲の背中を叩き続けてくれた。
――男はいつか去るけど、私たちは一生モノ。
あの夜、朝日がカーテンの隙間から差し込んできたとき、二人の間で言葉にならなかった共通の確信がそれだった。
恋愛の不確かさに比べて、十四年かけて築き上げてきた友情という名のセーフティネットは、あまりにも強固で、美咲の人生の立派な背骨になっていた。
京橋駅の喧騒に降り立つと、居酒屋の赤提灯とネオンの光が、網膜をチカチカと刺激した。
目指すのは、商店街の路地を少し奥に入ったところにある、古いビルの一角。暖簾をくぐると、出汁と潮の香りが優しく鼻腔をくすぐった。二人が「いつものところ」と呼ぶ、大衆的でありながら鮮魚が抜群に美味い居酒屋だ。
「美咲、こっち!」
奥の小上がりから、香織が手を振っていた。
緩くウェーブしたミディアムヘアに、ベージュのリネンシャツ。アパレルブランドのプレスとして働く香織は、いつ見ても華やかで、どこか都会的な垢抜けた雰囲気を纏っている。だが、美咲の前で見せる笑顔は、あの高校の教室で購買のパンを分け合っていた頃と何一つ変わっていなかった。
「お疲れ様。今週も生き延びたね」
美咲が席につくと同時に、絶妙なタイミングでキンキンに冷えた生ビールが二つ、テーブルに置かれた。
「本当にお疲れ様。乾杯」
ジョッキを合わせる鈍い音が、一週間の終わりを告げるゴングのように響いた。
冷たい琥珀色の液体が喉を駆け抜けていく。その瞬間、脳の奥の硬い結び目が、するすると解けていくような感覚があった。
「ぷはぁ、生き返る。今週、まじで狂いそうなくらい忙しかった」
香織がジョッキを置き、ぷはっと息を吐きながら枝豆に手を伸ばす。
「展示会前だっけ? プレスってこの時期一番大変そうだよね」
「そうなの。服のデザインは良くても、見せ方一つで売れ行きが全然違うから、営業とか上層部からのプレッシャーがすごくてさ。あー、もう全部投げ出して南の島にでも行きたい」
「行こうよ、次の連休。沖縄でもどこでも」
「いいね、行っちゃう? 水着は無理だけど、美味しい海鮮と泡盛があればそれでいい」
香織はケラケラと笑い、お造りの盛り合わせを注文した。
届いたマグロの赤身と、ツヤツヤと輝く一匹丸ごとのアジ。この店は、大将が毎朝市場から仕入れてくる瀬戸内の魚が絶品なのだ。
「相変わらずここの魚は裏切らないね」
美咲が中トロを口に運び、目を細める。
「でしょ? あ、そういえばさ、美咲。来週の日曜日って空いてる?」
香織が醤油皿に箸を止め、思い出したように顔を上げた。
「日曜日? うん、今のところは特に予定ないけど。何かある?」
「うん。大学のときのサークルの先輩から連絡があってさ。ちょっとした飲み会というか、集まりがあるから来ないかって」
美咲は少しだけ眉をひそめた。
「サークルの集まり? 私、部外者だけど大丈夫なの?」
「全然大丈夫。っていうか、先輩も『誰か気の合う友達連れてきてよ』って言ってたし。要するに、ちょっとした既婚未婚交えた異業種交流会みたいなやつ。コンパってほどガチなやつじゃないから、気楽に美味しいもの食べに行く感覚でさ。どう?」
美咲はジョッキを口元に運んだまま、一瞬躊躇した。
正直なところ、二十八歳になってからの「出会いの場」ほど億劫なものはない。お互いの職業やスペックを探り合い、休日の過ごし方という名の無難な質問を投げ合い、大して興味もない相手に愛想笑いを浮かべる。そのエネルギーを消費するくらいなら、家でネットフリックスを観ながら、お気に入りのチョコレートでも齧っている方が何倍も有意義に思えた。
「うーん……乗り気じゃないなぁ、正直」
美咲が正直に言うと、香織は「だよね」と苦笑しながらも、両手を合わせた。
「分かってる、分かってるよ。私もコンパなんて今さらエネルギー使いたくない。でもさ、その先輩、仕事でちょっとお世話になってて、断りにくくて……。一人で行くの、まじでアウェイだし地獄なんだよ。お願い、美咲。一緒に来て、当たり障りなく時間だけ潰して、終わったら二人で二次会しよ? 美味しいイタリアン奢るから」
香織にそう言われて真っ直ぐ見つめられると、美咲はいつも弱い。
高校時代から、香織の突拍子もない提案に巻き込まれるのは美咲の役目だったし、結果的にそれが楽しい思い出になることも多かった。
「……本当に、当たり障りなく過ごして、時間になったら即退散でいい?」
「もちろん! むしろ私もそれを望んでる。予定調和の愛想笑いマシーンになろう」
「分かった。じゃあ行く。イタリアン、高めのワイン頼んじゃうからね」
「オッケー、任せて!」
香織は嬉しそうに笑い、追加のレモンサワーを注文した。
その時の二人は、本当にただの数合わせの、退屈な二時間をやり過ごすためだけのつもりだった。その飲み会が、彼女たちの完璧な均衡を保っていた日常に、決定的な亀裂を入れる最初の引き金になるとは、一ミリも想像していなかった。
2
日曜日。約束の場所は、梅田の少し落ち着いたエリアにある、お洒落なダイニングバーだった。
コンクリート打ちっぱなしの壁に、間接照明が温かみのある光を落としている。いかにも「大人の男女の集まり」に好まれそうなロケーションだった。
美咲は、清潔感のあるネイビーのサマーニットに、白いワイドパンツという、主張しすぎない「大人シンプル」な服装を選んだ。香織もまた、やりすぎない綺麗めのワンピース姿で、二人は示し合わせたかのように「やる気のない、しかしマナーは守った」完璧な戦闘服を纏っていた。
「緊張する?」
店の前で、香織が小声で訊いてきた。
「うuum、全く。だって、お目当ての人がいるわけじゃないし」
「名言。よし、行こう」
二人が店内に案内されると、奥の個室風のソファ席には、すでに男女合わせて六人ほどの先客がいた。
香織の先輩だという、いかにも広告代理店風の垢抜けた男性が「おー、香織ちゃん! 久しぶり!」と手を振る。
「すみません、遅くなりました。高校からの親友の美咲です」
香織が美咲を紹介すると、席からいくつかの視線が集まった。
「初めまして、美咲です。お招きいただきありがとうございます」
美咲は、事前にシミュレーションしていた通りの、完璧にコントロールされた営業スマイルを浮かべた。
席配置は、自然と男女が交互になるようになっていた。
美咲の隣には、IT系の企業を経営しているという、やたらと声の大きい男が座り、香織の隣には、中堅の不動産会社に勤めているという三十代前半の男が座った。
男の名前は、山下と言った。
短髪で、一見するとスポーツマン風の爽やかな印象を与える男だったが、美咲は直感的に、その男の放つある種の「粘着質な空気」を察知した。
「香織さんって、アパレル関係なんだ。どおりでお洒落だと思った。普段、どの辺で遊ぶの?」
山下は、乾杯が終わるや否や、香織に怒涛の勢いで話しかけ始めた。
「あ、基本は仕事が京橋とか心斎橋の方なので、その周辺が多いですね」
香織は、大人の対応で丁寧に答えている。しかし、美咲には分かった。香織の笑顔の口角が、ほんの数ミリだけ引き攣っている。相手をこれ以上踏み込ませないための、防衛線の笑顔だ。
しかし、山下はその防衛線に気づく様子がなかった。それどころか、アルコールが入るにつれて、彼の距離感はさらに縮まっていった。
「京橋か! いいね、俺もよく行くよ。今度、お勧めの店教えてよ。っていうか、今からLINE交換しない? 次の週末とか、空いてる日あったら飯行こうよ」
山下はスマートフォンを取り出し、香織の目の前に突きつけた。
香織は一瞬、美咲の方に助けを求めるような視線を送った。
美咲は自分の隣の男の「最近の仮想通貨の動向」という退屈極まりない話を適当に聞き流しながら、香織をフォローするタイミングを窺った。
「あ、すみません。山下さん、香織って今、ちょうど大きなプロジェクトの真っ最中で、週末もほとんど休みがない状態なんですよ」
美咲が横からすっと割って入る。
「え、そうなの? でも、ご飯くらい食べる時間あるでしょ。夜遅くても俺、合わせるし」
山下は引かなかった。その目が、少し爛々(らんらん)としていて気味が悪い。美咲は、直感的に「あ、この人、人の拒絶を都合よく解釈するタイプだ」と察した。
香織は苦笑いしながら、「あはは、本当に余裕がなくて。でも、せっかくなので……」と、大人の社交辞令としてLINEのQRコードを表示した。ここで頑なに拒否して、全体の空気を壊すわけにはいかないという、彼女なりの配慮だったのだろう。
美咲は時計に目をやった。開始から一時間半。そろそろ「当たり障りなく過ごす」制限時間はクリアしているはずだ。
美咲は、事前に決めていたサインとして、テーブルの下で香織の膝を二回叩いた。
「――あ、すみません、山下さん、皆さん」
香織がすかさず声を上げた。
「本当に申し訳ないんですけど、明日、朝一番で海外とのオンラインミーティングが入っていまして……。そろそろ失礼しないといけない時間なんです」
「えー、もう帰っちゃうの? まだ九時半じゃん。二次会、すぐ近くのバー予約してるから行こうよ」
山下が不満そうに声を張り上げる。
「本当にすみません、どうしても外せない仕事で。美咲も, 明日早いんだよね?」
「ええ、申し訳ありません。今日はとても楽しかったです。ありがとうございました」
二人は立ち上がり、お代をスマートにテーブルに置くと、引き止める声を背中で受け流しながら、逃げるように店を出た。
階段を駆け上がり、梅田の夜風に当たった瞬間、二人は同時に深い、深いため息を吐き出した。
「……疲れたーーー!」
香織が天を仰いで叫んだ。
「お疲れ様。あの山下って人、ちょっと凄かったね」
美咲が苦笑しながら言うと、香織は自分のスマートフォンを見つめて、顔をしかめた。
「見て、これ。店出てまだ三分しか経ってないのに、もうLINE来てる」
画面を見せてもらうと、そこには【今日は楽しかった! メッセージありがとう。無事に家着いた? 明日仕事頑張ってね。落ち着いたら来週の木曜あたり、仕事終わりに京橋で飲まない?】という、息の詰まるような長文が送られてきていた。
「早っ……。ちょっと引くね、このスピード感」
「うわ、しかも『既読』つけちゃった。どうしよう、なんて返せばいい?」
「とりあえず『今日はありがとうございました。しばらく仕事が立て込んでおりますので、また機会があれば』って、定型文送って放置でいいよ。これ以上、距離縮めさせない方がいい」
「そうだよね……。あー、まじで美咲がいてくれて良かった。一人だったら完全に拉致されてたわ」
香織は美咲の腕に抱きつき、頭をすり寄せた。
「さあ、約束通り、口直しに美味しいワイン飲みに行こ! 私が奢る!」
「やった。じゃあ、生ハムとトリュフのピザがある店ね」
二人はいつものように笑い合い、お洒落なダイニングバーのあったビルを後にした。
その時、香織のスマートフォンの画面が、再び静かに光った。山下からの二通目のメッセージ。
【既読ついてるけど忙しいのかな? 無理しないでね。返事待ってます!】
その文字が持つ異常な執着の温度に、二人はまだ気づいていなかった。
3
それからの二週間、香織を取り巻く状況は、緩やかに、しかし確実に悪化していった。
平日の夜、美咲が自宅でハーブティーを飲みながら読書をしていると、香織から何枚ものスクリーンショットが送られてくるのが常態化していた。
すべて、山下からのLINEだった。
【おはよう! 今日も一日頑張ろう】
【今、お昼ご飯。香織ちゃんは何食べてる?】
【仕事終わった! 京橋の近くにいるんだけど、今からちょっとだけでも会えない?】
香織が「仕事が忙しいので」と一貫して冷淡な返信を返しているにもかかわらず、山下からの連絡は途絶えることがなかった。それどころか、返信がないと数時間おきに【おーい】【生きてる?】【体調崩した? 心配です】と、通知が重なる。
「美咲、まじでどうしたらいいと思う?」
木曜日の深夜、かかってきた香織の声は、明らかに怯えていた。
「ブロックはしてないの?」
「怖くてできないの。だって、ブロックしたら、今度は会社の前で待ち伏せされたりするんじゃないかって……。私、会社のInstagramの担当もしてるから、顔も勤務地も調べればすぐ分かっちゃうし」
香織の懸念はもっともだった。山下という男の行動には、一般的な「好意」を超えた、歪んだ支配欲のようなものが透けて見えていた。自分の思い通りにならない相手に対して、執着を強めていくタイプだ。
「分かった。無理にブロックはしないで、既読スルーを徹底して。絶対に二人きりで会う約束はしちゃダメだよ。何かあったら、すぐに私に言って」
「うん……ありがとう、美咲。本当にごめんね、いつもこんな相談ばっかりで」
「何言ってるの。私たちの仲でしょ。しっかりして、香織」
電話を切り、美咲は重い気持ちでベッドに入った。
親友の危機に対して、自分にできることが「相談に乗る」くらいしかないことが、もどかしかった。警察に駆け込むにはまだ実害が薄く、共通の知人である香織の先輩に相談しても「山下も悪気はないと思うんだけどね」と濁されるのが関の山だった。
翌週の月曜日。美咲の仕事の方で、一つの重要なアポイントメントが入っていた。
今回のインテリアプロジェクトの目玉である、大手デザイン事務所との合同打ち合わせ。
先方の担当者は、業界内でも「非常に優秀で、仕事が早い」と噂されている、藤沢という名の男性だった。
午後三時、美咲の会社の会議室。
定刻の五分前、ドアがノックされ、一人の男性が入ってきた。
「初めまして。フロンティア・デザインの藤沢です。本日はよろしくお願いいたします」
美咲は、一瞬、息を呑んだ。
背が高く、仕立ての良いネイビーのスーツを完璧に着こなしている。髪型は清潔感のあるショートで、知的な眼鏡の奥にある瞳は、穏やかでありながら確かな意思を宿していた。
何より印象的だったのは、その「立ち振る舞い」だった。
名刺を差し出す角度、椅子の引き方、そして挨拶の声のトーン。そのすべてが、計算されているかのように無駄がなく、洗練されていた。
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます。インテリアコーディネート担当の、奥村美咲です」
打ち合わせが始ると、美咲は藤沢の仕事ぶりにさらに圧倒された。
こちらの抽象的な要望や予算の制限を、彼は驚くほどのスピードで噛み砕き、具体的なデザイン案としてホワイトボードに描き出していく。
「奥村さん、このエリアの照明ですが、通常のダウンライトよりも、少し温かみのある間接照明を仕込んだ方が、全体の『大人シンプル』な世界観が引き立つと思うのですが、いかがでしょうか。コストに関しては、こちらの建材を見直すことで相殺できます」
「……ええ、素晴らしいと思います。その方が、私たちがターゲットにしている層にも響きやすいですね」
藤沢の話し方は、決して押し付けがましくない。こちらの意見を丁寧に汲み上げながら、より良い方向へとリードしていく。そのスマートな態度に、美咲は仕事としてのプロフェッショナリズムを強く感じると同時に、一人の男性としての圧倒的な「余裕」を感じていた。
これほど仕事ができて、ルックスも良く、気遣いも完璧な男性だ。
「きっと、素敵な奥さんか、彼女がいるんだろうな」
美咲は、心の中でそんな既定路線を思い描いていた。
二時間に及ぶ密度の濃い打ち合わせが終わり、書類をまとめていると、藤沢がふっと表情を緩めた。眼鏡の奥の目が、優しく細められる。
「奥村さん、非常に有意義な時間でした。ありがとうございます。もしよろしければ、この後、少し早いですが、近くで軽い食事でもいかがですか? 進行についての細かい詰めも、リラックスした空間でお話しできればと思いまして。もちろん、お時間が許せばですが」
藤沢からの、ごく自然な、そして完璧なタイミングでの誘いだった。
下心が全く感じられない、純粋なビジネスの延長としての提案。美咲に断る理由はなかった。
「はい、喜んで。ぜひご一緒させてください」
「ありがとうございます。では、私がお勧めの一和食店がありますので、そちらへご案内しますね」
藤沢はスマートに上着を羽織り、美咲のために会議室のドアを開けて待ってくれた。
その一連の動作の流れるような美しさに、美咲は胸の奥がほんの少しだけ、トクンと跳ねるのを感じていた。
4
藤沢に連れて行かれたのは、北新地の路地裏にある、看板のない隠れ家のような小料理屋だった。
店内は、磨き上げられた一枚板のカウンター席のみ。白木の高貴な香りが漂い、静かなジャズが流れている。
「ここの大将とは古い付き合いでして。特に、マグロの突先を使ったお鮨が絶品なんです」
藤沢はカウンターの端の席を美咲に譲りながら、自然な動作でメニューを広げた。
「素敵なお店ですね。私、新地はあまり詳しくなくて」
「隠れ家としては最高ですよ。奥村さん、お酒は何がよろしいですか?」
「まずは、ビールを頂いてもいいですか?」
「ええ、もちろん」
藤沢は大将に声をかけ、まずは生ビールを二つ注文した。
届いた薄張りのグラスを軽く合わせ、一口飲む。至飾の瞬間だった。
食事をしながらの会話も、驚くほど弾んだ。藤沢は美咲の仕事に対する情熱や、デザインに対するこだわりを、本当に楽しそうに聞いてくれた。自分の実績を誇示するような真似は一切せず、常に美咲が話しやすいように話題を提供してくれる。
会話が途切れた一瞬の沈黙すら、心地よく感じられるほどの空間だった。
お互いに日本酒に移り、少し酔いが回ってきた頃、藤沢がふと、手元のグラスを見つめながら言いました。
「奥村さんは、本当に仕事に対して誠実ですね。お話を伺っていて、とても刺激になります」
「そんな、滅相もないです。私はただ、目の前の仕事をこなすので精一杯で……。藤沢さんこそ、本当にスマートで、お一人で何でもこなされていて尊敬します。……あの、不躾なことを伺ってもいいですか?」
「何でしょう?」
藤沢は首を少し傾げ、悪戯っぽく笑った。
「藤沢さんのような、お仕事もできて素敵な方に、彼女がいらっしゃらないのが不思議だなと思って。あ、もちろん、いらっしゃる前提でお話ししてしまっていますが」
美咲は、少しお酒の勢いを借りて、ずっと気になっていた質問を口にした。
藤沢は一瞬、驚いたように目を見張ったが、すぐに声を立てて笑った。
「ハハ、そうですか? 残念ながら、今は本当にいないんですよ。ここ二、三年は、この事務所の立ち上げとプロジェクトに付きっきりで、恋愛をする心の余裕が完全になくなっていまして。周りからは『仕事と結婚した男』なんて揶揄されているくらいです」
「そうなんですか……。なんだか、意外です」
美咲は、胸の奥で小さな安堵の息が漏れるのを感じた。なぜ自分が安心しているのか、その理由についてはあえて深く考えないようにした。
その時、美咲のバッグの中で、スマートフォンが激しく振動した。
一度切れたが、すぐにまた鳴り出す。執拗な着信。
美咲は画面をチラリと見た。『香織』の文字。
この時間に、この頻度での着信は、間違いなく緊急事態だった。
「すみません、藤沢さん。ちょっと緊急の電話みたいで、席を外してもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ。お気になさらず」
美咲は急いで席を立ち、店の外の静かな路地に出た。
「もしもし、香織?! どうしたの?」
『美咲……どうしよう、助けて……』
受話器から聞こえる香織の声は、ガタガタと震えていた。今にも泣き出しそうだった。
『今、仕事が終わって、京橋の駅に向かって歩いてたの。そしたら……後ろから、山下が歩いてきて……』
「えっ?! 山下が? なんで京橋にいるの?」
『分からない……。でも「偶然通りかかった」って言って、しつこく「今から飲もう」って腕を掴んできて……。私、怖くなって近くのコンビニのイートインに逃げ込んだんだけど、山下、お店の外でずっと待ってるの。こっちを見て、ニヤニヤしながら、スマートフォン触ってて……。私、怖くて外に出られない……』
香織の息が荒い。完全にパニックに陥っている。
「分かった、香織。今すぐそこから動かないで。警察を呼ぶか、私が今から行くから――」
美咲がパニックになりかけながら叫んだその時、背後から静かな声がした。
「奥村さん。どうかしましたか?」
振り返ると、藤沢が心配そうな表情で立っていた。美咲のただならぬ様子を察して、様子を見にきてくれたのだろう。
美咲は、一瞬迷った。これは自分のプライベートな、しかも親友のトラブルだ。仕事の取引先である藤沢を巻き込むべきではない。
しかし、今の美咲一人の力で、京橋で待ち伏せしているという異常な男をどうにかできる保証はなかった。香織の安全が最優先だった。
美咲は意を決して、電話をスピーカーモードにし、藤沢に向かって早口で説明した。
「藤沢さん、すみません。実は、私の親友が、今、京橋のコンビニで、しつこいストーカー気質の男に待ち伏せされていて、動けなくなっているんです」
藤沢は、美咲の言葉を静かに聞いた。その表情から笑みが消え、プロのビジネスパーソンとしての、極めて冷静で鋭い顔つきに変わった。
「場所は、京橋のどこのコンビニですか?」
藤沢は、美咲からスマートフォンを借りると、受話器の向こうの香織に向かって、極めて落ち着いた、しかし確かな安心感を与える声で語りかけた。
「香織さん、初めまして。美咲さんの仕事仲間の藤沢と申します。状況は分かりました。今から私と美咲さんで、タクシーでそちらへ向かいます。到着するまであと十五分ほどかかります。それまで、絶対にコンビニの店外へは出ず、できるだけ店員の目の届く場所にいてください。大丈夫です、私たちが必ず助けます」
その冷静で論理的な指示は、パニックになっていた香織の心を一瞬で落ち着かせたようだった。
『……はい。分かりました……待ってます……』
藤沢は通話を切ると、美咲の目を見つめた。
「奥村さん、大将にお会計は済ませてあります。表通りでタクシーを拾いましょう。……大丈夫、私に任せてください」
藤沢は素早く店を出ると、大通りで流しのタクシーに素早く手を挙げ、美咲のためにドアを開けた。その無駄のない動作と、迷いのない眼差しに、美咲は激しく高鳴る鼓動を感じていた。
恐怖によるものだけではない。この最悪の状況の中で、目の前にいる男性が、あまりにも頼もしく、そしてあまりにもスマートに見えたからだった。
二人はタクシーへと乗り込んだ。
ドアが静かに閉まり、車は香織の待つ京橋へと、夜の街を滑るように加速していった。
これが、三人の運命が複雑に交錯し始める、長い夜の始まりだった。




