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27-4 そして最終決戦へ

 吐く息が白く染まる美浦トレーニングセンターは、まだ夜の気配を色濃く残したまま、深い朝霧に包まれていた。乳白色の帳が音を吸い込み、世界から色彩を奪っていく。

 そんな中、厩舎の照明だけが、その静寂の中でぼんやりと滲んでいた。


 イマナミは、漆黒の馬体を持つノゾミを無心にブラッシングしていた。その隣では、最終追い切りを終えた三津康生が、ただ黙ってその様子を見つめている。


 カシュ、カシュ、と規則正しく響く硬いブラシの音。馬の温かい息遣い。しん、と静まり返った馬房に、それだけが満ちていた。


「それにしてもノゾミの馬房、すごいよな。来るたびに思うけど、絵がめっちゃ飾ってあるし」


 壁にかけられた一枚一枚の絵を眺めながら「うまいなー」と呟く。どれもが、躍動感あふれるノゾミの姿を描いたものだった。


「河合牧場の近くに住む学生さんからです。オーナー経由で送られてくるんですが、ノゾミに見せると『飾れ』とせがんでくるもので」


 イマナミは、ブラシの手を休めずに苦笑した。


「少しでも埃をかぶろうものなら、鼻先でツンツン突いて『掃除しろ』と催促ですよ。おかげで、この一角はいつもピカピカです」

「ハハハ!まるでシンデレラだな」


 二人の間に、柔らかな笑いがこぼれる。ノゾミは、そんな会話が分かっているのかいないのか、気持ちよさそうに目を細め、三津の腕にそっと頭を擦り寄せた。


「・・・いやあ、もう明後日には有馬記念ですね」


 イマナミがポツリと呟くと、三津はどこか遠い目をして応じた。


「なんか、まだ実感ねえなあ」

「俺もですよ。ノゾミがターフを離れて二年半・・・。その復帰戦が、明後日だなんて」


 イマナミも三津と同じように、どこか現実味のない心地で苦笑する。


「そういえば、昔センセーとこうやってレース前に馬房前で話したことあったな」


 三津が懐かしむように言う。


「ああ・・・青葉賞の前ですかね。あの時はずっとノゾミに振り回されっぱなしでした」

「あぁ、そうだった。まさか、ここまで長い付き合いになるとはな。ノゾミとも、センセーとも」


 三津はそう言うと、イマナミの顔をしげしげと眺めた。


「センセーは変わったよ。あの頃は、まだまだ幼さが残る、元気なだけの青年って印象だった。だけど今じゃ、どっしり構えて厩舎全体を見てる。すっかり『調教師』の顔だ」


 その言葉に、イマナミは少し照れくさそうに鼻を掻いた。


「三津さんこそ、劇的に変わりましたよ。昔はもっと・・・こう、ゴツゴツと、馬を力で追っていましたよね。それでリーディングを争うトップにいたのに、

 一度それを自ら壊して、そして今、また再び、全く違う武器でリーディングを狙える場所にいるんですから」


 互いの変化を認め合い、二人の間に柔らかな沈黙が流れる。


「・・・ノゾミが、俺たちを変えてくれたんですかね」

「ああ、そうかもな」


 二人は顔を見合わせて、静かに笑った。



 会話が途切れ、再びブラシの音だけが響く。


 二年半。


 それは、あまりにも長い時間だった。諦めが胸をかすめた日も、心が折れそうな夜も、数えきれないほどあった。それでも、彼らはここにいる。

 この馬と共に、夢の続きの、その始まりの場所に。


「よし、ブラッシング終わり!!」


 イマナミは、ブラッシングの手を止めた。 


「ブルルルッ!!」


 静寂を切り裂き、鋭い鼻鳴りが響き渡る。ノゾミが一度、力強く前掻きをすると、研ぎ澄まされた馬体から、蒼い炎のような闘気が立ち昇るのが見えた。その黒い毛皮の下で、純粋な闘争心がマグマのように滾っている。


 それを見た三津が、心の底から楽しそうに笑った。


「・・・ああ、そうだ。お前は、そうでなくちゃな。ターフを愛し、走りを愛し、そして誰よりも勝利を欲する。それでこそ、ノゾミだ」


 二年半という時を経てなお、いや、経たからこそ、その魂はどこまでも鋭く研ぎ澄まされている。すぐそばで燃え盛るその熱が、肌を焼くほどに伝わってきた。


「・・・そうか」


 イマナミは呟いた。


 なぜ、これほどまでに、この馬から目が離せないのか。なぜ、この魂にこれほど焦がれるのか。


 その答えが見えた気がした。


 この馬は周囲から「問題児」とさえ呼ばれたあの頃から、この馬の芯にあるものは何一つ変わっていないのだ。


 自分たちが頭を抱えた数々の「問題行動」──調教で牙を剥くのも、パドックで歩みを止めるのも、鞍上で荒れ狂うのも、そのすべてが、『ただ風を切って走りたい』という子供のような歓喜と、『目の前の相手より速くありたい』というあまりにも純粋な渇望の、表裏一体の表れだったのだ。


 それは「わがまま」などという陳腐な言葉で片付けられるものではない。


 正しさではない、理屈ですらない。


 そういった人の矮小な物差しでは到底測れない、生命そのものの根源的な輝き。心の底から湧き上がる「走りたい」という喜びと、誰にも前を譲らないという誇り。その絶対的な渇望と歓喜こそが、ノゾミという魂の正体なのだ。


 ただひたすらに、誰よりも速くあることだけを求めたその一点の曇りもない魂のあり方が、見る者の心を揺さぶり、捉えて離さないのだ。


 そして今の鞍上と完璧に折り合い、「優等生」とまで評されるようになった知的な走りも、かつての荒々しい抵抗も、その源泉は同じ。



 出会ったあの日から、この馬は何も変わっていない



 そうだ。あの未勝利戦のノゾミの走りから、俺は、ノゾミの走りに魅せられたのだ。


 何一つブレることのない、燃え盛る、あの孤高で純粋な魂の輝きに。


 そして


 この魂に、このどうしようもない輝きに、誰よりも焦がれ、魅せられてきたのは、間違いなく隣に立つこの男だろう。

 調教師である自分は、あくまで地上から彼らを見守るだけ。しかしこの男は違う。その背でノゾミの全てを受け止め、嵐のような闘争心も、爆発する歓喜も、共に分かち合ってターフを駆け抜けてきた、唯一の存在なのだから。


 イマナミがふと三津に視線を送ると、彼もまた、同じ熱を宿した瞳で、こちらを見つめ返してきた。


 この男も同じ想いを抱いている。いや、きっと自分以上に、深く、激しいところで。


 言葉はいらなかった。二人のホースマンの魂は、燃え盛る闘気を放つ一頭の馬を介して、完全に一つになっていた。


 不意に、三津が言った。それまでの雑談の響きとは全く違う、静かで、しかし鋼の意志を宿した声で。


「センセー。勝つぞ」


 イマナミは、その言葉をゆっくりと胸に落とし込む。そして、万感の想いを込めて、ただ一言、返した。


「・・・はい。勝ちましょう」


 二年半という、あまりにも長い季節。

 諦めと希望を繰り返した九百を超える夜と朝。流した汗も、堪えた涙も、胸に灯し続けた祈りのすべてが、やがて中山競馬場に鳴り響くファンファーレと共に、わずか二分半の閃光へと姿を変える。

 その一瞬のために、彼らはすべてを賭けてきた。

 決戦の朝は、もうすぐそこまで迫っていた。


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