22-2 そして物語は再び動き出す
一次試験合格の喜びに沸く国本厩舎。その喧噪が遠い夢のように感じられる、河合牧場にて。同じ夕焼けの下、祝杯とは無縁の、重く張り詰めた時間が流れていた。神崎、アオキ、そしてケイゾーが、放牧地の柵のそばで、息を整えるノゾミを囲むようにして立っていた。
この一年、ノゾミの回復は奇跡の連続だった。だが、夏を過ぎたあたりから、その進化は目に見えない壁に突き当たったかのように、ぴたりと止まった。驚異的な速度で改善していた歩様は、ある一定の水準から上向かず、トレーニングの負荷を上げれば、右後脚に亡霊のような微かな熱を持った。
「・・・やはり、ここが限界でしょうか。これ以上の自然治癒は・・・」
牧場の柵に寄りかかり、息を整えるノゾミを見つめながら、アオキが絞り出すように言った。その声には、やり場のない焦りが滲んでいた。
「ええ。日常生活を送るには十分すぎるほどの回復です。ですが、目標はそこではない」
神崎はアオキの隣に立ち、冷静に、ノゾミを見据えた。
「馬体そのものに衰えは見えません。問題は、やはり・・・」
「右後脚を支える、あのボルトか」
「いえ、おそらく違います」
神崎はそう言って、静かに首を横に振った。
「確かに、骨を支えるためのボルトが、今度は完璧な走行フォームへの回帰を阻む『枷』になっている可能性は確かに否定できません。
しかし私たちの見解では、それは二次的な問題です。根本的な原因は、神経の損傷によるものである可能性が高い」
神崎のきっぱりとした言葉に、アオキは息を呑んだ。ケイゾーの眉間に、深い皺が刻まれる。
「神経・・・?」
「詳しく聞かせてもらおうか、先生」
促すケイゾーに、神崎は頷き、説明を続けた。
「ノゾミくんの回復がこの数ヶ月、停滞している理由。それは、自然治癒の限界を示唆しています。筋肉は戻った。骨もほぼ癒合した。
ですが、その見事に再建された肉体を完璧に動かすための『指令系統』・・・脳から脚の末端へと繋がる神経回路に、まだ断線が残っている状態です。だから、彼の意志とは無関係に、コンマ数秒の反応の遅れや、微細なパワーロスが生まれる。トレーニングで熱を持つのは、その不均衡を他の筋肉が無理に補おうとしている証拠です」
それは、毎日ノゾミの脚に触れ、その歩様を見つめ続けてきたアオキが、言葉にできずに抱えていた違和感の正体そのものだった。
「これまでは自然治癒で神経がつながる事例をあり、事態を見守っていましたが・・・
これ以上待つのは、酷でしょう」
神崎の冷静な宣告は、希望の終わりを告げているようにも聞こえた。アオキとケイゾーの顔に、暗い影が落ちる。その沈黙を破るように、神崎は「ですが」と続けた。
「打つ手が、全くないわけではありません」
彼女がファイルから取り出したのは、びっしりとドイツ語で埋め尽くされた、数枚の論文のコピーだった。無数の図やグラフが並んでいるが、二人には暗号にしか見えない。
「申し訳ありません。まだお二人にお見せできる段階ではないと考えていたので、翻訳の用意がありませんが・・・これが私たちの次なる一手です」
神崎は静かに告げた。
「エーリッヒ式神経再構築術、という最先端の治療法です。物凄く簡単に言えば、特殊な機材で特殊な環境で切れてしまった、髪の毛よりも細い神経の束を、顕微鏡下で一本一本繋ぎ合わせ、脳からの指令が通る道を再建する。
ラットや最近では小型犬などでは、確かな成果が報告されています。ですが、ノゾミのような大型動物では・・・」
彼女は一度、息を整えるノゾミに目をやった。その瞳には、専門家としての冷静さと、一人の人間としての熱が同居していた。
「前例は、ありません。成功すれば、世界初の手術になります」
その言葉は、冷たく、重く、牧場の乾いた空気の中に沈んでいった。アオキは言葉を失い、ケイゾーは厳しい顔で腕を組む。風が吹き抜け、ノゾミのたてがみがサワリと揺れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
神崎は、二人の反応を静かに見つめた後、続けた。その声には、これまでの熱とは違う、厳粛な響きがあった。
「私たちはあらゆる可能性を探り、技術的な準備を続けています。この手術を成功させるために」
彼女は一度言葉を切り、二人の目を真っ直ぐに見据えた。
「しかしこの前例のない道に、本当に進むべきかどうか。成功する保証のない手術のリスクを受け入れるかどうか。
その最終的なご判断は、オーナーである河合オーナーにしていただく必要があります。」
それは、神崎にできる最大限の誠意であり、同時に、二人にとってはこの上なく重い、決断のバトンだった。
「俺はやりたい。このままでは走れないのなら、可能性がある方に賭けたい」
ケイゾーは静かに、しかし力強く言った。ケイゾーは「だが」、と続ける。
「こいつには、俺以上にずっと寄り添ってきた家族がいる。そいつの意向を無視して、俺一人のエゴで決めることはできん」
ケイゾーの視線が、アオキを射抜いた。それは、試すような、しかし絶対的な信頼を込めた眼差しだった。
「アオキ。お前が決めろ。」
世界の全ての音が消えた。
ケイゾーの信頼、そして隣で静かに息をする相棒の未来。その全てが、今、自分の双肩に懸かった。アオキは、唇を強く噛み締め、目の前の偉大な馬を、ただ見つめ返すことしかできなかった。
ーーーーーーーーーー
夜の静寂が馬房を支配し、残されたのはアオキとノゾミ、そして重すぎる決断だけだった。
「ノゾミー。次は右脚なー」
「ヒンッ!」
神埼が病院に戻ってからアオキはノゾミと二人っきりになった。
怪我をした右後脚を、祈るように念入りにケアしていく。指先から伝わる、しなやかで力強い筋肉だ。
「よし!オッケーだ!」
「ヒンッ」
ノゾミは満足げに鳴いた。そして、いつもどおり右前脚をカツカツと叩きご飯を要求する。
「わかってるって。今日はリンゴもあるぞー」
「ブヒヒヒヒッ!!」
途端に上機嫌になる相棒に、アオキは苦笑しながらも、飼い葉桶に餌とリンゴを入れた。それを見るやいなや勢い良く食べ始めるノゾミ。
その姿を見つめるアオキの胸を迷いという名の冷たい霧が覆っていた。
こんなはずじゃなかった。
あの夜、魂で走るお前の姿に、俺たちは光を見たはずだ。ケイゾーさんの「一緒に走るぞ!」という叫びは、俺たち全員の魂の誓いだった。
なのに・・・
「なあ、ノゾミ。お前をもう一度走るのに・・・。神様は、どれだけ俺たちに酷な道を歩かせる気なんだろうな」
アオキの独り言は、藁の匂いに溶けて消えた。
「あの夜の誓いが、今、鉛のように重いんだ・・・。
なあ、ノゾミ。先生は『世界初の手術』だと言った。希望みたいに聞こえるか? 俺には、底が見えない崖の淵に立たされているようにしか思えないんだ。誰も歩いたことのない道だ。その先に何があるのか、天国か、地獄か、それとも・・・ただの無か。成功も失敗も、全てが暗闇の中にある。
走りで怪我をするのとは訳が違う。神様でさえサイコロを振るような博打に、お前の命を賭けて、本当にいいのか・・・」
アオキは乾いた藁の上に膝をついた。
そして、その震える指先が、吸い寄せられるようにノゾミの右後脚へと伸びる。手術痕の残る、硬く盛り上がった古傷。全ての始まりであり、そして終わりの象徴でもあったその場所に、そっと触れた。
途端に、脳裏にあの日の光景が焼き付く。
歓声が悲鳴に変わった、あのレース。ターフに叩きつけられ、ありえない方向に折れ曲がった脚。もがき苦しむノゾミの姿。
「・・・お前がいなくなったら・・・そう思うと、俺は・・・」
アオキの声と、その手が、恐怖に震える。その時だった。
「ブヒっ」
その震えるアオキの手を、ノゾミが、自らの脚の重みで、静かに、しかし確かに受け止めた。
「・・・ノゾミ?」
「ブルルッ」
それは、拒絶でも、痛みへの反応でもない。「案ずるな」とでも言うように、友の恐怖を、その傷跡で受け止める、絶対的な信頼の証だった。
目の前で、ノゾミが静かに自分を見下ろしている。その瞳は、驚くほど穏やかで、そして深い。過去の影など微塵もなかった。ただ、揺るぎない光だけが宿り、遥か先を見据えている。
アオキはあまりにも単純な真実に気付いた。
ーーああ、そうか。怯えているのは、俺だけか。
この傷を、この痛みを、誰よりも鮮明に覚えているのはノゾミ自身のはずだ。この手術のリスクが、本当は一番怖いのも、彼のはずだ。本当は一番怖いのも、彼のはずだ。なのに、この瞳は……過去の絶望も、未来への恐怖も、とうに乗り越えた先にある、遥かな地平線だけを見つめている。
「・・・そうか。分かってたのか。いや・・・お前はもう、とっくに覚悟を決めてるんだな。この手術のことも、その先にある未来も」
アオキは、まるで憑き物が落ちたかのように、ゆっくりと立ち上がり、深く息を吐いた。
「なら俺が止める訳には行かないな」
「ブヒヒヒヒヒ」
アオキのその言葉を待っていたかのように、ノゾミがと、天を衝くように力強く鼻を鳴らした。それはもはや叱咤ではない。覚悟を決めた友に送る、最大の賛辞であり、魂の共鳴だった。
「ブヒッ!」
ノゾミはそう短く鳴くと、ノゾミはアオキの前に進み出た。そして、おもむろに、すっと右の前脚を上げる。
「ノゾミ・・・」
アオキは息を呑んだ。それは、あの日と同じ仕草。ニンジンでも、蹄の不調でもない。
彼らの始まりの日に交わされた、あの約束の合図。
「・・・そうだな」
アオキは、固く、強く拳を握りしめた。
「お前の道を決めるのは、俺でも、先生でも、ケイゾーさんでもねえ。決めるのは、いつだってお前だ!」
「ヒンッ!」
アオキは、天を仰ぎ、魂の底から叫んだ。
「よっしゃ、やるかァ!ノゾミィッ!!」
彼は、ノゾミが差し出した強靭な前脚に、自らの拳をゆっくりと、しかし力強く合わせた。
ゴツン、と鈍く、しかし確かな感触が拳に伝わる。硬質な蹄の感触の奥から、灼熱のマグマのような生命の熱が、アオキの魂に直接流れ込み、恐怖という名の不純物を一瞬で焼き尽くした。
「ヒヒィィィィンッッッ!!」
ノゾミが、首を天に突き上げ、地鳴りのような咆哮を轟かせた。それはもはや、ただのいななきではなかった。二つの魂が一つに溶け合い、運命そのものに叩きつけた、宣戦布告の声だった。
やがて、音が止むと、馬房には嵐の後のような静寂が訪れた。月明かりが馬房の隙間から差し込み、まるでスポットライトのように、荒い息をつく一人と一頭を照らし出す。言葉はもう、いらない。ただ、確かな覚悟だけが、藁の匂いと混じり合い、静かな夜に満ちていた。
夜明けは、まだ遠い。だが、彼らの心には、もう何者にも消し去ることのできない、灼熱の光が灯っていた。




