22-1 そして物語は再び動き出す
カレンダーの数字は、まるで性急な騎手が飛ばすように進んでいった。ノゾミと再会を果たした年の瀬、決意を胸に願書を出した春、そして参考書と汗にまみれた夏。
一つ一つの季節は確かに存在したはずなのに、振り返ればすべてが一瞬の出来事のようだ。金木犀の香りが風に乗って届く頃、イマナミの1年以上に及ぶ戦いは、一つの審判の時を迎えていた。
「・・・はぁーっ」
調教師試験、一次試験の結果が発表される今日。イマナミは積み上げた参考書の山から解放されたはずなのに、まるで檻の中の熊のように、落ち着きなく国本厩舎の事務所を歩き回っていた。
「イマナミ。うろちょろするな。もう結果は決まってるんだ。それより二次試験の勉強でもしとけ」
サカイは調教日誌から目を離さず、インクの匂いが立ち上るペン先を走らせながら、呆れた声でそう言った。
「だって!サカイさん、もし落ちてたらどうするんですか!」
イマナミはデスクの端に手をつき、懇願するように訴える。
「最後まで知識じゃサカイさんに遠く及びませんでしたし、本番も凡ミスしたし・・・」
「張り合う相手が違うだろ。俺とお前じゃ、見てきた馬の数が違う」
サカイはようやく顔を上げ、諭すように言う。
「そりゃーそうっすけど」
イマナミは子供のように言い募り、がっくりと肩を落とした。
そんなやり取りをしている内に発表の時が来た。
「イマナミくん」
その時、事務の有紗が持つタブレットの画面が更新され、彼女が静かに名前を呼んだ。
「・・・出たわよ」
その一言で、事務所の空気が張り詰める。今まで騒がしかったイマナミの動きが、ぴたりと止まった。心臓が大きく跳ね、指先が急速に冷えていくのを感じる。ゴクリと喉を鳴らすが、唾液の味はしなかった。有紗が差し出すタブレットに、駆け寄ることすらできない。
不意に、サカイは調教日誌を書く手を止めた。そして、無言で立ち上がると、タブレットを覗き込んだ。その真剣な横顔を、イマナミは固唾をのんで見つめる。やがてサカイは、一度だけ目を伏せると、イマナミに向かって顎をしゃくった。
「・・・自分で見ろ」
促され、イマナミは鉛のように重い足で一歩を踏み出した。画面に表示された無数の受験番号。その数字の羅列が、まるで意味をなさない記号のように見える。震える指で画面をスクロールする。自分の番号があるはずのブロックを探す。耳の奥で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
そして、見慣れた数字の並びが、目に飛び込んできた。
一瞬、それが自分のものだと認識できなかった。
時間が、止まる。
やがて、脳がその意味を理解した瞬間、詰めていた息が、か細い声と共に漏れた。
「・・・あった・・・」
次の瞬間、堰を切ったように叫んでいた。
「ありましたっ!!」
喜びで飛び跳ねるイマナミに、サカイは小さく「おめでとう」と呟くと、すぐに自分のデスクに戻り、何事もなかったかのように調教日誌の続きを書き始めた。
「え!?なんですかその反応!もっとこう、一緒に喜んでくださいよ、サカイさん!」
詰め寄るイマナミに、サカイは少し面倒くさそうに振り返る。
「別に。お前の実力なら、一次は通る。奇跡が起きたわけじゃない」
「・・・そうですか」
少しだけ唇を尖らせるイマナミを見て、サカイは口元に微かな笑みを浮かべた。
「ただ、当たり前のことを当たり前にやるのが一番難しい。・・・よくやった」
その言葉に、イマナミの顔がぱっと輝く。
「はいっ!ありがとうございます!」
「センセーにも報告してやれ。俺から言うより、お前の口から聞く方が喜ぶ」
「そうですね! じゃあ、センセーに報告してきます!」
サカイの言葉にイマナミは大きく頷く。そしてくるりと体を翻した。
「浮かれて怪我すんなよ。たぶんセンセーなら、馬房の方にいるはずだ」
「了解です!」
嵐のように駆け去っていく背中を、サカイは深い、安堵の息と共に見送った。その横顔を、事務の有紗がにやにやと眺めている。
「あらあら。イマナミくんが来るまで、神棚でも拝みそうな顔をしていた人が、ずいぶん素っ気ないんですね」
「・・・仕事に集中していただけです」
指摘され、サカイは咄嗟に視線を机の上の書類に落とす。そして、取ってつけたような咳払いを一つして誤魔化した。有紗はそんな彼に構わず、楽しそうに話を続ける。
「厩舎のみんな、聞いたら喜ぶわ。これで、この場所が繋がるかもしれないって。皆さん、誰も再就職先なんて探してないの、知ってます?」
「・・・本気ですか?あの人たちは」
その言葉に、サカイの眉がぴくりと動いた。
「イマナミ君に雇ってもらう気満々。私だって、もう履歴書の書き方なんて忘れちゃいました」
「まったく・・・ここのスタッフは能天気で助かる」
サカイは呆れたように言いながらも、その声には確かな温かみが宿っていた。
「・・・そういうサカイさんこそ、あちこちから声がかかってるのに、全部断ってるらしいじゃない」
有紗がいたずらっぽく笑う。
「有紗さん、どうしてそれを!?」
「情報源なんてどうでもいいでしょ? それより誰よりもサカイさんが、イマナミ君に調教師になってほしかったんじゃないですか?」
その問いに、サカイは一瞬黙り込み、窓の外に広がる青空に目をやった。そして、静かに口を開く。
「イマナミは、いい調教師になります。俺はそれを確信しているだけです」
「ふーん」
「・・・少し席を外します」
「はーい」
意味ありげな有紗の視線から逃れるように、サカイは事務所の扉に手をかけた。そして、ふと振り返る。
「有紗さん。俺が一番願ってるって言いましたけど、違いますよ」
「あら、じゃあだれ?」
その声は、これまでになく穏やかだった。
「センセーですよ」
サカイは、揺るぎない確信と共にそう言い切った。
ーーーーーーーーーー
調教を終えた馬たちがそれぞれの馬房で寛ぐ、静まり返った厩舎で、クニモトは黙々と作業をしていた。
「センセー! 俺、一次試験、受かりました!」
弾むようなイマナミの声が、その静寂を破った。クニモトは、顔を上げることなく、ほんの一瞬だけ手を止めた。
「おぉ、そうか」と短い返事を返すと、すぐにまた作業に戻った。
「よかったな。だが、本番は二次試験だぞ」
その素っ気なさに、イマナミは胸の奥で小さく拍子抜けした。喜びを分かち合いたかった気持ちが、少しだけしぼんでいくのを感じた。
「はい。まだまだ勉強の日々は続きます」
自分に言い聞かせるように答えた。
「ハハッ何を言っているんだ」
クニモトは笑いながら言った。
「調教師になったら、そこからが本当の勉強だ。いや、ホースマンである限り、終わりなどないだろ?」
「・・・確かに。そうですね。肝に銘じます」
イマナミは、その言葉の重みを改めて噛み締め、深く頷いた。喜びで浮かされていた熱が静かに冷めていく代わりに、新たな決意が腹の底から湧き上がってくるのを感じた。
「ところでセンセー、何をされてるんですか?」
イマナミは、クニモトの手元の作業に目をやった。それは、長年使い込まれた様々な馬具を丁寧に仕分け、箱に詰めていく作業だった。
「見ての通り、整理整頓だ。来年の3月までに綺麗にしとかないといけないからな。早め早めにだ」
クニモトは、再び淡々とした調子で答えた。しかし、その言葉には、長年の歴史を持つ場所との別れを予感させる、隠しようのない寂しさが滲んでいた。
「・・・そっか。もう、そんな時期ですか」
イマナミは、改めて厩舎全体を見渡した。壁に掛けられた、色褪せた数々の優勝レイ。使い込まれて職人の手の温もりを感じさせる鞍や頭絡。長年にわたる馬と人との関わりを物語るように、磨かれた一つひとつの道具に、国本厩舎の歴史が深く刻み込まれているようだった。
「・・・なんだか、寂しいですね」
イマナミは思わずそう呟いた。
「さて、イマナミ。少し手伝ってくれ」
クニモトは、木箱に向き合ったまま言った。
「はい、わかりました」
二人は並んで、厩舎の隅に寄せられた不用品を分別していく。それは、単なる肉体作業ではなく、クニモトの長きにわたるホースマン人生の記憶を、一つひとつ丁寧に拾い上げていくような、静かで特別な時間だった。
「これなんですか?」
イマナミが手に取ったのは、見たこともない奇妙な形をした、古めかしい馬具だった。金属部分は錆び付き、革の部分もひび割れている。
「ああ、それは俺が新人調教師の頃に考えた秘密兵器だ。空気力学を応用して、最後のひと伸びを生み出す、はずだったんだがな」
クニモトは苦笑しながら言った。
「結局、まったく役に立たなかった。ただの重い荷物だったよ。いつか使える日が来ると思って、物置の奥にしまっておいたんだが、最後まで陽の目を見ることはなかったな」
そう語るクニモトの目は、遠い若き日を懐かしんでいるようだった。その頃の夢と失敗、そして秘めた情熱が、その表情に浮かび上がっている。そんな思い出話を聞きながら、作業はゆっくりと進んだ。
小一時間ほど作業を続けた頃、イマナミは古い道具の山の中から、他のガラクタとは明らかに異なる、静かな存在感を放つ一つの蹄鉄を見つけた。それは古びて錆に覆われているものの、その形に歪みはない。
「これで最後ですかね。・・・ずいぶん古い蹄鉄ですけど」
手に取ると、その重みは、単なる鉄の塊ではない何かを感じさせた。かつてこの金属が地面を蹴り、力強い馬の全身全霊を受け止めていたことを、イマナミは想像した。
「おぉ・・・こんな所にあったのか」
クニモトはそれを手に取ると、まるで失われた宝物を見つけたかのように、その目に柔らかな光が宿った。優しく表面の錆を指の腹で撫でるその動作には、長い年月を経た物への深い愛情が表れていた。
「有名な馬のものですか?」
「いや・・・」
クニモトはゆっくりと首を振った。
「俺が調教師になって、初めてレースに出した馬のだ」
クニモトは静かに語り始めた。
「名前はアケボノ。オーナーがな、俺の調教師人生の、夜明けになってほしいと願って名付けてくれたんだ。少し照れくさい名前だが、忘れられない一頭だよ」
その声は、ふっと若さを取り戻したかのように、生き生きとしていた。過去を語る彼の言葉には、時を超えた情熱が宿っていた。
「アケボノ・・・どんな馬だったんですか?」
イマナミは、その物語に引き込まれるように、身を乗り出した。厩舎の静けさの中、師の思い出話だけが、温かな響きをもって満ちていく。
「とにかく気性が荒くてな。デビューさせるまでが一苦労だった。ゲートインを嫌がるし、調教でもすぐに飽きる。俺も調教師になったばかりで右も左もわからず、空回りばかりでな。なんだか、当時の自分を見ているようだったよ」
クニモトは少し寂しそうに笑った。夕陽がその顔に長い影を落とし、過去の苦労を物語っているようだった。
「それでも、初めて勝った時のことは今でも忘れられない。ただの未勝利戦だったがな。ゴール前、必死で願ったよ。もうダメかと思った瞬間、あいつがもうひと伸びして、ハナ差で勝ったんだ。ウイナーズサークルでオーナーと抱き合って喜んだ。
あの感動があったから、今日まで調教師を続けてこられたのかもしれん」
その声は、少しだけ震えていた。老練な声の奥には、決して消えることのない情熱と、馬と共に歩んできた喜びが確かに存在していた。まるで自分の思い出に蓋をするように、クニモトはその錆びついた蹄鉄を、丁寧にジャケットの内ポケットへと滑らせた。
「・・・いい話ですね、なんだか」
イマナミは、静かに呟いた。
「ああ。だが、それもあと半年で終わりだ」
そう言ったクニモトの横顔は、夕陽がその深い皺を黄金色に染め上げ、浮かんだ表情の意味を、イマナミは測りかねた。
「センセー・・・」
かけるべき言葉が見つからなかった。
「ありがとな、イマナミ。おかげで綺麗になった。さあ、感傷に浸ってる暇はないぞ。二次試験まで、あと一ヶ月だ。気張っていけ」
クニモトは、そう言ってイマナミの肩を軽く叩いた。
「はい!」
イマナミは、短く応えて力強く頷いた。
厩舎に差し込む最後の夕陽が、まるで時間の流れを象徴するように、ゆっくりと色を失っていく。
終わりゆくものと、始まろうとするもの。二人の間に流れる静かな絆は、言葉を超えた何かをそこに残していた。




