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21-4 待つ者・共に歩む者

 年の瀬が迫る、冬の午後。イマナミとクニモトを乗せた車は、穏やかな丘陵地帯に広がる河合牧場のゲートを静かにくぐった。慣れ親しんだ乾いた草の匂いが微かに鼻腔をくすぐる。

 そんな中、出迎えてくれたのは、厚手のジャンパーを着込んだアオキだった。


「クニモト先生、イマナミさん、お疲れ様です」

「アオキさん、ご無沙汰しています。ノゾミは・・・あいつは、どうしていますか?」


 逸る心を抑えきれず、イマナミは喉に詰まる言葉を振り絞った。調教師試験の勉強に没頭する日々は、愛馬のいるこの場所から物理的に彼を遠ざけた。


 アオキからの電話で、獣医師の神崎が送ってくるデータで、回復は順調だと何度も聞いてはいた。だが、活字や数字の羅列が、あの春の日の悪夢を拭い去ってくれるわけではない。自分のこの目で、確かめなければならなかった。


 アオキは、そんなイマナミの心中を察したように、頷いた。


「ええ。悪くないですよ。・・・驚くほどに、ね」


 案内された広大な放牧地には、冬の柔らかな陽光を浴びて、一頭の黒鹿毛が静かに佇んでいた。その姿を見た瞬間、イマナミの心臓が大きく高鳴る。大阪杯の頃の、鋼を削り出したかのような馬体とは違う。まだ全体的に線は細く、注意深く見れば、右後脚の歩様には僅かなぎこちなさが残っている。


 だが、その凛とした佇まい、天を衝くかのような首のライン、そして何よりも、周囲の空気を支配するような独特のオーラは、紛れもなくフッカツノネガイーノゾミそのものだった。


「ノゾミ・・・!」


 イマナミの声に、遠くで草を食んでいたノゾミが、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が、確かにイマナミを捉える。一瞬の間。そして、ノゾミは確かな、そして以前よりもずっとしっかりとした足取りで、イマナミの方へと歩み寄ってくる。


「歩様も・・・すごく良くなってる・・・。頑張ってるんだな、ノゾミ。お前も、戦ってるんだな」


 イマナミはそう呟いた。


「ヒンッ!!」


「当たり前だ」とでも言いたげに、ノゾミは誇らしげに鼻を鳴らした。イマナミはたまらず駆け寄り、その首筋に顔をうずめ、たてがみを優しく撫でた。硬く、それでいて温かい感触が、空白の8ヶ月を埋めていく。あの夜以来の再会だった。


 イマナミがノゾミと、積もる話をするかのように触れ合っている間、少し離れた場所で、クニモトは牧場のオーナーであるケイゾーと、静かに向き合っていた。事務所の窓から、二人の姿が穏やかに見えている。


「河合オーナー。今日は、ノゾミの顔を見に来たのは勿論ですが・・・他ならぬ、お願いがあって参りました」


 クニモトは、いつになく真剣な、そして覚悟を決めた面持ちで切り出した。


「私たち国本厩舎が、私の定年により再来年の3月をもって解散となりますのは、ご存知の通りかと存じます」

「はい。それはもちろん・・・。本当に残念でなりません。ノゾミが帰る場所は、センセーの厩舎だと、そう思っておりましたから・・・」


 ケイゾーも、寂しさを隠さずに応じた。


「失礼ですが、オーナーは、その後のノゾミの転厩先など、何かお考えなのでしょうか?」

「いえ・・・何しろ、こちらはまだ復帰すら不透明な馬ですからな。正直、そこまで考える余裕は・・・」


 ケイゾーはそう言って、自嘲気味に肩をすくめた。


「それならば、良かった・・・。実はケイゾーさん。今、うちのイマナミが、調教師を目指して、全てを懸けて勉強に励んでおります」

「へぇ!イマナミ君が!それは凄いことですね!」


 ケイゾーは、驚きに目を丸くした。その視線は、窓の外でノゾミの鼻面を優しく撫でるイマナミの背中に注がれている。


「はい。あいつは、今回の件で、ホースマンとして大きく成長しました。そして、決意したのです」


 クニモトは言葉を続け、一度、固く目を閉じた。


「・・・それでですね、これは、私の、そして彼の、あまりにも虫の良い、そして途方もない願いであることは重々承知の上でのお願いなのですが・・・もし、万が一にも、あいつが難関を突破し、この先、自分の厩舎を持つことが叶った暁には・・・ノゾミを、イマナミに託してはいただけないでしょうか。

 あいつにとって、ノゾミはただの担当馬ではない。人生を変えた、特別な、唯一無二の存在なのです」


 クニモトは、その長いホースマン人生の誇りを全て懸けるかのように、ケイゾーに向かって深く、深く頭を下げようとした。

 その時だった。


「センセー、やめてくださいよ」


 ケイゾーが、力強い声でそれを制した。その声には、困惑ではなく、熱い感情が混じっていた。


「センセーが何をおっしゃりたいか、痛いほどわかります。ですが、そのお願いは・・・その言葉は、本来、私の方から切り出すべきことです」


 予期せぬ言葉に、クニモトが顔を上げる。ケイゾーは、真っ直ぐにクニモトの目を見つめ返すと、一度、窓の外でノゾミと戯れるイマナミに目をやった。その横顔には、深い感慨が浮かんでいる。


「思い出しますよ。あの馬が被災し、心にも体にも深い傷を負って、うちの牧場に戻ってきてくれた時を。

 正直に申し上げて、当時のノゾミは『走る』ことへの執着が、もはや狂気じみていた。私やアオキですら手を焼くほどの獣です。

 ましてや出会ったばかりのイマナミ君には、人の意思を受け入れぬ凶器にすら見えたでしょう。あの時、彼が匙を投げても、誰も責めることはできなかったはずです」


 ケイゾーの声が、確信を帯びて熱を増していく。


「でもイマナミ君は決して見放さなかった。彼がどれほど辛抱強く向き合い、その信頼を勝ち取るまでに、どれほどの時間を過ごしたことか・・・私には想像もつきません」


 そう言ってケイゾーは視線を下げた。


「そして、あのダービー。世代の頂点に立っただけでも奇跡でした。しかし、本当の戦いはそこからだった。

 歴戦の古馬が牙を剥くグランプリ……有馬記念。ダービーの後も、目に見えぬトラウマの影と戦い続けたノゾミを支え、導き、ついにグランプリホースの栄冠まで掴み取った。

 あの偉業は、イマナミ君の日々の献身がなければ、決して成し得ませんでした」


 ケイゾーは言葉を切り、再び窓の外にいる一人と一頭に目を細めた。


「あの栄光の後、再び奈落の底へ突き落とされた今、ノゾミはあんなにも穏やかな目で、イマナミ君と心を通わせている。

 ・・・センセー、馬は嘘をつきません。今のノゾミの姿こそ、イマナミ君という一人の人間が、どれほど真摯に彼と向き合い、その魂に寄り添ってきたか、その揺るぎない『証』になると思います。彼は真正面からそして真剣にノゾミと向き合ってきたんですね・・・」


 だから、とケイゾーはクニモトに真っ直ぐ向き直った。


「お願いなど、とんでもない。私の方から頭を下げてでも、『私たちの物語の続きを、イマナミ君に託したい』と、そうお伝えするつもりでした。先生、どうか未来のイマナミ調教師に・・・このノゾミを、託させてください」


 窓の外では、夕陽がイマナミとノゾミのシルエットを長く、長く大地に映し出していた。

 圧勝の歓喜と、ゴールの先に待っていた絶望。諦めを知らない一頭の馬と、その復活を信じて支え続けた者たち。新たな進化を求める者。そして、ホースマンとしての新たな道を歩み始めた一人の男。

 激動と呼ぶにはあまりに濃密な一年が、静かに暮れようとしていた。

 だが、これは終わりではない。

 最も深い夜の向こうに、必ず朝は来る。

 長い冬の先に待つ春を信じる者たちの、祈りのような年の瀬だった。

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