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19-2 繋げる

 翌朝。朝靄がまだ厩舎の屋根を濡らしている。そんな朝早い事務所にいつものように並んでいる国本厩舎のスタッフたちの前に、クニモトが立った。その表情は、普段と変わらぬ厳しさを湛えているが、瞳の奥には確かな熱が宿っていた。


「昨夜、イマナミから話があった」


 低く、しかし隅々まで響き渡る声。スタッフたちの視線が、自然とイマナミに集まる。当のイマナミは、唇を固く結び、緊張した面持ちで床の一点を見つめていた。


「イマナミは、調教師を目指すことに決めた」


 ざわ、と空気が揺れた。それは単なる動揺ではない。驚き、期待、そして心配が入り混じった、複雑な響きだった。クニモトは、その小さな波紋が収まるのを静かに待ってから、言葉を続けた。


「今年の試験は流石に無理だろう。だが、来年の試験には間に合わせたい。これからの二年間、あいつには調教師になるための勉強と、調教助手としての経験を徹底的に積ませる」


 二年後、という具体的な言葉に、スタッフたちの表情が引き締まる。


「ついては、暫くサカイの下についてもらう。イマナミが今担当している馬たちは、宮下と只野で分担してくれ。皆の負担が増えることは承知の上だ。だが、協力してほしい」


 簡潔な、しかし有無を言わせぬ言葉だった。宮下と只野は、一瞬顔を見合わせたが、すぐに力強く頷いた。


「まず、イマナミは、まず二人にしっかり引き継ぎを。サカイ、お前はイマナミの教育計画を立てておけ。今日の調教は俺が直接見る」

「わかりました」

「サカイさん。・・・これから、よろしくお願いします!」


 イマナミが、深く、力強く頭を下げた。サカイは、そんな後輩の肩を軽く叩く。


「やめろって、柄じゃねえ。それより、引き継ぎは頼んだぞ。お前の担当馬は、癖の強いのばっかりなんだからな」

「はいッ!!」


 突き抜けるように明るいイマナミの返事に、サカイの口元が思わずほころんだ。話がまとまったのを見て、国本は改めて全員の顔を見渡し、パチンと手を打った。


「これは、イマナミ一人の戦いじゃない。俺たち国本厩舎、チーム全員の戦いだ。仲間の決断だ。俺たちは、全力でその背中を押す。・・・みんな、力を貸してくれ」


 国本が、深く頭を下げた。


「当たり前じゃないですか、センセー!」


 誰かの野太い声が、事務所の空気を震わせた。それを皮切りに、張り詰めていた緊張が一気に和らぐ


「イマナミ先生かあ!なんか、すげえ違和感だな!」

「まあ、あいつにゃ借りもあるしな。しゃあねえ、協力してやるか!」

「あのイマナミくんがねえ。私も年をとるわけだわ」


 口々に飛び交う温かいヤジと激励。誰もが、自分のことのように喜んでいる。その輪の中心で、イマナミはただ、照れ臭そうに頭を掻いていた。


「それじゃあ、今日も安全第一でいくぞ。解散!」


 クニモトの号令で、スタッフたちはそれぞれの仕事へと散っていく。誰もが、すれ違いざまにイマナミの肩や背中を叩いていった。


「イマナミ、引き継ぎ、みっちり頼むぞ!覚悟しとけよ!」

「宮下さん、お手柔らかに・・・。只野さんも、本当にすみません」

「気にするな。困ったら夜中でも叩き起こすだけだ。お互い様だよ」


 三人の背中が薄暗い馬房の奥に消えていくのを、クニモトとサカイは見送っていた。朝の喧騒が遠ざかり、二人の間には穏やかな静寂が流れる。


「・・・良かったですね、先生」


 サカイが、まるで自分のことのように、安堵のため息と共に呟いた。


「・・・どうした、サカイ。らしくないな」

「いえ・・・。先生が、一番望んでいたことでしょう。あいつに、調教師になってほしかった」

「・・・ああ。」


 クニモトは、傍らの水道の蛇口をひねり、冷たい水で無造作に顔を洗った。流れ落ちる水の音を聞きながら、その目はどこか遠くを見ている。


「・・・確かに俺は、イマナミに調教師なって欲しかった。だが別にイマナミが厩務員のままでも、俺は構わなかったんだ」

「・・・と、言いますと?」


 蛇口を閉め、濡れた手の甲で口元を拭う。厳しい眼差しの奥に、不器用な親心のようなものが滲んでいた。


「あいつは、ただ『馬が好きだから』という一心で、この厳しい世界にいた。だが、それだけじゃ、いずれ燃え尽きる。この先、自分がどうなりたいのか、どうあるべきなのか。その姿を明確に描こうとしてこなかった。調教師になるにしろ、一流の厩務員として骨を埋めるにしろ、己の道を己で決める必要があった。・・・ただ、それだけだ」

「・・・なるほど」


 サカイは、師の洞察に静かに頷いた。不意に、クニモトが口の端を少し上げて、試すようにサカイを見た。


「お前こそ、期待してたんじゃねえのか?イマナミが、こっち側に来ることを」


 核心を突かれ、サカイは一瞬言葉に詰まる。まるで長年の重荷を下ろしたような、それでいて少し寂しそうな、複雑な苦笑を浮かべた。


「・・・バレてましたか」

「お前が、頑なに調教師の道を固辞するのを見てりゃあな」


 サカイは、ふと自分の節くれだった手を見つめた。数えきれないほど手綱を握り、馬体を洗い、怪我の手当てをしてきた、ホースマンの手だ。


「あいつは・・・俺にないものを持ってますから」

「というと?」

「人柄、としか言えません」


 サカイは顔を上げ、仲間たちが働く厩舎の奥へと視線を向けた。その声には、確かな実感がこもっていた。


「不思議と、あいつのためなら、って思わせる何かがあるんです。助けてやりたい、一緒に夢を見たい、と。・・・チームを率いる人間には、それが不可欠です。技術だけじゃ、馬は育てられても人はついてこない」

「・・・そうか」

「羨ましい、と思いますよ。正直に」


 自嘲気味に呟き、サカイはそっと拳を握りしめた。それは、自分にはないものを持つ後輩への、純粋な敬意と、ほんの少しのもどかしさの表れだった。そんなサカイの心の揺れを見透かすように、クニモトは静かに問いかけた。


「サカイ。俺が、イマナミの挑戦を心から喜んでいる本当の理由が、わかるか?」

「あいつに、調教師としての素質があるから、では?」

「それもある」


 クニモトは一度言葉を切り、サカイの目を真っ直ぐに見据えた。


「だがな、一番の理由は・・・サカイ、お前という『土台』があるからだ」

「・・・俺、ですか?」


 サカイは、思わず息を呑んだ。予期せぬ言葉に、彼の瞳が大きく見開かれる。


「そうだ。あいつは人を惹きつける『旗』だ。だが、旗はそれだけじゃ立っていられん。風雪に耐え、天を突くほど高く旗を掲げるには、頑丈な『旗竿』がいる。それがお前だ。あいつには、まだ馬を仕上げる技術も、レースを読む目も、何もかもが足りん。それは二年やそこらで埋まる差じゃねえ」

「それは・・・確かに」


 クニモトの言葉に頷くサカイ。


「だから、お前が支えろ。お前の『技』で、今浪厩舎を、イマナミを支えろ」


 クニモトの声に、力がこもる。


「どっちが上とか下とか、そんな下らねえことじゃねえ。お前たち二人が力を合わせた時、そこには・・・」


 クニモトは、厩舎の向こうから差し込み始めた朝日に目を細め、まるで輝かしい未来そのものを見るように言った。


「国本厩舎を、遥かに超える厩舎が生まれる。お前たちなら、それができる」


 込み上げてくる熱いものをぐっとこらえ、サカイは師の言葉を全身で受け止めた。託された信頼の重みが、誇りとなって身体中に満ちていく。彼は、これ以上ないほど晴れやかな、覚悟の決まった顔で、師に向き直った。


「・・・はいッ!!」


 その返事は、夜明けの澄んだ空気に、力強く響き渡った。まるで、これから始まる長い戦いの、最初のファンファーレのように。

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