19-1 繋げる
あの決意の夜から1週間が経った。
イマナミは、スマートフォンの画面に表示された通話終了の文字を、ただじっと見つめていた。受話器の向こうから聞こえたアオキの冷静な声が、まだ耳の奥に残っている。
『復帰の目途は、最短でも二年。これは、あくまで全てが順調に進んだ場合の数字です』
二年。その言葉の重みが、ずしりとイマナミの肩にのしかかる。彼はスマートフォンの電源を落とすと、誰に聞かせるともなく、深いため息を吐いた。
ノゾミの現役続行が決まった時、心の底から嬉しかった。またノゾミと共に夢を見ることが出来る。と。
だが、二年。その歳月が、冷徹な現実を突きつけてくる。
「その頃には、もう・・・」
イマナミの視線が、厩舎の事務所の壁に掛けられたカレンダーに向かう。
そこに記されているのは、師である国本調教師の定年の日付。ノゾミがターフに戻ってくる頃、この国本厩舎はもう存在しない。
「ノゾミの帰る場所が、ない・・・」
ぽつりと漏れた言葉は、乾いた馬房の空気に吸い込まれて消えた。
ノゾミは、この厩舎でデビューし、自分と共に育ってきた。気性の荒いじゃじゃ馬が、王者の風格をその身にまとうまでに成長する姿を、誰よりも近くで見守ってきた自負がある。
この厩舎は、ノゾミにとって第二の我が家であり、自分たちスタッフは家族だったはずだ。
その、かけがえのない場所が、もうすぐ、時の流れの中に消え去っていく。
何か、何か自分にできることはないのか。
その問いは、答えのない虚しいこだまとなって胸のうちを彷徨うだけだった。
その頼りない背中を、少し離れた場所から二つの影が見つめていた。
「イマナミ・・・」
思案顔で立ち尽くす後輩に、サカイが心配そうに呟き、近づこうと一歩踏み出す。しかし、その肩を横から伸びてきた節くれだったゴツい手が、静かに制した。
「センセー?」
サカイが見上げると、クニモトが黙って首を横に振った。その老練な瞳は、彼の苦悩の全てを見通しているかのようだ。
「サカイ。今は声をかけるな」
「あいつが何に悩んでいるか、分かるんですか?」
「・・・ああ、だいたいな。だが、それは誰かに答えを教えられて出すもんじゃない。あいつ自身が、自分で、決めるしかないことだ」
クニモトはそれだけ言うと、厩舎の奥へと背を向けた。サカイは、師の言葉の真意を測りかねながらも、苦悩する彼の背中から目を離せずにいた
ーーーーーーーーーー
答えが出ないまま、夕暮れが厩舎を茜色に染めていた。イマナミは重い足取りで事務所の扉を開ける。すると、中からは賑やかな声が漏れてきた。
「あ、イマナミくん、お疲れ様。ちょうどよかった。麦茶あるけど、飲むでしょ?」
事務の有紗が、テレビの前に集まるスタッフの輪から抜け、人の好い笑顔で迎えてくれた。
「有紗さん、お疲れ様です。いただきます。皆さん、何で集まってるんですか?」
冷たいお茶の入ったコップを受け取りながら尋ねると、一番のベテラン厩務員である宮下が、悪戯っぽく笑って手招きした。
「おう、イマナミ!お前もちょうど上がりか?なら、お前も聞くか?クニモトの、とっておきの武勇伝をよぉ」
その言葉に、イマナミは苦笑いを浮かべた。
「えー、またですか、宮下さん。いつもの、聞き飽きた話でしょう?」
「馬鹿野郎!今日のは、俺たち国本厩舎の原点になった話だ!とっておきなんだよ!」
「はいはい。分かりましたよ、付き合いますって」
そう言ってイマナミはスタッフの話の輪に入っていった。
宮下の演説が始まって、30分ほど経ち、事務所の扉が開かれる。
「おつかれー。ってお前ら。まだ帰ってなかったのか?」
「おーお疲れ。サカイ。クニモト」
打ち合わせを終えたサカイとクニモトだった。
「また宮下さん。俺たちの悪口言ってたんでしょ」
サカイは宮下に意地悪げにそういった
「いやいや、そんなわけあるかよ!」
「いやーどうかなー?」
クニモトは疑いの目を向けながら、ジャケットをハンガーにかけた。
「なら、俺達もその会話の中に入らせてもらうかな」
クニモトはそう言って、宮下の隣にどかりと腰を下ろした。
時計の針は夜8時をとうに過ぎていた。事務所には、まだ笑い声が響いている。宮下の語るクニモトの「とっておきの武勇伝」は、若かりし頃の失敗談も交えたもので、クニモト本人は苦笑いを浮かべながらも、まんざらでもない様子だ。サカイが茶々を入れ、有紗が相槌を打ち、他のスタッフもそれぞれの思い出を語り出す。
「あの頃はセンセーも無茶しましたよねえ」
「おいおい、昔の話を蒸し返すなよ」
「でも、あのレースの後のセンセーの涙、忘れられませんよ」
「そうそう、あの馬が勝った時、みんなで泣きましたもんね」
次から次へと思い出が溢れ出す。イマナミは、温かいお茶をすすりながら、その輪の中にいた。昼間の、あの胸を締め付けるような焦燥感が、この温かい空気の中で少しずつ溶けていくのを感じていた。
(ああ、やっぱり俺は、この場所が好きなんだな・・・)
馬たちのいななきが遠くに聞こえる。壁には、厩舎ゆかりの名馬たちの写真が飾られている。汗と土の匂い、そしてスタッフたちの笑顔。ノゾミも、ここで育ち、自分と共に歩んできた。ここが、ノゾミの帰るべき場所。そして、自分にとっても、かけがえのない場所だ。
「しかし、まあ、こうやって皆で馬鹿話できるのも、あと少しなんだよなあ」
宮下が、ふと寂しげに呟いた。その言葉に、事務所の空気が一瞬、しんとなる。
有紗が「やだ、宮下さん、しんみりさせないでくださいよ」と明るく返すが、皆の胸には同じ思いがよぎっていた。
(あと、少し・・・)
ノゾミの居場所が、そして、自分のこの大切な居場所があと2年。
(本当に、それでいいのか・・・?)
昼間、自問自答を繰り返した問いが、再び降りかかる。
(できることはないのか、だって・・・? あるじゃないか・・・!)
心の中で、一つの答えが形になり始めていた。それは、途方もなく険しい道かもしれない。
だが、この場所を守りたい、ノゾミの居場所を残したいという強い想いが、イマナミの背中を押していた。スタッフたちの笑顔、クニモトの指導、そして何より、ノゾミと共に過ごした日々。
それら全てが、イマナミの中で大きな決意へと変わっていった。
時計の針が夜9時を回り、クニモトの「そろそろお開きにするぞ」という声を合図に、スタッフたちは次々と挨拶をして事務所を出ていった。扉が閉まると、先程までの喧騒が嘘のような静寂が訪れる。事務所には、イマナミと、まだ椅子に腰かけたままのクニモトだけが残されていた。
壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
イマナミは、一度深呼吸をした。心臓が早鐘のように打っている。意を決して、師に向き直った。
「センセー。少し、お時間よろしいでしょうか」
クニモトは、何も言わず、ただ静かにイマナミを見た。昼間、サカイを制した時の、全てを見通すような目がそこにある。
「なんだ」
短く、しかし有無を言わせぬ響きのある声だった。イマナミはごくりと唾を飲み込み、まっすぐにクニモトの目を見つめ返した。
「俺・・・調教師の試験を受けようと思います」
言葉は、震えなかった。
静まり返った事務所に、イマナミの決意が響く。クニモトは、イマナミの言葉に一瞬、目を見開いた。だが、それは驚きというよりは、深い感慨を宿した表情だった。
長い沈黙が流れる。
クニモトは、ただじっと、目の前の青年の覚悟のほどを測るように見つめている。やがて、その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「・・・菊花賞の前だったか。お前に、『調教師にならないか』と言ったのを、覚えているか?」
その問いかけに、イマナミは息を呑んだ。
「・・・はい。はっきりと覚えています。あの時は・・・正直、俺なんかが、と・・・」
クニモトの声は静かだったが、確かな芯が通っていた。
「俺は、本気で言っていたんだぞ。お前には、その素質がある、と。あの時からずっと思っていた」
師の真剣な眼差しに、イマナミは言葉を失った。ただ見守るだけでなく、ずっと前から自分を信じ、期待してくれていた。その事実が、胸の奥を熱くする。
「だが、こればっかりは、俺がいくら言ったところでどうにかなるもんじゃない。お前自身が腹の底から『なりたい』と思わなきゃ、意味がないからな。・・・それで?何が、お前の腹を決めさせたんだ?」
クニモトの問いかけは、穏やかだった。しかし、その瞳の奥には、確かな答えを求める真剣な光が宿っている。
「菊花賞前のあの話から、ずっと、心のどこかに引っかかっていました。ただ、現状を変えるのが怖くて・・・忙しさにかまけて、ずっと考えることから逃げていたんだと思います」
イマナミはそう言って、一度視線を落とした。自分の弱さを認めるように。だが、再び顔を上げたその瞳には、もう迷いはなかった。
「でも、センセーが人生を懸けて守ってきたこの場所がなくなると思ったら・・・ノゾミの帰る場所がなくなると思ったら・・・もう、逃げたくない、と強く思いました。センセーが繋いできたこの灯りを、俺が、この手で繋ぎたい。
今は、本気でそう思っています」
クニモトは満足そうに深く頷いた。しかし、その表情はすぐに、慈愛に満ちた、より一層真剣なものへと変わる。
「だがな、イマナミ。その道は、お前が思っている以上に険しくて、孤独な道だぞ。嬉しいことより、辛いことの方が多いかもしれん。その重圧に、本当に耐えられると、誓えるか?」
「・・・確かに、全ての責任を一人で背負うのが、調教師の仕事だと思います。ですがセンセー、それは孤独とは違うはずです」
イマナミの声は、静かだが、その奥に確固たる哲学を宿していた。
「そこに至るまでには、共に汗を流す仲間がいます。信じて走ってくれる馬がいます。そのみんなの想いの、最後の砦になる。それが調教師の仕事じゃないでしょうか」
イマナミは、言葉を切り、真っ直ぐにクニモトを見つめた。――それを背中で教えてくれたのは、あなただ、と。その視線が、雄弁に語っていた。
「みんなの想いを一身に背負えるなら、その重圧は恐ろしくありません。むしろ、その重みこそが、俺を強くしてくれると信じています」
「・・・わかった」
クニモトはそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、イマナミの前に立った。そして、その肩に、ポンと力強く手を置いた。
「『繋ぎたい』か。
嬉しいことを言ってくれる。だがな、イマナミ。一つだけ、訂正させろ」
「・・・え?」
「お前は、この国本厩舎を継ぐんじゃない」
クニモトの言葉に、イマナミは戸惑いの表情を浮かべた。守りたいと願った場所を、否定されたかのように感じたからだ。そのイマナミの心を見透かすように、クニモトは続けた。
「お前は、お前の厩舎を、ゼロから作るんだ。『今浪厩舎』という、新しい看板を、お前自身の力で掲げるんだよ」
「俺の・・・厩舎・・・」
「そうだ。もちろん、俺が築いてきたもんの多くは、お前に託すことになるだろう。ここにいるスタッフも、俺を信頼してくれる馬主さんたちも、そして何より、ノゾミのこともな。だがな、それは土台だ。俺の古い看板に、お前の才能を縛り付けるつもりはない」
クニモトの目は、ただ厳しく、そしてどこまでも優しかった。
「俺のやってきたことをなぞるだけじゃ、俺は超えられんぞ。お前は、俺が築いたこの土台の上で、全く新しい、お前だけの城を築け。俺が夢見ても届かなかった景色を、お前が見せてみろ」
継ぐのではない、超えていけ――。
師の言葉は、イマナミが考えていたよりも、遥かに大きく、そして気高い目標を示していた。胸の奥が、熱くなるのを感じた。
「はい・・・!」
「よろしい」
クニモトは、もう一度力強く頷いた。
「だから、案ずるな。お前の信じる道を、まっすぐに行け。俺にできることなら、何でも協力する。」
そして、クニモトはふっと表情を崩し、悪戯っぽく笑った。
「ただし、試験に何度も落ちて、俺に恥をかかせるようなことだけはしてくれるなよ?」
その茶目っ気のある言葉に、張り詰めていたイマナミの心も、ふっと和らいだ。
「・・・はいッ!!」
イマナミの返事は、決意と、込み上げる感謝の気持ちで、わずかに震えていた。
一人残された事務所で、イマナミはしばらく動けずにいた。師から託された、想像以上に大きな想い。それは、重圧などではなかった。お前ならできるという、絶対的な信頼の証だった。
イマナミは、窓の外に目をやった。静まり返った夜の厩舎の向こうに、ノゾミの姿が見えるような気がした。




