15-1 終幕に続くエピローグ
視界が滲む。
耳に入る万雷の拍手と地鳴りのような歓声が、まるで現実ではないかのように遠くに聞こえる。
イマナミの目には、ただ、激闘を終え、ゆっくりと歩様を緩める愛馬の姿だけが、スローモーションのように焼き付いていた。込み上げてくる熱い、熱い思いが、抑えきれずに言葉となって喉から飛び出した。
「やった!ノゾミ!!やりましたよ!サカイさん!!」
一着かどうか、もはやそんなことは些末なことに思えた。
あのノゾミが、最後の直線で見せた、まるで呪縛から解き放たれたかのような走り。自らの力で、忌まわしい過去の鎖を断ち切った。その瞬間を目の当たりにした衝撃と感動が、熱い塊となってイマナミの胸に込み上げてくる。目頭がじわりと熱くなった。
「イマナミ、やったな・・!本当に・・・!!」
背後から、震える声と共に力強い手が肩に置かれた。普段はポーカーフェイスを崩さないサカイの、その声は明らかに上ずり、肩を叩く指先は興奮で微かに震えている。必死に冷静さを装っているが、その潤んだ瞳は隠せていない。
「やりましたね、サカイさん!!勝ってたら・・・勝ってたら最高なんすけど・・・!でも、あいつ・・・!」
「ああ、分かってる。まずは、俺たちが信じたノゾミが、俺たちの想像を超えて、あの壁を乗り越えたことを喜ぼう。・・・よく、応えてくれた」
「・・・はいっ・・・!」
サカイの言葉に、イマナミは何度も強く頷いた。込み上げる感情で、それ以上の言葉が出なかった。
「あれ?そう言えばセンセーは?どこ行ったんだろ?」
ふと我に返ったイマナミが、興奮冷めやらぬスタンドをキョロキョロと見渡す。
「さあな。まあ、あの人なりに、見届けたい場所があるんだろう」
サカイも軽く肩をすくめる。二人が師の不在を気にしながらも、固唾を飲んで画面の向こうの結果判定を見守った。
その頃、彼らの師であるクニモトは、少し離れた場所で、旧知のライバルであり、盟友でもある高柳調教師と静かに言葉を交わしていた。
「いやはや、見事に蘇らせたな、ノゾミを。・・・いや、違うか。あれはもう『進化』だな。恐れ入ったよ。さすがは『名伯楽』の、面目躍如ってとこか?」
高柳の、少し茶化すような、しかし偽らざる称賛の言葉に、クニモトはゆっくりと頷いた。
「あぁ。なんとか・・・間に合わせることができた。正直、ホッとしてるよ」
「間に合わせた、ねぇ・・・」
高柳はニヤリと笑う。
「で、どんな魔法を使ったんだ?あのノゾミをここまで変えるなんて」
「よせやい」
クニモトは苦笑いを浮かべ、軽く手を振った。
「今回は、ほとんどサカイとイマナミがあいつを導いたんだ。俺はもう、見てるだけだったさ」
その言葉には、ほんの少しの自嘲と、しかしそれ以上に大きな、弟子たちへの誇りが滲んでいた。彼はポケットに手を入れたまま、再びターフへと視線を戻した。
「見てるだけ?おいおい、G1馬の仕上げはアンタが直々にやるのが、国本厩舎の不文律じゃなかったのか?あの頑固者のアンタが、よく任せたもんだな」
高柳は心底驚いたように目を丸くした。クニモトほどの調教師が、ましてや有馬記念という大舞台で、仕上げを若手に委ねるなど、考えられないことだったからだ。
「別にそれが俺のこだわりってわけじゃない」
クニモトは遠い目をする。
「ただ、俺がやった方が、より良い結果を出せると思っていた。それだけだ。だが・・・もう、違うのかもしれんな。技術に関しては少なくとももうサカイのほうが上だ」
そう言って呟くクニモトの横顔には、一つの時代が静かに終わりを告げる寂寥感と、新しい才能が力強く芽吹くのを目の当たりにする眩しさ、そして何より、我が子のように育ててきた愛弟子たちの確かな成長を誇る温かい光が、夕陽のように複雑に混ざり合って射していた。
それを見て、高柳はふっと息を吐き、そして穏やかに笑った。
「そうか・・・。まあ、アンタが見込んだ若者たちだ。アンタの魂は、技術や情熱は、ちゃんと受け継がれてるってことだろうよ。俺たちみたいな古い世代は、そろそろ安心してターフを眺めてられるようになるのかもな。・・・少し、寂しい気もするがな」
長年のライバルだからこそ分かる、時代の移ろいへの共感と一抹の寂しさ。その言葉に、クニモトもまた、静かに頷いた。
「・・・そうだな。信頼してるよ、あいつらの情熱と、腕をな」
その声には、確かに未来を託す響きがあった。
「お、結果が出たみたいだぞ」
高柳が電光掲示板を指さす。
「珍しい。同着か。ホワイトフォースと。・・・まあ、アンタらしい、一筋縄ではいかない勝ち方だな。おめでとう、でいいのか?」
「ああ、ありがとうよ」
クニモトは頷き、踵を返す。
「じゃあ、俺はあいつらのところに戻るわ」
「おう。そうだな。こんな所で油売ってる場合じゃねえ。行ってやれ」
「ああ・・・」
高柳に見送られ、クニモトは若者たちが待つ場所へと歩き出した。
「センセー!どこ行ってたんすか!もう、結果出ちゃいましたよ!」
「悪い悪い。高柳と少し世間話をしていてな」
「世間話って・・・!こっちは心臓止まるかと思って、ストップモーションの映像とにらめっこしてたってのに・・・!」
「ハハ、お前がそんなことしたって、着順は変わらんだろうに」
「そりゃーそうですけどぉ!」
クニモトの冷静なツッコミに、イマナミが子供のように口を尖らせる。そのやり取りに、サカイも思わず笑みをこぼした。
「まあまあ。・・・それにしても、同着か。勝ちきれなかったのは少しだけ悔しいが、それでも、有馬記念制覇だな」
「はいっ!」
イマナミが、今度こそ満面の笑みで元気に返事をする。
「センセー・・・本当に、ありがとうございました。センセーの教えがあったからです」
サカイが、深く、深く頭を下げた。その言葉に、クニモトは少し照れたように目を細めた。
「よせよ。・・・サカイ、イマナミ・・・俺の方こそ、ありがとうよ。ノゾミ・・・見違えるように、強くなっていたな」
そう言って、クニモトは万感の思いが込められた、深い、深い笑顔を見せた。それは、一つの時代を築き上げた男が、新しい時代の担い手たちへ送る、最大の賛辞であり、祝福の笑顔だった。




