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14-2 記憶との死闘

「さて、ノゾミやってやるか」


 ゲート前の喧騒の中、三津は静かに、しかし確かな熱を込めて相棒に語りかけた。


「ブフゥッ・・・!」


 荒い鼻息と共に返ってきた嘶き。その音には、闘志以外の何かが混ざっていた。パドックでイマナミが感じていた気負い。それは返し馬で確信に変わっていた。


(硬い・・・)


 返し馬での加速は明らかに鈍く、しなやかであるはずの首の動きもぎこちない。


「おいおい、力みすぎだ。リラックスしろ、ノゾミ。自然体でいいんだ」


 三津は手綱を僅かに緩め、その逞しい首筋を優しく、しかし力強く叩いた。言葉にならない励ましが、掌から伝わるように。


「・・・」


 ノゾミは黙ったまま、だが、その耳は確かに三津の声を受け止めていた。


「心配するな。俺が必ず、お前が一番力を出せる場所まで連れて行ってやる。最高の舞台を用意する。だがな、ノゾミ・・・」


 三津は一度言葉を切り、ノゾミの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「お前を縛るその鎖・・・過去のトラウマという名の壁を壊せるのは、お前自身の蹄だけだ。頼んだぞ」

「ヒンッ!」


 力強い嘶き。ノゾミの瞳に、一瞬、強い光が宿った気がした。ほんの僅かだが、全身を覆っていた硬さが和らいだように三津は感じた。


(そうだ、それでいい。お前は一人じゃない。俺がいる。イマナミがいる。お前を支える人間はたくさんいる。

 だが、最後の扉を開けるのは、お前自身なんだ)


 幾千ものレース展開を脳内でシミュレートし、あらゆる可能性を想定する。その緻密さと大胆さを併せ持つ騎乗ぶりを、もはや ”元”天才ジョッキーと揶揄する者は誰もいない。三津康成は、苦難を乗り越え、再びトップジョッキーとしてここに立っているのだ。


 スターターがゆっくりと壇上に上がる。そしてスターターの合図とともに壮大なファンファーレが鳴り響く。そしてそのファンファーレとともに、地鳴りのような歓声と手拍子が起こるが、それは爆発的な熱狂というよりは、むしろこれから始まる決戦への、固唾をのむような緊張感を高めていった。


 グランプリ・有馬記念。静かに、しかし確実に、運命の歯車が回り始める。


 ーーーーーーーーーー


『さあ、ファンの皆様、大変長らくお待たせいたしました!陸上自衛隊中央音楽隊による荘厳なファンファーレが、暮れの中山の空に響き渡りました!

 枠入りは既に始まっています。奇数番の馬がまず全頭収まり、偶数番の馬も次々と。そして秋古馬3冠をかけた現役最強馬、インダストリアル・・・今日はゲートスンナリ収まりました。

 ゲート入りは残すは1頭。大外16番、フッカツノネガイ。被災地の希望を一身に背負い、ダービージョッキー三津康成と共に、グランプリの頂点を目指します!

 さあ、ゆっくりとゲートに向かい・・・今、収まりました。


 ゲートイン完了・・・


 スタートしました!!グランプリ・有馬記念!!


 16頭、ほぼ揃った綺麗なスタート!・・・おっと、しかし!大外フッカツノネガイ、やや行き脚が鈍いか!?これは三津騎手、想定内なのか!?』


 ゲートが開いた瞬間、ノゾミの体は僅かに沈んだ。いつもなら、弾かれたように飛び出し、一気に前へ行くはずの体が、一瞬、地面に吸い寄せられるように重くなる。地面を蹴る力が、どこか躊躇っている。


(やはり・・・!)


 数完歩でリカバリーしたが、既に周囲の馬に1馬身ほど前に出られている。焦りがノゾミの走りを僅かに乱す。ブレの少ないはずの馬体が、恐怖に震えるように微かに揺れた。

 しかし、その背には百戦錬磨の鞍上がいる。


「大丈夫だ!!俺を信じろ!俺がお前を、過去の幻影ごと未来へ連れて行ってやる!!」


 三津は腹の底から声を張り上げ、ガッチリと手綱を握りしめた。その声に呼応するように、ノゾミの揺れが収まった。


『フッカツノネガイ、スタートで僅かに後手を踏みましたが、すぐに立て直し、外目の3番手を確保しました!いいポジションです!


 先頭は、フランスからの刺客、メロディーア!ピエール・デットーリ騎手が軽快に飛ばします!2番手に内からサンショクダンゴ!武谷騎手、絶好のポジションで虎視眈々!

 そして、3番手集団、内にコーラススフィア、中ラストドライブ、外にフッカツノネガイ!この3頭が並んで追走!先頭までは現在2馬身ほどの差!


 そしてその後ろ。インダストリアルが内!ホワイトフォースが外!!

 二頭が早くも互いを意識するようにピタリと併走!これは火花散る展開になりそうだ!さらにソードマウンテン、タイガーショックと続き、

 最後方、女王ハナマンカイが虎視眈々と脚を溜めている!有力馬が前、中団、後方と見事に分かれました!』


 メロディーアが刻むラップは淀みない。決して楽なペースではない。しかし、ここで焦って無理に先頭を奪いに行けば、ノゾミのスタミナを無駄に消耗させるだけだ。


(まだだ…まだその時じゃない・・・)


 1コーナー、そして2コーナー。ノゾミのコーナリングは、やはりどこか硬い。いつもなら吸い付くようにインを回る芸術的な走りが、今日は少しだけ外に流れている。

 それでも三津は慌てなかった。


(お前の末脚はホワイトフォースにもインダストリアルにも負けない。小細工はいらない。必要なのは、お前が全力を出せる舞台を作ること、そして、アイツに進路を与えないことだ!)


 三津は歯を食いしばり、冷静に時計と周囲の動きを確認しながら、ノゾミの内に秘めた爆発力を信じ、その時を待った。


『さあ、レースは向こう正面へ!1000mの標識を通過。

 通過タイムは60秒フラット。

 依然として平均ペースでレースは流れています!先頭依然メロディーア、リードは2馬身。2番手にサンショクダンゴ、そして外からフッカツノネガイが並びかける。

 その後ろ、インダストリアル、ホワイトフォースが、まるで影のようにぴたりと追走。息詰まる攻防が続きます。


 さあ、そろそろ動きがあるか!?

 おっと、後方からだ!

 静かに、しかし確実に、ハナマンカイが進出を開始した!女王が、外からスーッとポジションを上げていく!場内が、わずかにどよめき始めます!』


 依然としてノゾミの走りは硬い。だが、レースの流れにはしっかりと乗れている。これは、イマナミと共に、そして三津と共に、来る日も来る日も繰り返してきた地道なトレーニングの賜物だ。苦しくても、走り続けられる強靭な肉体と精神力が、今のノゾミを支えている。

 3コーナー。坂を駆け上がり、そして下る。勝負所の最終コーナーが迫る。

 後方から、嵐のような勢いでハナマンカイが上がってきた。場内は沸き上がり、ペースも上がっている。だが、三津の手綱は強く握られたままだった。


 まだだ。ここもまだだ。


 はやる心を押さえつけながら、冷静に手綱を握った。時は満ちつつある、と確信しながら。


『最終コーナーに入ります!ハナマンカイが外から一気に進出!その脚色は衰えない!前を行く各馬を射程圏に捉える!サンショクダンゴも内からゴーサイン!コーラススフィア、タイヨークも懸命に食らいつく!さあ前が激しくなってきた!場内のボルテージが上がっていく!

 しかし!フッカツノネガイ、ホワイトフォース、インダストリアルはまだ動かない!

 まだ仕掛けないのか!?この3頭はまだ動かない!息を殺し、互いの出方を窺う!静かなる闘志が燃え上がる!嵐の前の静寂!一瞬の静寂!!さあ、最後の!最後の直線コースへ向かう!!!


 先頭は粘るメロディーア!しかし内からサンショクダンゴ!外からハナマンカイが一気に襲いかかる!壮絶な叩き合い!


 だがしかし!来た!


 その後ろから!ついに来た!ホワイトフォースが動いた!白い閃光がターフを切り裂く!ルメロ騎手がゴーサイン!待っていた!フッカツノネガイも併せて動いた!ホワイトフォースと馬体を併せるように、一気に加速開始!三津騎手も追い出した!ついに、ついに魂のゴーサイン!!そして、その後ろから現役最強馬インダストリアルも襲いかかる!!』


 ここだ


 三津は全身全霊を込めて、ノゾミに合図を送った。


 その瞬間を待っていたかのように、ノゾミの四肢が、溜め込んでいたエネルギーを爆発させた。


 三津が狙っていたタイミング。それは、世代最強馬ホワイトフォースが動く、まさにその時だった。

 ノゾミの四肢が、解き放たれたバネのようにターフを力強く蹴る!外のホワイトフォースと並び、内に目をやればサンショクダンゴ、その間には先に動いたハナマンカイ。


『ああっと!これはどうだ!?直線入り口、なんと有力馬4頭が横一線に広がった!外からホワイトフォース、フッカツノネガイ、ハナマンカイ、内にサンショクダンゴ!まるで示し合わせたかのように、あるいは見えざる糸に引かれるように、4頭の強豪がインダストリアルの行く手を阻む壁となった!』


 三津の描いた完璧なシナリオ通りに、盤上の駒が動いた!各々の勝利への執念、鞍上のプライドが、期せずして現役最強馬を封じ込める鉄壁の布陣を作り上げたのだ。


『インダストリアルも追い出す!川中騎手も猛然と追い出すが、前が壁!厚い、厚すぎる壁だ!進路がない!どこにも行く場所がない!最強馬インダストリアル、完全に閉じ込められた!川中騎手の焦りが伝わってくる!狙うはフッカツノネガイとホワイトフォースの間か!?わずかな、本当にわずかなスペース!こじ開けられるのか!?名手の意地と誇りをかけた、乾坤一擲の勝負駆け!』


 通常、スローではないレース展開で、前にいる馬が完全に壁になることは極めて稀だ。それは、前にいる馬のどれかが失速して、そこに進路が出来るからだ。

 だが今回前にいる馬はすべて強豪、そして名手が騎乗している。失速するのは期待できない。

 そして、百戦錬磨の川中はそのことを十分承知だ。


 ならばどこを狙う?


 川中は知っていた。フッカツノネガイは、手前をスムーズに替えられず、減速することを。

 減速すれば、ホワイトフォースとフッカツノネガイとの間にスペースが出来るはずだ。


 川中は冷静に、千載一遇の、その一瞬を待った。


 ーーーーーーーーーー


「行けェェェェッ!!ノゾミィィィィィィッ!!!!」


 三津の絶叫が、中山の空に木霊した。


(ここまでは俺の仕事だ!あとは頼むぞ、相棒!お前自身の手で!その脚で!忌まわしい過去を、今ここで、完全に乗り越えてみせろ!!)


 祈りと信頼を込めて、右肩に、魂のムチが一閃した。


「ヒンッ!!」


 ノゾミの右後脚は鉛のように重かった。。魂の奥底に食い込む、冷たい絶望の鎖。走っても、走っても、振り払っても、振り払っても絡みつく、悪夢の残滓。骨の髄まで凍りつくような恐怖が、再び彼の全身を支配しようとしていた。


 手前を替えるタイミングである。後ろにはインダストリアル。手前を替えるのにほんの少しでも手間取れば。少しでもスペースが出来てしまえば、相手はそこをこじ開けてくる。

 そんな胆力があの馬にある。

 かと言って手前を替えなければ、スピードがジリジリと落ちていき、この直線で競り勝つことなど不可能だ。


 恐怖だ。


 手前を替えた瞬間、またあの地獄のような激痛が襲ってきたら・・・。考えただけで、全身が硬直し、呼吸が止まりそうになる。


 だが・・・!だがしかし!!


 イマナミの献身。三津の技術。そして過去の自分に、今の自分が負けることなど、断じて許されるものではない。魂の奥底から湧き上がる衝動と共に、彼を縛り付けていた見えない鎖が、緩んで行くイメージが脳裏をよぎった。


 脚が心なしか軽い。


 彼らだけじゃない。河合牧場の育ての親。厩舎の仲間たち。そして、スタンドからの大声援・・・孤独なあの1年とは違う。背中を押してくれる多くの存在の温もりが、冷たい恐怖を打ち消していくようだった。ここで立ち止まることは、彼自身の存在を否定することに等しかった。


 バキッ!!!!と、雷鳴のような音が響いた気がした。


 ふわり、と、信じられないほど脚が軽くなる。痛みが消える。恐怖が、朝霧のように晴れていく。まるで生まれ変わったかのように、四肢に力がみなぎり、大地を力強く蹴った!


『インダストリアル!スペースがない!なんとかフッカツノネガイとホワイトフォースの間を割ろうとしますが・・・割れない!!弾き飛ばされました!川中やむなく外へ!しかし、このロスは、あまりにも、あまりにも大きい!!


 残り200!!

 前にいたメロディーアを、サンショクダンゴ、ホワイトフォース、フッカツノネガイ、ハナマンカイが、怒涛の勢いで飲み込んでいく!インダストリアルも外から猛然と伸びてくるが、届くか!?いや、これはもう前の争いだ!!


 フッカツノネガイ!ホワイトフォース!この2頭が、他の馬たちを置き去りにして、さらに伸びる!一気に抜け出した!火花散る!魂がぶつかり合う!壮絶なる一騎打ちだ!サンショクダンゴとハナマンカイ、そしてインダストリアルは、もはや壮絶な3着争い!!


 勝負はこの2頭!この2頭に絞られた!!


 フッカツノネガイ!ホワイトフォース!フッカツノネガイ!ホワイトフォース!三津のステッキ!ルメロ追い込み!


 フッカツノネガイ!ホワイトフォース!フッカツノネガイ!ホワイトフォース!並んだ!完全に並んだ!並んだまま!並んだまま!!


 全く並んでゴールイン!!


 大激戦!!!!!!!

 なんというレース!なんという結末!


 言葉が出ません!最後の最後まで続いた、競馬史に永遠に語り継がれるであろう、壮絶極まる叩き合い!


 インダストリアルを封じ込めた魂の壁の中から、フッカツノネガイとホワイトフォース、この二頭が抜け出しての、想像を絶するマッチレース!内フッカツノネガイ、三津康成!外ホワイトフォース、クリストフ・ルメロ!!


 写真判定!もちろん写真判定です!場内は騒然とし、そして静まり返っています!ストップモーションを見ても・・・

 これは・・・

 これは全く分かりません!


 そして、こちらも最後まで続いた熾烈な3着争い!内サンショクダンゴ、真ん中ハナマンカイ、外インダストリアル!これも極めて際どい!僅かにハナマンカイが前に出ているか!?お手持ちの勝ち馬投票券は、確定のアナウンスがあるまで、絶対に、絶対に捨てないでください!


 フッカツノネガイ鞍上の三津康成は、いつもの逃げ切りではなく、ダービーの時のような4コーナーで抜け出しでもなく、直前までどっしり構えて末脚比べを選択しました。


 そしてその末脚はホワイトフォースやインダストリアル、ハナマンカイ、サンショクダンゴと言った馬とも何の遜色もない末脚を繰り出しました!!対してホワイトフォースは・・・・』


 ターフの上、肩で大きく息をするノゾミの首を、三津はただ、ただ、言葉もなく、何度も何度も優しく撫で続けた。


 ターフにいるのはホワイトフォースとノゾミのみ。2頭は静かにその時を待った。

 数分後、場内に再び静寂と緊張が訪れる。誰もが息を飲み、電光掲示板の一点を見つめる。永遠とも感じられる時間の後、ついに、着順を示すランプが、静かに灯った。


『なんと、同着・・・!!同着です!!


 信じられない!グランプリ史上稀に見る、いや、これ以上の結末が用意されていたでしょうか!一着同着です!!勝者は二頭!13番ホワイトフォース!そして、16番フッカツノネガイ!競馬の神様が描いた、最高の、そして最も美しい結末!二頭の偉大なる勝者を讃えましょう!


 3着にはハナマンカイ、4着サンショクダンゴ!そして、直線で不運に見舞われたインダストリアルは5着まで!!


 なんと、掲示板の上位4頭までを、恐るべき3歳世代が独占!新しい時代の確かな足音を、力強く示す結果となりました!!』


「よくやったノゾミ。お前は昨日のお前よりはるかに強い!!」

「ヒンッ!」


 力強く、そして、全ての苦しみから解放されたかのように、どこまでも晴れやかな響きを帯びた嘶きが、冬の空に、万感の思いと共に高く、高く響き渡った。

 悪夢の長い夜は、ついに明けた。

 彼は、光り輝く朝を迎えたのだ。

 万雷の拍手と歓声は、トラウマという名の重い鎖を断ち切った、新たなる英雄の誕生を祝福する、高らかな、そして優しい凱歌となった。

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