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12-3 再起の兆し

すいません・・・ストーリーが予定とだいぶ変わってしまって、更新遅くなりました。それに伴いまして、読み直す必要は全くありませんが、11-4が少しだけストーリーが変わっています。

 肌を刺すような冷気が、夜明け前の美浦トレーニングセンターを支配していた。吐く息はたちまち白く凍りつき、カイロを握りしめる指先は、まるで他人のもののように感覚がない。イマナミは、見えない何かに追い立てられるように、ただひたすら掌中の熱源をこすり続けていた。そこには、寒さだけではない、心の芯まで凍てつかせるような焦燥がこびりついていた。


 ジャパンカップの興奮が冷めやらぬ一週間。メディアはこぞってインダストリアルの電撃的な勝利を書き立てた。それは単なるレース結果ではなく、競馬史の新たなページがめくられた瞬間を告げるファンファーレのようだった。ターフを切り裂いたその走りは、巨大な竜巻のように競馬界を席巻し、観る者の魂を根こそぎ奪い去った。


「あれこそが、絶対王者だ」


 ――その熱狂は燎原の火となり、ファンの心を焼き尽くしていく。

 対照的に、今年のダービーを制したフッカツノネガイ――かつてターフの頂点に君臨したはずの英雄は、わずか二度の敗北で、その輝きを失いつつあった。インダストリアルという絶対的な「光」の登場によって、彼はその勝利をより際立たせるための「影」、都合の良い舞台装置として語られ始めていたのだ。

 競馬界の評価は、残酷なほどに現実を突きつけてくる。


 そして、競馬界ではフッカツノネガイに対して、冷酷なまでの評価が下されていた。


「フッカツノネガイは、確かに強い馬だ。しかし、『名馬』と呼ぶには物足りない」

「この2戦で底が見えた。G1戦線では善戦マン止まりだろう」


 その言葉は、フッカツノネガイの能力を認めつつも、その奥底に潜む、越えられない壁を示唆していた。


「はぁ・・・」


 ようやく指先に血が巡り始めたのを感じ、イマナミはカイロをポケットにしまい、深く息をついた。


 前へは進んでいる。確実に。前走のジャパンカップでは、手前を替える際のぎこちなさはまだ残るものの、以前のような致命的な減速は見られなかった。あの悪夢のような停滞が嘘のように、ノゾミは確かな進化の途上にいる。


 だが、足りない。圧倒的に足りないのだ。


 このままでは、宿敵ホワイトフォースや、完膚なきまでに叩きのめされたインダストリアルに雪辱を果たすことなど、できはしない。

 イマナミが、そして国本厩舎が夢見るノゾミの完成形――それは、ゲートが開いた瞬間、閃光のように飛び出し、コーナーでは遠心力さえも推進力に変えて駆け抜け、最後の直線では次元の違う加速でライバルたちを置き去りにする、まさに「序盤、中盤、終盤、一切の隙がない」絶対的な走り。


「そんな芸当、できるわけがない」――誰もがそう言って鼻で笑うだろう。だが、彼らは本気で信じていた。ノゾミならば、それが可能だと。

 だからこそ、焦る。一日も早く、その理想形に辿り着きたい。

 できることなら、暮れの中山のグランプリの舞台。有馬記念までに。


 そうなれば、世間のノゾミを見る目も変わるはずだ・・・


「イマナミ、今日調教は飛ばしすぎだ」


 思考の海に沈んでいたイマナミを、聞き慣れた声が現実へと引き戻す。声の主は、国本厩舎の調教助手、酒井圭介。少しずり落ちた眼鏡を指で押し上げながら、彼はいつものように仏頂面で俺を見下ろしている。


「・・・すいません」


 図星を突かれ、イマナミは素直に頭を下げるしかなかった。酒井が指示したラップタイムを、明らかにオーバーしていた自覚はあった。

 酒井は、規律を重んじる堅物そのもの。感覚派のイマナミとは、ある意味、水と油のような存在だ。正直、得意なタイプではない。

 しかし、その調教手腕は誰もが認めるところであり、国本厩舎という大船を、師と共に支えている、揺るぎない名トレーナーであることは間違いない。


「今日だけじゃない。ずっとだ。」


 サカイの声は、平素の冷静さを保ちながらも、剃刀のような鋭さを帯びていた。イマナミは俯き、消え入りそうな声で繰り返した。


「・・・本当にすみません」


 その萎縮した様子に、サカイは深く、重いため息をつき、無造作にガシガシと頭を掻いた。その仕草に、ほんの少しだけ人間的な苛立ちが滲む。


「俺の調教指示が不満か?」


 隣に腰を下ろした彼の顔を、イマナミは慌てて見上げた。


「いや!!不満なんてないですよ!!」


 イマナミは慌てて首を横に振った。サカイの指示は常に的確で、ノゾミの状態を的確に見極めたものだ。ただ、この胸の内側で荒れ狂う焦燥という名の嵐を、どう言葉にすれば伝わるのか、皆目見当がつかなかった。


「ノゾミは確実に前進している。それは間違いないんだ。そして、あいつが抱える壁は、あいつ自身が乗り越えるしかない。それは、お前が一番よく分かっているはずだ」


 サカイの言葉は、静かに、しかし重くイマナミの胸に沈んだ。分かっている。分かりすぎるほどに。だからこそ、苦しいのだ。己の無力さが、歯がゆいのだ。


「・・・はい」


 そう絞り出すのがやっとだった。イマナミの表情は、まるで厚い雲に覆われた空のように、晴れることはない。


「なぜ、そこまで焦る?プレッシャーか?周囲の声が気になるか?」


 酒井の単刀直入な問いに、イマナミは反射的に否定の言葉を探した。


「そんな・・・まさか」


 だが、声は掠れ、頼りなく震えていた。隠しきれない動揺が、その否定を空虚なものにする。


「ならば聞くが、春には飛ぶ鳥を落とす勢いだったノゾミが、このままG1を一つも勝てずに終わる。そんな悪夢のような未来が、お前の頭をよぎるのか?」

「っ!?」


 その言葉は、鋭利な刃物のように、イマナミが心の奥底に隠していた最大の恐怖を白日の下に晒した。


 図星だった。


 ノゾミは、この国本厩舎に舞い降りた、奇跡そのものだ。おそらく、二度と巡り会うことのできない、天賦の才を持つ馬。


 それが、今やどうだ?インダストリアルやホワイトフォースといったライバルの強さを測るための、単なる「物差し」扱い。そんな評価は、イマナミにとって、魂を焼かれるような屈辱だった。


 もう、負けられない。絶対に。


 ノゾミの名誉のために。そして、国本厩舎の看板に、泥を塗るわけにはいかない。


「・・・」


 反論の言葉は、喉の奥で凍りついて出てこなかった。沈黙が、彼の焦りと重圧の大きさを雄弁に物語っていた。

 不意に、酒井の声のトーンが変わった。サカイはイマナミに寄り添うように語りだした。


「俺も不安だよ。センセーから受け継いだノゾミが、俺が担当になって、全敗。結果が出なければ、俺たちのやってきたことが否定されるようでな。その重圧に、押し潰されそうになる夜もある」

「サカイさん・・・」


 イマナミは、初めて見る酒井の弱さに、思わず息をのんだ。

 いつもの冷静沈着な仮面をかなぐり捨て、酒井は眼鏡を外し、疲れたように眉間を揉んだ。その苦悶に満ちた表情は、彼もまた、見えない敵と戦っていることを物語っていた。


「だがな、俺は信じている」


 不意に、酒井は顔を上げた。その瞳には、鋼のような、揺るぎない光が宿っていた。


「俺自身の手腕なんかじゃない。俺が信じているのは、センセーが命を削り、魂を刻み込んで俺たちに教えてくれたことだ。そして、この国本厩舎という場所そのものだ。流した汗と涙、その全てが、この場所には染み込んでいる」


 しん、と静寂が降りる。イマナミは、その言葉の持つ途方もない重みに、ただ圧倒されていた。


「だから、俺はこの命を燃やし尽くす覚悟で、魂を削ってでも、俺が信じる最善を、必ずやり遂げる・・・!それだけだ」


 そう言い切って、イマナミの方を向いて言った。


「焦らずやろう。国本厩舎が、そして何よりお前もそうすると決めたんだろ?

 お前は知っているはずだ。ノゾミの強さとそして国本厩舎の厩舎力を」

「・・・はい!!」


 イマナミは今度こそサカイの呼びかけに、はっきりと返事をした。

 心の奥底で燻っていた焦りが消えたわけではない。

 だが、それ以上に、信じたいという強い想いが込み上げてきた。目の前の男の覚悟を。厩舎スタッフたちの情熱を。彼らとの絆が生み出した、自分自身の決断を。そして何よりも――ノゾミが切り開くであろう、輝かしい未来を。


 その決意を宿したイマナミの瞳を見て、酒井は静かに、しかし力強く頷いた。そして、腕時計を一瞥すると、ゆっくりと立ち上がった。


「もう時間だ。俺はもう行く。イマナミはまだ休んでいてもいいぞ」

「あ、はい。すいません。ありがとうございました」


 イマナミは、慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。背筋が、自然と伸びていた。


「気にしなくていい。その代わり明日の調教から頼むな」

「任せてください!」


 吹っ切れたように笑うイマナミを見て、酒井の口元にも、珍しく、確かな笑みが浮かんでいた。

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