12-1 再起の兆し
ジャパンカップ。
世界に通用する強い馬づくり。その壮大な理想を掲げ、1981年に創設された日本初の国際G1レース。それが、ジャパンカップだ。かつては、海外招待馬が圧倒的な強さを見せつけ、日本の競馬界に衝撃を与えた。
しかし、近年は日本馬のレベルが向上し、互角、いや、それ以上の戦いを繰り広げるようになった。
そして今年は、海外馬の姿はない。どこか寂しさを感じさせる、静かなる戦い。しかし、その静けさの中に、尋常ならざる熱気が渦巻いていた。
そんなジャパンカップデーの東京競馬場。選ばれし者のみが足を踏み入れることを許される、馬主エリア。そこは、一般の喧騒とは隔絶された、静謐と興奮が奇妙に同居する空間だった。
「なぁ、アオキ」
10Rのスタートを告げるファンファーレが、耳をつんざくような歓声に掻き消される中、ケイゾーは、近づいてきているジャパンカップに、緊張で胃が捻じ切れそうになりながらアオキの肩を叩いた。
「なんですか? って、ケイゾーさん、顔面蒼白ですけど、大丈夫ですか?」
アオキは、ケイゾーの憔悴しきった横顔を見つめ返し、心配そうに尋ねた。
「大丈夫なわけないだろ・・・心臓が口から飛び出しそうだわ」
ケイゾーはそう呟き、震える手で鞄から胃薬を取り出し、水で流し込んだ。それでも腹の痛みは引かず、ケイゾーは脂汗を滲ませながら腹をさする。
「はぁ。で、なんの用ですか?」
アオキは、ケイゾーの尋常ではない様子に呆れながらも、改めて用件を尋ねた。
「俺ってそんなに話しかけづらいか?」
ケイゾーの目は、まるで深い闇を覗き込んでいるかのように、虚ろだった。
「え? 今更ですか?」
アオキは、あまりの今更の質問に、飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。
「だってよ・・・」
ケイゾーは、周囲の視線を気にする様子もなく、独り言のように呟いた。
「俺、元牧場主だから、馬主の知り合いも多いはずなんだ。なのに誰も挨拶に来ないし、挨拶してもなんか避けられている感じするんだよな」
そう言って、ケイゾーは首を傾げた。その仕草は、長年培ってきた経験と、現在の状況とのギャップに戸惑う、老練な職人のようだった。
「そりゃね。ケイゾーさん。ノゾミが走る前、滅茶苦茶怖いオーラ出てますもん」
「怖い?」
ケイゾーは、アオキの言葉に眉をひそめた。
「だって今もすごいっすよ。本当に緊張してるの丸わかりです。背中から黒いオーラ出まくってますよ」
「ま、まじか」
アオキの指摘にケイゾーは自分の姿を見直す。すると貧乏ゆすりするわ体は震えてるわ。そして目は血走ってるわ。で、とてもじゃないが他の人が話しかけられるような状態ではなかった。
「パドックでもノゾミのほうが堂々としてますよ」
「そ、そんなわけあるかい!」
ケイゾーは、アオキの言葉を全力で否定した。しかし、その声は震え、額には脂汗が浮かんでいた。
「いやいや、知ってるんですよ。ノゾミの未勝利戦と1勝クラスのとき、ケイゾーさんパドックに来れなかったですよね。恥ずかしくて」
アオキは、ニヤニヤと笑いながらケイゾーに追い打ちをかけた。
「な、なぜそれを」
ケイゾーはアオキの言葉に体をのけぞらせる。顔には汗が滲み出ていた。
「ミクさんが言ってました」
ケイゾーは、アオキの言葉に体をのけぞらせ、狼狽した。
そう。ノゾミの未勝利戦。被災した馬が奇跡の復活を遂げ、レースに出走する。普通なら、感動の涙を流す場面だ。しかし、ケイゾーはパドックの中心で1人佇む、ノゾミに対して、恥ずかしさと関係者への申し訳なさで、トイレに篭っていたというのだ。
それを聞いてアオキが爆笑したのは言うまでもない。
「ミクに言うなってあんなに言ったのに・・・」
ケイゾーは、恨めしげに呟いた。
「まぁまぁ、それより10Rゴールしましたよ。ほら、1着ビジョンコメコですって。確か、国本厩舎の馬ですよ」
アオキは、電光掲示板を指差した。
「あ」
ケイゾーは電光掲示板を見て、まさに開いた口が塞がらないような状態だった。
「どうしました?」
「三連単当たってる」
ケイゾーは、震える声で答える。呆然としているケイゾーに、アオキは目を丸くして、尋ねた。
「え、いくら当たったんですか?」
「100万」
ケイゾーの見せてきた馬券を見て、アオキは飲んでいたお茶を、今度こそ盛大に鼻から噴き出した。
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東京競馬場 第12レース
鉛色の雲が、東京競馬場の空を重く、そして不気味に覆っていた。今にも降り出しそうな、いや、既に降り始めてもおかしくないほどの低い雲。天気予報の「雨」の二文字が、三津の脳裏に重くのしかかる。
「どうか、どうか、持ちこたえてくれ……」
三津は、祈るように空を見上げた。彼の願いは、ただ一つ。愛馬ノゾミのため。良馬場を好み、雨は致命的な敵となる。水を含んだ馬場では、菊花賞のように、ノゾミの武器であるスピードは影を潜めてしまう。
「三津さん、よろしくお願いします」
ノゾミの引き手を務めるイマナミが、静かに、しかし、その瞳には強い光を宿して、声をかけてきた。
「ああ。ノゾミの調子はどうだ?」
「いいですよ。今までで、一番と言っても過言ではありません」
イマナミの言葉に、迷いはない。その自信に満ち溢れた表情に、三津も自然と笑みがこぼれる。菊花賞後、休養を余儀なくされたノゾミだが、彼は、まるでアスリートのように、自らの力で馬体を仕上げてきた。ジャパンカップ当日を、最高の状態で迎えるために。彼は、静かに、しかし、確実に、その力を蓄えてきた。
「ただ、少し、時間が足りなかったな」
「・・・そうですね。でも、ノゾミは、きっとやってくれます」
三津の言葉に、イマナミが小さく頷く。
ノゾミは最終追い切りでも、手前を替えるとスピードを減速してしまっていた。それは、彼が過去に経験した震災のトラウマが、まだ心の奥底に残っている証拠だった。
「少しでも、前に進んだ姿を、見せたいですね。ノゾミの、新しい姿を」
「ヒンッ!」
三津がノゾミの鬣を優しく撫でると、彼は、まるで応えるかのように、気合のこもった声で応えた。その瞳には、静かな闘志が宿っていた。
「敵は、強い。」
イマナミが視線を送った先には、栗毛の怪物、インダストリアルがいた。その堂々とした佇まい、研ぎ澄まされた筋肉、そして、その瞳に宿る圧倒的な力。現役最強馬と、ダービー馬。二頭の天才が激突する。それが、今年のジャパンカップ最大の焦点だった。
「負けないぞ・・・」
その言葉は、まるで自身に言い聞かせるかのようだった。イマナミは、静かにノゾミの首を撫で、その温もりを感じていた。それは、彼がノゾミと共に歩んできた日々、そして、これから共に歩む未来への、静かな誓いだった。
「さぁ行くぞ。前よりずっと強くなったお前を見せてやれ!!」
「ヒンッ!!」
ノゾミの瞳が、まるで燃え盛る炎のように輝いた。




