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【動】妹姫の気鬱

「ねぇ。わたし琵琶を弾いてみたいの。

 ううん、弾かなくてはいけないの。

 お姉さまと同じ琵琶を──」


 幼い姫の我が儘。なんてことのない小さな事ではあった。けれど、確かにそれが始まりであった。



 夢の中、妙音姫は南廂で琵琶を弾いていた。その清らかな美しい音色は廂に広がり、空気を震わせてゆく。天女に習った音は、夢そのままに妙音姫の手から紡がれている。

 一心に琵琶を奏でる妙音姫の周囲には、三人の女房がうっとりと主人の音に聞きほれていた。

 そんな中、さらりと視界の隅より感じられた気配に妙音姫が手を止める。何か──と周囲を見回すと、廂の端から白羽姫が妙音姫を見ているのに気がついた。

 妙音姫の手が止まる。


「あ、お、お姉さま」

「習ってもいない琵琶でありましょうに、ずいぶんと見事にお弾きなさいますこと」

「あ──違います。お姉さま。これは、あの、その」

「琵琶を弾くのは良いですけれど、立場をおわきまえなさいね」


 思ってもみない姉の言葉に、妙音姫が口ごもる。

 妙音姫の琵琶は、夢の中で天女に習ったものだった。その天女の話を姉姫に言うことができず、妙音姫は視線を揺らめかせた。

 妙音姫が口ごもるうちに、白羽姫が背を向ける。白羽姫とその女房達が見えなくなると、妙音姫の周りで笑い声が上がった。


「ご覧になりまして? 大姫様の悔しそうなお顔!」

「大姫様は未だ琵琶を弾きこなせないと聞きますわ。それに比べて、姫様の音のすばらしいこと」

「そんな……」

「兄君の宰相中将もおっしゃっておいででしたわ。できそこないの大姫様に比べて、姫様の素晴らしいこと、と」

「あら、いやですわ。あの大姫様と姫様を比べるなんて。先程だって──ご覧になったでしょう。ニコリともなさらない」

「大姫様は本当に、お高くていらっしゃる!」


 嘲りの声は、止まることなくこぼれ続けた。


「やめて……そんなつもりはなかったのよ。お姉さまを怒らせるつもりはなかったのに」


 姦しい女房達は、途切れることなく白羽姫への不満を口にし続ける。

 いつも優しいはずの女房達だが、まるで人が変わったかのように姉への文句を言い続けている。

 それは夢だった。目覚めればさめる夢。

 けれど、それは確かにあった過去であり、あの日を境に姉と妙音姫の間に目には見えない線が引かれたのだった。




 妙音姫が九条の屋敷を訪れたのは、父大臣の見た不吉な夢の為だった。

 誰に占わせても「凶事」としか解かれることのない凶夢に、太政大臣は苦悩した。なぜなら、その夢が凶をつげたのは己にではなく、愛娘の一人にだったのだ。

 近くおこる禍事を避けるためには、精進潔斎し、誰にも会うことなく身を慎まなくてはならないというのだ。


 大臣は嘆息した。


 おりしも白羽姫の婚儀が目前にせまっており、屋敷内には多くの人々が出入りしている。このような状況では、妙音姫の物忌みなどかなうはずもなかった。

 そこに手を差しのべたのが、姉妹の叔父であり、大臣の夢解きをした法世寺の別当僧都だった。妙音姫の後見である妹の猫君(ねこみ)から話を聞いたのだろうが、渡りに舟の提案であった。

 別当僧都にしても、二大臣家へ恩を売れるというのは願ってもないことだっただろう。

 話がでて早々に、妙音姫は別当僧都のもつ九条の家へと住まいを移した。


 移ったのが師走中頃のこと。そのまま年末年始を九条ですごし、如月に家に帰る予定であった。

 身を慎むようにとの父大臣の言葉通り、妙音姫は静かにひっそりと日々を暮らすつもりだった。


 だが九条の家での生活は、あまりに質素だった。


 妙音姫はそれなりに満足していたのだが、主人よりも女房達のほうが、単調な日々にねをあげた。

 そもそも、太政大臣家に仕えるような才覚のある女房達である。訪れる者もいない、楽しい事もない、ただひたすらに身を潜ませるような本物の(・・・)物忌みに耐えられなかったのだ。


「姫様。お願いですから、琵琶を──いいえ。このさい琴でもよろしいですわ。お聞かせくださいませ」


 女房に急かされて、猫君が妙音姫に懇願する。彼女達は妙音姫の音楽の才を知っていた。

 妙音姫の音楽さえあれば、寂れた九条の家でも、竜宮城に勝ろうというもの──と妙音姫をかき口説いたのだ。


「何を言うのです。わたくしは、物忌みに来ているのですよ」


 そう言って断っていた妙音姫だが、事あるごとに繰り返されるお願いに嫌気がさしてきた。女房達の言葉を聞く毎に、大人しく隠る意味が薄れていく気すらする。


「仕方がありません。皆の無聊(ぶりょう)を慰めるのも主人の仕事ですね。でも、これ一度ですよ」


 そう言って琵琶を鳴らしたのは、九条の家に移って二十日ほどの事だった。妙音姫の頭を父大臣の言いつけがかすめなかったわけではない。

 けれども父の言いつけは、すでに軽い物になっていた。

 それからは幾度となく琵琶を響かせ、同居人である従姉妹に箏の琴を教えるのが日常になってしまった。同居の従姉妹──妙音姫の母の妹が受領の妻になっていた──は、受領の娘ゆえに、音楽なども一辺倒に習っただけだったが、打てば響くように才能はのびていった。


 年始に訪ねてきた父大臣には神妙な顔をし、帰宅後に新年を祝う合奏すらしてみせた。すでに身を慎む気など欠片もなくなってたのだった。




 中納言という名の嵐は、その音楽に引き寄せられてあらわれた。


「愛しい人──」


 知らない男にささやかれ、妙音姫は体を震わせた。

 夜の合奏を終え、御帳台に横になろうとした妙音姫を、影に潜む男が引き寄せたのだ。

 妙音姫の体は恐怖にすくみ、かすかな悲鳴をも闇に消えてゆく。

 几帳を隔てて女房達の声が聞こえているというのに、誰も異変に気が付いていなかった。


「それでは御前失礼致します」

「ゆっくりお休みくださいませ」


 少しずつ救いの手が消えてゆくのを、妙音姫は絶望的な思いで感じていた。


「た、た、誰か、たす……け……」

「愛しい人、どうして私と別れるなどおっしゃるのです?」

「…………は?」


 かき口説く男の言葉に、妙音姫は動きを止めた。

 何を言われたのか、妙音姫には理解出来なかったのだ。

 別れる? そもそも、誰とも付き合っていた覚えはない。


「そんなに私をお厭いですか。この私を──宮の中将(・・・・)と呼ばれた私を」


 その名を聞いて、妙音姫ははっとした。

 宮の中将は、従姉妹姫の恋人だった男だ。結婚の為に別れたと聞いたけれど、未練がましく忍んできたのだ、と。


 つまり──人違いである。


「ま、まって。わたくしの話を──」

「待てません。愛しい人、どうか私を捨てるなどおっしゃらないでください」


 押し倒され、衣を剥がれそうになってあわてる。男の手に抵抗していると、何事かとたずねる声がした。


「姫様? いかがなさいましたか」


 伺う猫君の声に「助けて」とようやく声が出た。


「ね、こみ。たすけ……」


 妙音姫の異変をさとった猫君があわてる。今にも御帳台に乱入しようとする猫君の様子に、男が強い声をかけた。


「何もない、下がれ」

「猫君、中将様。宮の中将様よ。たすけて」

「え──」


 宮の中将の名に猫君は戸惑ったようだった。几帳が揺れる。

 どうすればいいのかと混乱している猫君に、男が強い口調で命じた。


「下がれ!」

「は……」


 狼狽えながらも猫君が御帳台から離れる。そして、少しの迷いののち部屋を後にしたのだった。


「ね、猫君。どうして──」


 後に残されたのは、あがらう力もない妙音姫ただ一人だった。




 あれは間違いなく最悪の出来事だ、と妙音姫は思い返す。

 それ以降、妙音姫は塗籠(ぬりごめ)にこもって泣き暮らしていた。

 外を見たくなかった。

 男が隠れていた部屋は恐怖の象徴となった。

 庭を見ては震え、目を閉じては悪夢に飛び起きる。

 食事も喉を通らぬと、ほんの数日で妙音姫はげっそりと痩せてしまった。

 父大臣の姿にすら狂ったように悲鳴をあげる妙音姫の為、徳のある僧侶が集められた。昼夜を問わず行われる祈祷の為に、寂れたはずの九条の家には人々があふれかえっていた。結果として、あの男──宮の中将が再び家を訪れる事はなかったのだった。


「おねえさま……たすけて……おねえさま」


 伏した妙音姫は泣いて助けを求める。

 男の恋人だった従姉妹姫にではなく。

 気がつかなかった女房達にでもなく。

 見つけたのに助けなかった猫君にでもない。

 今やたった一人の自分の味方である姉姫の名を、妙音姫は呼び続けた。




 たった一夜の過ち──そのために妙音姫が懐妊したと知れたのは、梅雨もすぎての事だった。


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