【静】姉姫の栄華
手習いでもしているのだろうか。拙い琵琶の音が聞こえてきて、白羽姫は幼い昔に見た夢を思い出した。
その夢には、白い衣をまとった天女が顕れ、白羽姫に琴を教えたのだ。その夢の約束を、ずっと白羽姫は忘れずに守り続けている。
帝に琴を奉じよ──天女はそう告げたのだ。
しかし、白羽姫は人前で琴を弾く事はなかった。それは、父大臣が白羽姫に与えたのが琵琶だったからだ。
人並みにしか弾けぬ琵琶と、天女の技を得た琴。琴を弾けば賛辞が得られるとわかっていてなお、白羽姫は父大臣から与えられた琵琶を手放すことはできなかった。
琵琶は白羽姫を思う父大臣の好意そのものなのだから。
故に、白羽姫には妙音姫の行為が信じられない。これみよがしに琵琶を弾き鳴らす妹姫が、父大臣に与えられた琴を地に落とす行動が信じられなかったのだ。
姉姫──白羽姫に琵琶を、
妹姫──妙音姫に琴を。
これがかつての父大臣の望みだった。
「人の心は……望むままにはいかないのね」
天女に琴を教えられた白羽姫と、琵琶を教えられた妙音姫。
それぞれ逆のものを伝授されるという皮肉に、当時は戸惑ったものだった。
「あわれなことよ」
ずいぶん昔のこと、白羽姫の夢に光輝く天女があらわれてそう告げた。
「そなたの運命のなんとあわれなことか。愛される妹に翻弄され、そなたの一生は乱される。
ありとあらゆるものを奪われるであろう。愛情を奪われ、栄華を奪われる。父を奪われ、夫を奪われる。腹を痛めた子までも奪われるであろうよ」
「天女様」
白く透き通った領布を纏った天女に白羽姫は声をかけた。
「お言葉ですが、天女様。それはいけないことでしょうか?
わたくしと妹は同じ血を継ぐ姉妹ですもの。妹の栄華はわたくしの栄華。われら一族の繁栄でございます。
子にせよ、わたくしが産んだ子を妹が育てることに、何の問題がございましょう」
「ほほほ。そなたは剛胆じゃの。──よかろう。そなたを継承者として認めようぞ。
我がそなたに教えるは【陰】の琴。【陽】の琵琶を習う妹殿の対になるものじゃ」
すいと天女が手を振ると、目の前に琴が現れた。さすが夢の世界、と白羽姫は笑って手をのせる。軽く素手で弾くと、ビィンと鈍い音が返ってきた。
爪はないの? と白羽姫が呟くと同時に、指先に堅い琴爪が現れた。
「よきかなよきかな」
天女は白く滑らかな爪で琴を鳴らしてみせた。
琴の名手と噂される太政大臣の姫が出仕することになったのは、宮の中将が主上に進言したからであった。
いきなりの話に目を丸くしたのは、左大臣と中納言だ。
右大臣以下公達はその驚きを知らぬ顔で、主上の前で美しい姫君の噂をする。
「ほう。中将にそこまで言わせるほどの腕かね」
「しかり。この世のものとは思えぬ音色でございました。私もそれなりのものと自負しておりましたが……いやまったく。かの姫君にくらべれば、手習いのようなもので」
ははは、と宮の中将が笑う。
その様子には陰鬱な陰も見えず、ただ宮の中将が心からそう思っているのだけは間違いなかった。
「澱みに澱んだ気に通った一陣の風のようでございました。ふつふつと沸き上がる陰気を宥めてくれるような。
仏心のかくあるべしと申しましょうか。
ええ、えぇ。決して偽りではございませんとも」
この宮の中将にそこまで言わせるとは──中将を知る者は琴の姫に対する興味を駆り立てられた。
「負けず嫌いの中将がこまで言う姫君か……興味がわくね。
太政大臣の姫というなら、女御にもなれる立場だろうが……それでは一年以上かかってしまうね。
そこでだ。どうだろう、尚侍として出仕させてみないか。勿論、準備が整えば女御にも迎えると約束しよう」
「そ、それは良いお考えですな」
一番に相づちを打ったのは左大臣だった。
内心を隠して、にこやかに尚侍出仕を進める。
「藤壺女御様も琴を得意にしていらっしゃいます。
尚侍出仕とあいなりましたら、ぜひ連弾などお願いしたいところで」
さりげなく娘である藤壺女御を話にあげる。
左大臣にとって新しい女御は主上の寵を争う敵である。弘徽殿女御という強敵がいるいま、これ以上女御を増やしたくないというのが本音だ。叶うならば入内を阻みたいところではあるが──このように多くの公達の前である。
誰も反対しない時点で、周到な根回しをされているのは明らかだ。
「それは楽しみですなぁ」
表面上はにこやかに、白羽姫の尚侍出仕が決定したのだった。
「尚侍、琴合わせをしましょう!」
「わたくしもご一緒してもよろしいでしょう?」
弘徽殿女御と藤壺女御。二人の女御に言われて、白羽尚侍は頭を下げた。
式部宮の娘である──白羽尚侍には父方の従姉妹になる──弘徽殿女御と、左大臣家の藤壺女御は仲が良くないと聞いていた。けれども白羽尚侍の目には、二人はそれなりに仲良くしているように見える。
というよりも、女御達が御匣殿を訪れるなど、前代未聞のことだった。しかも喧嘩どころか嫌味すらない。
女御達の仲の良さを、古くからの女官達は驚いていた。けれども、その驚きを面に出す者はいない。ただ粛々と頭を下げて、ことのなりゆきを見守るだけだった。
「宮達に琴を教えておいでなのを知っておりましてよ。
わたくし達の前ではなにかと理由をおつけになるのに、ひどい方ねぇ」
おっとりと弘徽殿女御が言う。
「わたくしもよ。鶯少将に催促させても、首を縦に振らないもの。こうしてわたくしが直々に来てあげたのですから、よもや否とは言わないでしょうね!」
元気よく言うのは藤壺女御だ。
鶯少将は白羽尚侍の母方の従姉妹になる。結婚を控えていたはずの彼女が、まさか出仕しているとは思わなかった、と白羽尚侍は使者として現れた鶯少将に驚いたものだ。
「藤壺の方がそれほどに望まれるとは、尚侍はお幸せねぇ」
「あら、弘徽殿の方だってそうでしょう?
ねぇ尚侍。女御二人に望まれて、逃げたりなさらないわよね」
藤壺女御の言葉を聞いて、女官達が身を震わせた。
普通に聞けば権力をかさにきた呼び出しなのだが、女御達が望むのは琴の演奏である。その差異がおかしいと、笑いをこらえているのだ。
「これ、白羽尚侍。女御様がこれほどにお望みなのです。ここは私どもにお任せになって、お行きなさいな」
「摂津尚侍……ですが……」
古参の摂津尚侍にせかされた白羽尚侍が、自分の机上にのせられた仕事を見る。
彼女は尚侍──女官の統括者の一人として出仕している。つまりは通常業務に追われる身であった。その仕事量もさることながら、彼女はまだ新人で、摂津尚侍らに学んでいる立場である。
戸惑う白羽尚侍を尻目に、心得た典侍達からも声が上がる。
「他に懸念はないのね。さ、尚侍いきましょう!」
「みなも邪魔をしましたね」
「もったいないお言葉です」
女御達が白羽尚侍を連れて行くのを、女官達は静かに見送った。
最後の女房の姿が見えなくなると、安堵の息と、それにまさる興奮が局に満ちた。
「摂津尚侍様、あの、い、今のは……夢、でしょうか」
女御二人が鉢合わせて平穏に終わるとは、今まででは考えられなかった。今までとは、白羽尚侍が出仕するまでは、ということである。
いや、白羽尚侍の出仕直後は、女御達のにらみ合いは続いていた。それが変わったのは月の宴だった。
多くの公達が集まった宴で、白羽尚侍は琴を披露したのだ。
常になく多くの公達が集まったのは、噂の新人尚侍への好奇心と、ある種のいやがらせの為である。
主上のお声がかりで出仕したわりに情けないこと。こんなものが新尚侍であるか──と、低俗な噂を流そうとしたのだった。
しかし白羽尚侍の琴の音たるや、見事としか言い様のないものだった。
さすがは太政大臣の姫。
主上のお声がかかるのも当然である。
荒れた波すら凪ぐような、静寂の極みたる音である。
それまで害心の思いを抱えていた者達は、ころりと意見を翻した。
それと同時に、不倶戴天の敵とにらみあっていた相手にすら、少しの譲歩を見せるようになったのだ。
「どれほど練磨を積んでも、白羽尚侍ほどには弾けないでしょう。本人も、そのうち女御におなりだろうし。
ならば、我ら尚侍を仰ぎ見る者同士です。同病相憐れむというか……ちょっと譲るくらいはよいかと思いまして」
ある公達はそう言った。
「わたくしは家のために入内いたしましたの。みんなそうでしょう? だから、家のためと寵を争っていたのよ。
別にご本人を嫌っての事ではないわ。
だからこそ、いつまでも争っていてもつまらないと思ったの。
これからも長くお付きあいする方々のですもの。お互いにちょっと退くだけで気持ちよい日々を送れるなら、それに勝るものはないと思うの」
ある女御はそう言った。
皆が少しずつ退いたことで、内裏から多くの争いが消えた。今の平穏はその結果だった。
「夢……ではないでしょう。白羽尚侍の影響故でしょうね。争いが減って良いことです」
平穏ゆえに賑やかさが足りなくなったような内裏を思い、摂津尚侍は「良い事」と言いながらも幽かな不安を感じていたのだった。
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