九十四話
サトヤマハルカに用意された客室は手堅い調度品で整えられた、使い勝手の良い二部屋である。一部屋は副官殿が主に詰める応接室、その隣が寝室。はじめ、用意されたままの客室であった。私は台車を押しつつも以前と変わらぬ応接室に料理の載ったそれを大テーブルの脇にでも置いておき、まずは彼女の様子を探りに向かう。
「こちらです」
副官殿が示した扉の先に、サトヤマさんが居るんだろう。
彼女がノックをし戸を開ける。そして、彼女がいることを確認、しばしのち、私の前に現れ、入室するよう壁際にずれて目礼にて促す。
「失礼する」
寂たる空間を、私の足音だけが渡っていく。
軍靴を響かせ踏み込んだ先には、ど真ん中に天蓋つきのベッドがあった。吊り下げられていた厚めの布には、黄金の金環王国の国章が描かれている。美しい、輪だ。日本を描くような円形――――まさしく、この国が勇者によって打ち立てられし国である証左だ。現在、その幕の奥に、同国の生まれの少女が引きこもっている。
私は無言で、その垂れ幕に手を伸ばし、一気に開け放つ。
と、まるでダンゴムシのように、布団にくるまってベッドの奥壁際にて体育座りをする黒髪少女、サトヤマさんが現れた。少女は組んだ両腕に頭を伏せきっている。唐突な太陽の光が差しこんだためか、温かみを感じとって、のろのろと顔を上げるが目を細めしょぼつかせている。
「……リディ、さん?」
「ああ、そうだ」
寄る辺のない声に肯定するや、彼女はまたその瞳にじわり、と。目に涙を湛えはじめた。よくよく観察すると、彼女の頬は号泣の跡が張り付いている。まるで昨日の私のように。胸の奥が締め付けられる。慰めてやりたくなるのを我慢して唇を噛み締め、すっかり大人しくなった彼女の元へ近寄るためにベッドの上に乗ると、スプリングが跳ねた。
暗がりに潜む彼女のために、私は、明るく写し取られたところを占拠した。明暗潜む、我々の姿は実に滑稽かもしれない。彼女の手前で座っている私のいる場所は温かく、真っ白な敷布をさらに純白に輝かせているが、サトヤマさんのいる影ある所はひどく寂しげだ。壁際だからか、余計に。
「……あのノート、読みました」
ぽつり、と。影に隠れる彼女は話し始めた。
「皆、この世界に…………。
……わたしも、その一人なんですか?」
「ああ」
覇気のない声色だった。
「そうですか……」
そうして、彼女はぼうっと真っ直ぐに。
目を逸らし、私ではない何かを見つめている。
黒い瞳の中は、ただただ、活力がなかった。
「……わたしは、憶えていないんです。
どうやってこの世界にやって来たのか……」
彼女は語ってくれた。
この世界にやってきて食べるものもなく、放浪した当初を。人々の姿に驚き、どうすればいいのか分からず。話しかけるも逆にじろじろと見られ、追いかけ回され恐怖した日々。見目が日本人ではないのに、何故か分かる彼らの日本語ではない奇妙な言動が怖くて怖くて仕方なかったこと。訳の分からない国に、私は捨てられたのではないかと苛まれたことを。神様に悪いことでもして天罰が下ったのではないかと絶望したこと、食べ物を盗む気概もなく、かといって摂りたくも無かった毎日、野良猫みたいに、寝る場所の確保に終始していたこと。男女の出会いの場の、そのゴミ捨て場で食べ物を拾って腐っていない部分を生まれて初めて口にしたとき、本当に自分が情けなくって悲しかったことを。寒かったけれど寝転んだときの星空が綺麗だった感想を抱きながら気を失い、気付けば見も知らぬ一家に行き倒れの彼女は保護され、親切に介抱されたこと。擦り切れて汚くなった彼女自身を清潔にしてくれて、暴れまわっても、彼らは大切にしてくれたこと。親切な一家の勧めで、金環王に会ったが結局は裏切られたと。
……でも、そうじゃなかった。この世界にも、たくさんの人がいて。たくさんの想いがあり。さりげなく手助けしてくれる人々がいるという優しさに、彼女は、知らず知らずのうちに、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「リディさん。もう、私は、帰れないんですか?」
「ああ」
「本当に?」
「あのノートに書いてある通りに」
「日本に……お家に……」
「誰も、達成できなかった」
「だって、私、誰にも……お別れの言葉をいっていないんですよ?
それでも?」
「……それでもだ」
「お父さん、お母さんに、さようなら、って……」
袖口で拭い続ける彼女の頭を撫でてやると、サトヤマさんは蹲っていた影から飛び上がるようにして私に縋りついてきた。大声でわんわん泣いている彼女の背を何度も撫でてやり、愚図つく鼻の音が少しずつ小さくなっていくのを、聞き続ける。
私もまた、彼女のように泣いていられたら良かったのだろうか、と過去に思いを馳せる。採光の程よく入る客室に、少女の嘆きが木霊する。
――――しばらくして感情の吐露は終えたのだろう、少女は幾分すっきりとした顔で私の騎士服が汚れたのを申し訳なさそうに、恥ずかしげにして見つめる。確かにぐちゃぐちゃだった。主に、胸囲あたりが。陽光に照らされ、鼻水でカピカピである。
「すみません……」
「大丈夫だ、代えもあるし。副官殿が洗ってくれる」
私の言にはっとした彼女、顔を引き締め、
「わ、私も何かお手伝いします……」
と語尾を弱らせつつ、はにかむ。微笑ましくなる笑みだった。
まあ、13歳だものな。可愛らしい頭を再び撫でてやると、彼女はびくりとさせるが顔を真っ赤にしつつ私の手の平を甘受していた。髪の端にある紫色が揺れる。そうして手を離すと寂しげにする。なんだか犬と同じで頬が緩むが、本当に二人はよく似ている。
「リディさんのその日本語、とても滑らかですよね」
「そうか?」
「はい!
……誰に教わったんですか?」
目を伏せる。
「私は……、私は、繰り返して覚えた」
「繰り返し?」
「……たくさん、歌った。
いっぱい、日本語を書いた。燃やした」
「そうやって、覚えたんですね」
「日本語はな。
ただ、人というものは忘れっぽい生き物でな、
写真という技術がないせいか、
見慣れたはずの人々の、
その顔や形が……ぼんやりとしてくる。
……、私は、かつては私だったのに、
どうしても大事な人のことを忘れそうになる。
もう、無理かもしれないと思ったこともあった。
……またそういうときに限って……」
私は口元に苦笑の形を作る。情けない姿だと我ながら思う。
「走馬灯というものは、非常に便利なものでな、
今までの人生において……、
楽しかったことや、嬉しかったこと、幸せだったこと……、
そういったものをな、蘇らせてくれるのだ、私自身が。
恐らく、脳の安全装置とやらだろう、
人生の切れ端をいくつも連ねて、
当時の気持ちを思い出させる……、
そして私の家族たちが、
伯爵家の面々が、
最後に笑って私を出迎えるのだ、
本当にこればかりは堪らなかった。
私は……私が、……思っていた以上に……、
この人生を嫌ってなどいなかった、と。
分かってしまったからな。
…………ただ、」
「……ただ?」
「……息苦いだけだった」
命を絶つというのは、存外に難しいことだった。
そして、そんなしょうもない意気地のない自分を見つめなければならない現実にも辟易とした。このまま安寧に生きようという選択肢はあったが、飛び降りるつもりで頑張ろうと思った。このままだと私は何も成さずにただの伯爵家の嫡男で終わってしまうから。私もまた、彼女と同じく周囲に恵まれていたのだから。厳しく育てられたが愛情があって納得いくものだったし、どれだけ優しくされたことか枚挙にいとまがない。
黒目黒髪でなくとも、私は彼女と共通項がある。
「リディさん……リディさん、って」
彼女は察したらしい。
私の中身を。黒い瞳に映る私は、明らかに金髪碧眼のおっさんだ。
だが、今の彼女の目には、そうではない存在が映っているはずである。
私の言動には幾つものヒントを散りばめた。それを組み合わせれば、おのずと答えは分かるはずである。日本人である彼女だけが理解できることだ。
私は、彼女の唇に人差し指を突きつけた。そうして、しぃ……、と。
私自身の口にも、同じく人差し指をつけて片目をつぶる。
「内緒、な」




