九十三話
「あなたは日本に帰ることができない」
一息に喋った。母語である日本語で。
それに彼女は大きく黒目を見開き、呆気にとられた顔になる。
「え?」
静かに懐から差し出した、日本人らの血潮の想いが詰まった結晶たるノート。それを彼女は操られているがごとく、受け取った。
「……え?」
「読んでくれないか」
頼まれたゆえに、視線を落とす少女。
表紙のルールをしっかりと黙読、少しずつ強張っていく顔の表情。険しい顔つきながらも瞬きながら、ゆっくりとした動作だがノートをめくり始めた。
人間、恐怖を憶えると体の反応は特に顕著である、古ぼけたページをめくりながらも指先が震えだした。カタカタと。日本語が理解できるからこその怯えだ。
途中、どうも読むのが辛い場面があったのだろう、顔を上げ。唇の端を歪めて、愛想笑いを間違えてしまったかのような表情のままに私へ問いかける。
「え、その。リディ、さん」
「なんだろうか」
「これ、って。
どう、いうことですか」
浅く息を吸い、そして吐いた私は、そのノートの意図を伝える。黒髪少女は、焦燥に駆られた目で私に縋る。憶測交じりの意見でしか私は答えられないが、大方間違ってはいないだろう。私もまた、かつては日本人だったのだから。
「……まず、そのノートは大事にしてほしい。
味方も、誰もいなかった、ただ独りの。
日本人の想いが綴られたノートだ」
「……ひとり」
「一人、一人の。
決して、交差しなかった彼ら日本人たちの。
歴代の日本人らの支え、といっていいかもしれん」
「支え?」
「そう。彼らの縁。
縋るものだ」
話した。根気強く。初めはさほどではなかったのに、段々と、彼女は項垂れていった。私が日本語を喋れるからこその安心感はあったのだろう、不安に苛まれながらも持ち前の明るさがあった。あの快活な様子が損なわれるのは忍びないものだったが、しかし、真実は必ず明るみになるものだ。特に、この金環国で生きることを期待する私にとっては。
(金環王子にとって、日本人たる彼女は初代王と同郷の系譜だし、
今までの暴力暗殺、実父たる前王の悪いイメージを払しょくするため、
サトヤマさんにとっては、絶対権力者の王の力添えがあれば、
少なくとも食いっぱぐれることはない。
奴隷制を撤廃すれば良いだろう、
この金環国は、案外と日本人が好きなようだから)
始祖王と故郷を同じくする人々を苦悩に導いた奴隷制、への罪悪感も利用すればいい。人の好意は素直に受け取っておくべきだ、サトヤマさんはいくらでもお姫様をやれる。恐らく、監視付きだが。だが、殺されることはなく安穏として生きることができる。老後まで。その資金提供及び身辺の保護を約束をさせるために、金環王子には私が直接交渉しても構わない。リヒター殿下によって後に、どんな罰を受けようとも。
私は、静かに席をたつ。
ただただ、現実の理不尽さに竦んでいる彼女のことばかりを、見てはいられないからだ。かつての自分。
(嘆き、怨み、憎しみ……絶望、悲しみ、
もう二度と会えない人々への惜別……)
私は、アーディ王国の騎士。彼女の騎士ではない。
(だが……)
そう、当初の目的通りに。
日本人と会話をし、どういった背景で生きてきたかを対話によって同郷であると認めたのちに保護、その生活を成り立たせてやれたら良かった。
ご命令通りリヒター殿下の護衛をしっかとこなした後、返す足でサトヤマさんがいるであろう宛がわれた部屋へと赴く。副官殿の話によると、彼女は引きこもったまま食事も喉に通らないほどの憔悴っぷりだという。
(さもありなん)
マントを翻しつつ騎士の略式、その袖口の調子を整えながらの闊歩。下賜された国宝は現在も私の衿でご機嫌である。お蔭で私へのいかがわしい噂は消えていないが、王城勤務の人々に出合い頭に逃げられずに済んでいるのは多分……私が金環王子とまったくもって接触していないことが功を成したのであろう。殿下のご命令もたまには役に立つものだ。たいがいは面倒なことばかりだが。
(ただ、あの時期王位継承者たる番犬が心配だがな……)
妙に子供っぽいところがある彼のことだ、せっかくの制服も汚してしまってるのかもしれなかった。たとえば、食べ方の悪さとかで。そういったことを教える裏のない教師を選定してつけるよう進言したほうがいいかも、などと相変わらず余計なことばかりすると殿下に叱られるようなことを愚考しつつ、通りの良い風の流れに立ち向かうようにして進み角を曲がる。
そこから真っ直ぐの奥まった部屋が目的の場所だが、その開かれた扉から給仕役が出てきた。押した台車に載せた食事に大きなカバーをかけ、ため息をついている。どうやら、サトヤマさんはお昼も食べなかったようだった。
私は、速やかに声をかける。
「あ、これは、サトゥーン騎士団長閣下」
(閣下というほどの身分ではないが)
苦笑する。戦場であまり活躍をしてこなかった私が閣下と呼ばれると、こそばゆい思いだ。
「その食事は?」
「は、はい!
これは、その、サトヤマ様にお出ししだのですが……、
お召しにならず……」
「水も?」
「はい」
「そうか……」
なるほど。給仕もしょんぼりとするほどの、無食無飲っぷりか。
私はひとつ、頷いた。
「なら、貰ってもかまわんか?
ちょうど昼餉を抜いていてな。腹が減った」
「え! ああ、はい。
どうぞ……その、冷えてしまっていますが……」
「いただく。食べたあとのお皿の類はどうすれば良い。
厨房に持っていけばいいのか?」
「とんでもない! 扉の外に置いていただければ回収しますので」
「分かった」
丸ごと台車を預かり、部屋へと入るために取っ手に手を伸ばす……前に。
拳の形を作り、表の戸をノックして存在を促す。
女性同士であったのなら気兼ねをしなくて良いのだが、私は男だ。この意識の違いゆえに痴漢呼ばわりされたこともあったな、と、マナー教師にこっぴどく怒られて真っ暗な部屋に閉じ込められ、反省を促された小さい頃の過去を脳裏に蘇らせていると副官殿が僅かに開いた扉の奥から、姿を現した。
「これは、サトゥーン団長」
「ハルカサトヤマに会いに」
「……彼女は今、ベッドで……」
「会えるか?」
「……朝方、団長に伝えた通りですが……」
「しかし、水分さえ摂っていない。
頭に栄養のいかぬ、考える力も奪われている状況下において、
彼女をひとりにしていたら……、
どうなると思う?」
副官殿は返したはずの台車の持ち手に私が掴んでいるのを視界の隅に認めながら、苦しそうに言葉を濁す。
「それは……」
「我々には時間がない。
はっきり言うが、もう。
待ってはいられんのだ。
彼女を説得したい。
……着替え等、してはいないな?
男が入れる状況ではあるか?」
「……はい、問題ありません」
「すまんな」
規律正しい彼女の後ろ姿をついていきながら……、自分で言っておいてなんだが、さて、口説き落とせるだろうかと疑念が湧く。
出来なければ。私はすごすご殿下のもとに戻るよりほかはないが。
(……強硬手段、か)
やりたくはない。ただ、憎しみを与えるだけになるかもわからない。恨まれるのは本意ではない。
とにかく、時間がないのだ。
金環国バージルにおける、リヒター王太子殿下のご公務がすべきものは、ほとんど残っていない。大方のことは終えたのだ。あとは、あの金環王子が無事王位継承の儀式を得ているのを見届けるのみ。選帝侯としての職務をほぼ、完遂してしまう。
私はリヒター殿下の直属の部下なのだ、殿下が帰ると言われたら、付き従わねばならぬ。彼女を独りきりにしてしまう。この異世界で。
――――思い返すと、彼女には辛い選択肢ばかりが用意されている。
酷なことばかりだ。だが、受け止めてもらわねば。かみ砕き、飲み干してもらわねばならない。老い先短い私からの、願いだ。




