八十九話
「アントニーだ」
まだ何も言っていないのに、先方から名乗ってきた。
「……どうやら、ただの金環兵ではなさそうだな」
「その通りだ、リディ」
にかっと笑うあたり、ただの諜報員ではない。
私は立ち上がりかけた椅子から再び腰を落とし、招いてもいなかったのにやって来た幼馴染みのためにと、裏返しにしていたお猪口を表にし日本酒を注いだ。
「ほお、晩酌していたのか」
「ああ。
飲むか?」
「もらおう」
「これもどうだ」
諜報員らしく何でも飲み食いできるよう訓練しているので好き嫌いは撲滅したようであるが、それでも彼の大好きな燻製の卵や肉を見せるや、すごく良い笑顔でもりもりと食べ始めた。茶色に染まった玉子や色づきがやや昏いお肉の数々に、彼はその双眸を輝かせる。じわり、と口の中に広がる独特な食感と甘味が彼の舌を大いに満足させたものらしい。酒の進みも尋常ではない。
「美味いな。
匂いも独特で」
「多分、桜の木だろう」
「サクラ? ああ、あれか。
あの、ひらひらとした、桃色の」
ちらちらと惑うようなロウソクの光が部屋の中、二人の人影を大げさなほど客室の壁際にて写し取っていた。
「……で、なんでまた金環兵に?」
「内偵だな、普通に」
「ほお」
ちゃらい兄さん風の顔なのはまんまだが、髪の色を変えての調整らしい。
「この国の内情をもう一度調べたくてな。
まあ~……あの金環王子は人気あるな」
リヒター王太子殿下からの禁止令があるゆえに、会うことは出来んが。ここ最近、彼の顔を見ていない。
(元気にしているだろうか)
ぐい、と私もまた盃を煽り、アルコールに呑まれる。
「捨て子とか、捨てられた王子とか。
案外と悲劇的なイメージも元よりあったらしいからな。
特務隊の暴力や暗殺などのネガティブさはあるにしろ、
幼い少年だったってことを鑑みる人間が多いようだ」
「ふむ」
「長らく続いた金環王家の独裁政権に、
国民が慣れきってしまってる節もあるせいか、
金環王子が王になったほうが少しはマシだという認識が多数を占める」
「……それって、消去法というやつか」
「そうとも言う」
想像以上に、無理やり下ろされた宰相一派があまりにやりすぎ、元金環王がやりすぎたのが不味かったようである。美人だと評判になろうものならすぐに引っ立てられて王に手籠めにされるという話があるものだから、一般国民らは王を毛嫌いしていた模様だ。
まあ、その話の端緒が、金環王子の母親、カエシナ、だからな……婚約者のいる彼女を無理やり奪い、好きでもない相手の子を産まねばならなかった彼女、相当な悲劇的なストーリー展開を下町では行われ続けたらしい。ロミジェリ要素とは言わんが、恋愛沙汰はどこでも恰好の話題だ。
そういった意味においても、その無理やり作らされた息子である金環王子には憐憫さが漂う。
(王の番犬、か。
はあ)
かなりの皮肉が入ってるな、これは。
おっさんである私に構ってもらいたがる彼の姿は、なんとも寂しげに私の目には映った。
「それで、今、彼はどうなってる」
「そうよ、それこそが本題さ」
「……まさか、それをわざわざ教えに?」
にかっと白い歯を見せた彼に、私はさすが幼馴染みだと彼の肩を叩いた。
「喜べ。
あの金環王子、我らが王太子殿下からの試練を、
ものの見事に突破したぞ」
薄暗い部屋に、ほろ酔い気分で寝入ろうとした。
外から差し込む月の光が美しい。枕に頭部を載せ、ぼんやりと眺める。
(む……)
気付けば、誰かが侵入してきたようだった。月光を遮るような人影が、私の前に降り立つ。じっと私の気配を探っていたようだったが、狸寝入りしていると、小さくため息をつくばかりで、大した行動を起こさなかった。
(誰だ)
佇んでばかりだ。
しばらくして、奴さんは一つのモノを私の枕元に何かを置いたようであった、ベッドに僅かばかりの重みを感じたが、それを私が感じたか否かという僅かな合間でもって、奴はいなくなった。
暗殺目的で来訪したわけでもないらしい。
すっとベッドの中で備えていた小剣を携え、身体を起こした私は、誰もいない寝室にて過敏なほどに神経を張り巡らせた。速やかに奴が現れた経路である窓辺に注意を払いながら見回すと、そこから先は崖のように絶壁な王城の壁面であり、どこからも人が登るような場所はなかった。あるとするならば、頭上のほう、か。
ぐい、と半身を乗りだし、見上げると頭上に照らされ青白く映しだされた華麗なるお城の神秘的さだけが強調されし金環の王城がそびえる。もし私の寝るこの部屋に侵入しようとするならば、私の上にある部屋の窓からロープの類を垂らし、降りるしか方法はなさそうだった。
が、現在、その窓はかっちりと閉められており。
時間も深夜であり、あれほどの身のこなしのする犯人であるのだ、慌てて見にいったところでその姿は消してしまっているだろう。
(報告は明日で構わんだろう)
アルコールも入っているしな。
それにしては、本日は目出度いことだった。快哉と叫びたいところなれども、そこまで騒ぐにしては私はアーディの騎士だった。リヒター殿下に忠誠を誓う私が、他国の、それも次期王のために喜びの声を上げるなど、ただでさえアレな噂が流れているというに、間者疑惑まで出てきかねない。リヒター王太子殿下がわざわざ、接近禁止令を出されたのは、そういった意味もあるのだろうと、私は、小剣を再び懐に入れ。夜の空をひとしきり鑑賞したあと。
身を返し、再び寝入ろうとしたが、枕元に置かれたそれを思い出す。
そこに置かれたそれは、見覚えのある形だった。
「これは……」
私は、そのノートを手にとった。
それは、どこにでも売ってるような既製品の、懐かしい工業製品の代物だった。表面には、日本語。
そう、懐かしの母国語が書かれていたのだった。
マジックペンで書かれた、はっきりとした黒く大きな文字。
「む……」
そして、よく観察すると、このノートはもう一つのノートが重ねられていた。
それは、和紙で綴られたといっても過言ではない、昔の帳面のような。
そのような物で作られた、昔の日本を思い浮かべる昔のノート、がくっ付いていた。しっかと紐で背は綴られている模様だが、古すぎるようだから丁寧に扱わねばと、すっかり酔いの醒めた顔付きのままにベッドに腰掛け、まずはその新しい近代ノート、その表紙をぺらりと捲った。




