八十六話
人の温もりある赤い糸が、ばらばらになって地面にばら撒かれていた。
あの時の殿下は、とてもじゃないが、人に見せられる姿ではなかった。
悲しげに空を映した瞳であったから私はマントを外し、殿下の身をくるんだ。
切れた唇の端が痛ましくて、痛ましくて。
仕出かした奴らに、憎しみをぶつけたくて、ぶつけたくて仕方なかった。同時に駆けつけていた同僚たちにも、その強固な感情は伝播していく。阿鼻叫喚の響きが、遥か遠い場所にまで連なる。山脈のように。我らは敵を屠ることだけを目的とした騎士と成り果てた。さながら、終わることのない燃え盛る夜の始まりに過ぎなかった。
――――私は、その地獄のような景色から目を閉ざし、現実を目の当たりにする。
「リヒター殿下。
……何を恐れておられる」
「……なに?」
間近にある殿下の、美貌王子たる相貌に笑みを零した。
動揺を示す彼の瞳には、私が映っていた。
ちゃんと生きた人形となった、王子様に。
「必ず戻ってくるのは、殿下、貴方のところです。
リヒター・アーディ・アーリィ王太子殿下。
私は、貴方に忠誠を捧げた騎士なのですから」
くしゃり、と崩れた顔は、まこと。
「リディ……、本当、か」
「は」
「本当に」
「はい、殿下」
肘掛けからぐっと身を乗り出し、私の膝に伸し掛かってまでも、彼は私の顔から目を逸らさず。囁いた。
「……なら、もっと俺に寄越せ」
「は……」
「もっと、欲しい」
(いったい、何が欲しいのか)
さっきから遠回し過ぎて分からない。
(……が、なんとはなしに、分かったような気が)
正直、今どきの若者の考えなんて、アラフォー超えたおっさんには理解できん。私の二の腕をぐぐっと強く握りしめられても、なあ。赤い手形が残りそうだな、としか。どことなく目元は潤んでるし、頬は熱でも孕んでいるのか、少々桃色に染まっているような。陶器のような殿下の肌は色素が薄いせいか、すぐに体温が反映されるからな。夕暮れ時は人間の体温は上昇しやすいから、それだろう。
(もしや子供返り、してるのか)
赤子の頃からのお世話係である私だ、アーディ王城では毎日顔を突き合わせて公務内容の話をしたりしてるものだから、下手したら王太子殿下の親よりも、私と殿下の付き合いは長い。密度が濃い、と思う。乳母よりも私のほうが共にいる時間が多く、戦場にて赤ん坊をあやしていた私を、周囲の同僚は、いつ産んだとよく冗談言われたものである。
殿下は何かを期待しているのか、すごく私を見つめている。まるで穴が開くかと言わんばかりに。
私は、殿下の願いを、部下としても叶えてやらねばならん。
(これぞ、騎士としての本願)
主君のために、えんやこら、だ。
「リヒター殿下、では。
ここでは狭いので、移動、願えませんでしょうか」
「……移動?」
「は。寝室でございます」
「……リディ……!」
何故か分からないが、すごい感動された。
感極まるような声だ……、リヒター王太子殿下がずっと付き添ってきた私だが、生まれて初めて聞いたぞ、この声。
「そうか、リディ……、
やっと俺は、本め……、
いや、宿願を叶えることが……」
いつもの理想的なほど冷静な殿下の姿が、すごい崩れているような気がするが、上気している頬を、こそばゆい思いで眺める。
(そうか、そんなに嬉しいのか……、
そうだな、二十歳とはいえ、まだまだ大人としては、
スタート地点に立ったようなものだ。
無論、私の故郷と比較したら、だが)
私は鷹揚に頷き、私の上から降り立つ殿下の手を恭しく受け取る。
私は、この時点で大いに勘違いをしていた。
まさか、そういった類のことだとは、本当に。
真実誓って、そういう行為ありきのことだと、考えていなかったのだから。
早速ながら、私はベッドに殿下を促し。
私は、リヒター殿下の、その赤毛を横に流してやる。
と、彼はとても儚げな顔を、さらに儚くさせ。
何やら、そわそわと、非常に物珍しいことだが、緊張しているようだった。
(アーディでは、あれほど士官らをこき使っている、というに)
居丈高が性分の王太子殿下が、私相手でも駄目だと思ったら平然と殴るお方なのに、なんとも不可思議な生き物を見る目をしてしまう。
「リディ」
「は」
「その、一応、風呂には入った方が……」
「いえ、そのままで結構です」
「そ、そうか」
なるほど、リディはそういう趣味か……、などと肯首されているが、分からない。いったい風呂にどんな問題が。
(私、実は臭いのか?)
くんくんと匂いを袖口から嗅いでみるが、分からん。
まあ、加齢臭、とやらは、この異世界でも存在する厄介な体臭だからな。ハゲ、デブ、チビ、はこの世界でも懸念されやすい事項で似合っていればカッコイイが、それ以外は残念無念な三大悲劇があるのだけれども、それと付随して、加年齢による悲しい現実も、実は、ある。脇汗も、そう。人間、やはりどこの世界でも、大体の困ったポイントは変わらんということか。医療レベルからして、もう少しなんとかなる人もいるのではないか……、と他人事ながら心配する。なんせ、私だって脇があれこれなる可能性、なきしにもあらずだからな。
「……む」
と、話は逸れた。
殿下が、私の二の腕を案の上、さすっていたからだ。見やれば、その動きを止めた。殿下の、手入れされて反射する桃色の爪が、私の腕にそっと添えられている。どうやら、私に聞きたいことがあったらしい。
「リディ。
リディは、どちら派だ。
俺は、どっちでもいいが……」
(二択?)
なんだ、その選択肢は。私は、急に現れた選べる二方向にびっくりした。
「……殿下?」
「ん、ああ、すまない。
リディは……、その、実は初めてじゃないからな」
(初心者?)
なんだ、それ。良くわからないが、私は初級ではないらしい。
「……だから、安心して俺に身を任せて良い。
天国、見せてやるからな」
(いきなり死後の世界が出てきた!)
ぎょっとして、慌てて問い正す。
「で、殿下。
私は死ぬ予定は今の所ございませんが」
「物のたとえだ」
「は……」
「……ふ。
安心して、天井のシミでも数えておれ」
(ど、どういうことだ)
そもそも、このベッドは天蓋つきの大型ベッドでしかないので、天井は丸っきり見えづらい。垂れ下がった分厚い布で覆われたら、なおさらに天井が隠れてしまう。そのため、私はどういう意図でもって会話がかみ合わないのが疑問として沸き起こって冷や汗が出てきた、が。
「リディ。可愛がってやる、いや、
もっと、可愛がってもらおうか」
にっこりと笑う殿下、それこそいつもの微笑みなのだが。
何故かわからないが、どことなく色香漂うような……、絶世の美形が感情を豊かにしてみせると、どうも困ったことに。
私は、二の句を告げず事ができず。
(え、いやまさか?)
ようやく、事態が悪化していることに気付いた。
私は、ただ、殿下を慰めようと抱きしめようと。ただ、それだけを考え、ベッドに誘っただけだったのだが。そう、単純に犬っころと同じ行動をとろうとしていた。よくよく考えてみたら、そりゃあ、ベッドに誘うってことは。さあ、と顔面蒼白している自覚が出てきた。そうだった、殿下は色事に通じていた。
(……私は、馬鹿か!)
そうだよな、リヒター王太子殿下は二十歳過ぎてるもんな。この世界では大人の年齢がすごく低いということを、改めて思い知らされる。
今更ながら、総身から、汗という汗を毛穴から排出している私を、リヒター殿下は艶やかな唇でもって、受け止めようとしていた。
(思えば、王配、も)
意図的だった。
話の流れで出てきたとばかり、考えていたんだが。
微動だにしない私にリヒター殿下は、じれたものか。
私の頬に指を添え、殿下の方に向けられ。
伏せた長いまつ毛が赤いのを、私は呆然と見詰めていた。




