八十話
――――見ていた。夢を。
若かりし青年時代の頃のことである。私は、数えきれないほどの辛い目にもあってきたし、悲しい思いをした。無論、喜びだってある。幸せだと感じることも。
いずれも、前世と比較して、でのことであったが。
不便なことも、多々あった。
こんな時、飛行機があれば。
あんな時、手軽な薬があれば。
こういう時、電話があれば。
立派な道路があったのなら。
助かる命も、あっただろうに。
何度、そう思ったことか。
発展のない世界というものをまざまざと見せつけられたといっていいだろう。
現状、私はこの世界では、たったひとり。
そもそもが笑ってしまうぐらい何ができるでもない、知恵も知識も、ましてや技術など持ち合わせてなぞいなかった。
いずれは私の後の世代が、緑の革命を起こしたり、防疫能力を底上げするような働きをしてみせることだろう。
不自然な動きは、世界のゆっくりとした社会性を育まない。
多分だが、私の想定外のことが起きたとき、誰も対応できなくなってしまう。
その時が来たら、コトだ。だから、静観するしかなかった。
「私は、責任を取りたくないからな」
国境沿いでの諍いにも、気合が入る。
私たち騎士の動きは、下手すると国境紛争になりかねない。怒鳴る先輩騎士らの様相を、訓練された動きで整列し、しれっとした顔でいなければならない。
理不尽な殴られ方にも、癖がある。
順番に殴られるならば、なるたけ痛みの少ないほうへ並べばいいし、怒られるのが嫌なら、上司を持ち上げて気に入られれば良い。単純にそのほうが生活環境が良くなったし、周囲の風通しも良くなった。
ただ、それが嫌で、騎士を目指すのを辞退した同僚もいたが。
勇敢な奴だと褒め称える奴もいたが、羨ましがったり、妬んだり。疎ましがる者もいる。私は、その狭間にて、三者三様の考えがあるのだと解す。
一歩引いてみていた。だからか、クールだなと言われたことがある。
私はただ、感心していただけだった。
「どこの世界でも、人の心は変わらんか」
高いビルの間を飛び交う、白い鳩。
懐かしくも涼しい、僅かに開けた場所に植えられた新緑の葉が瑞々しい。
異世界の騎士の姿であるというのに誰も私を目に留めることなどしないで、足早に目的地へと、颯爽と通り過ぎていく。
また一人。また一人、と。
その内の一人、髪の長い女性が過ぎていく。スーツ姿の女性。OLか。カバンを持って、ハイヒールをカツカツと鳴らす。スカートの制服は時折、彼女を大人びて見せていた。若い。20代の、新人さんか。嬉しそうに何かメモのようなものを持ち合わせている。きっと、良いことがあるんだろう、が。
私は、彼女の顔形が気になった。
だが、すぐに目を逸らす。
辺りはまばらになり、終電が近くなると慌てて足早に進む人々がぽつりぽつりと。遠くへと消えていく彼らの後姿を、ぼんやりと眺めていた。
ビル群によくある隙間に据えられた、ベンチに座ると、街灯が点滅して輝き始めた。
そうか、夜、か。
私は、見上げる。騎士の恰好のままに。
星の無い世界。そう、この黒に塗り潰された明るすぎる夜が、私の生まれた世界のニュクス。美しくも、もの悲しい時代の変遷。流れ。
かつて、私もその中にいた一人。
つと、真昼間に見た女性の顔を思い起こす。
「誰、だったか」
ぴんとこない。
が、もしかしたら、私の。なんだか、懐かしい気持ちがしたから、遠い昔の、前世の。そのまた昔の前世だったのかもしれない。
あるいは、知り合い、か。家族か。友人か。兄弟、か。
魂は脈々と続いている。
今の私がこのように考えることができるのだ、魂だって考えることがあるはずだ。このままだと、飲みこまれる、と。
「リディ」
細やかな声だったが、私には分かった。
振り向かずとも横に座っているのが、リヒター殿下だってことぐらいは。
「君の奥深いところまで、来ることができた。
初めてだな」
不敬にも、私が無反応にも関わらず、彼は、とても嬉しそうな雰囲気であった。私はといえば両の手を祈るようにして組んで真っ直ぐに前を向いていた。肉厚な感覚がある手の平。
「……そう、でしょうか」
これは間違いなく、私の。今生の骨太な手だ。
「ああ。
君は、いつも、とてつもなく脆い魂を持っているくせに、
頑丈な檻を持っている」
伏せる視界に、殿下の手が。私の組んだ両の手をゆっくりと包む。
私より繊細だが、しっかりと戦うことができる指。そこには、やはり指輪が幾つもつながって存在を忌憚なく主張していた。中には、指輪から鎖のようなものが連なって殿下の滑らかな五指を絡め、指の先にまで垂れ下がるくせして、その先が千切れ、消えているものもあった。
「……檻?」
「ずっと探していた。
ずっと」
殿下の声色の調子が気がかりだったが。
私は、ふわりと意識が浮上するのを感じた。
――――目を覚ますと、やはりそこは、真っ黒な。
天蓋が、まず目についた。垂れ下がるそれは立派にその役目を果たし、私の寝ているベッドを覆い隠していた。
どうやら、私は部屋を移動したものらしい。
脳裏に蘇るのは、あの金環の王子様の、すべての感情をこそぎ落としたかのような表情だった。目元から雫をこぼしていた。あの顔のままに。
まずい、と思った。
彼は壊れると。感情の吐露が上手くいかないと、大概の人間は崩れる。右往左往するのもいけない。ジェットコースターのような感情の行先は、堕ちるしかないからだ。
フラストレーションがたまっているのだと考え、彼を休ませることにしようと目論んだ。無論、私だって。熱を発症していたし、王子という名の湯たんぽを無理やり押し倒して横になろうと寝ようとした。
実際、途中までなんとかいった。眠ったし。寒気もあった。
うつら、うつらとしていたら。
上記のような夢を細切れに見て、起こされ。
ああ、そのときはまだ金環の王子様だったか。彼によって頬を叩かれ、なんでか歯噛みをしていたので変な癖が出てきたのかと番犬が抜けきっていないのを心配していたところ、彼が。
「リヒター殿下」
呟くと、サア、と、垂れ幕が動いた。
「起きたか?」
「……は」
静けさの中に、殿下の綺麗な声が籠る。
王太子殿下手ずから、私の額は熱を測られる。
「……少しは残っているようだな」
「そう、ですか」
「ああ。
薬も飲ませた。
明日にも良くなるだろう」
いつの間に。だが、確かの喉の奥が潤っているような気はする。
そうこうしている内に、彼は私の額に冷ややかな布を置いてくれた。
ちら、と。病人となってしまった私が、仰ぎみるこの姿勢がなんだか新鮮で不思議な心地となる。しかも、かのアーディ王国の王太子殿下が自ら。なかなかない、天変地異が起きた感じがしてどうにも居心地が悪い。美貌王子はやはり、下から見上げても美しいものだった。
「眠っていろ」
「……は」
命令だった。
本当は副官殿を呼びつけて殿下の護衛計画の話をしなければならなかったのだが、このような調子では、な。殿下が寝ろとおっしゃるのだ、いい加減、眠ったほうがいい。私は楽をできるうちに、楽をするタイプだ。
微睡んでいるうちに、呑気な私は、この夜を就寝することができた。
夢も見ず。ただ、あの質量のある夢は一体なんだったのか。分からないが、たぶん、次の日にはわすれてしまっているんだろう、そんなよかんがす、る……。




