23
約束の日までを多美は浮かれるようにして過ごした。気候は穏やかで、夏の暑さがやっとで駆け抜けた感じのする、気持ちの良い晴れの日が続いた。梓は補助人工心臓のために個室に移ったわりに、調子がいいため延期されているようだった。だから時々は車椅子を回して出かけたりもできていた。延期しているのは、梓本人の意思だと聞いた時には少し驚いたけれど、梓本人には何も尋ねなかった。機械の心臓で生きることを嫌がっていることは充分知っていたし、梓の命は梓が好きにすればいい。梓が多美にそうしてくれたように。
「あれ、梶原、まだいたの?」
放課後に多美しかいない教室に飛び込んできたのは、伊東だった。また頭に水をかぶったのか、びしょぬれになっている。ウェアに鮮やかな黄緑のゼッケンを着ているのは、サッカー部の途中だからか。二人きりになるのは久しぶりだった。
「うん、明日約束があって、今日は行かなくていいの」
「そうなんだ。なら今は?」
「帰りのバス待ち。うち、一時間に一本しかないから」
うわー、お気の毒。伊東くんは素直に同情してくれた。
「……先輩、元気?」
伊東くんの梓の記憶は、ICUに入ったところで途切れている。多美は簡単に状態を説明することにした。
「移植待機のためにいろいろあって、個室に移った。けど現状は変わらず、かな。調子はよさそうだよ。今のところはちょっと落ち着いてる」
「そっか。ならよかった」
あからさまにほっとする伊東くんを、多美はじとりと睨みつける。
「っていうか、メイド服の写真、メールしたでしょう?」
「げ! 先輩、俺に頼むだけ頼んで、こっちはフォローなしかよ!」
「どんなフォローよ」
「ウソ、マジで勘弁してよ。先輩に頼まれると、俺断れないし!」
一気にたじたじと後ずさりまでする伊東くんを、多美は遠慮せず、胡乱な目で見ている。
「運動部の縦社会をなめるなよー。無理だって!」
伊東くんにとって、梓は本当に慕っていた大好きな先輩のままなのだ。最終的にはそれに免じて許してしまうんだろうな、と多美は少し顔を緩めたが、伊東がまたいらない言い訳をだらだら続ける。
「あの写真、けっこうよく撮れたんだよ。梶原の張り付いた、あのぎこちない笑顔がすっごく不自然でもうおかしくて!」
「伊東くんっ!」
やっぱり許すまじ、と怒ろうとしたところに、伊東くんの意外な一言が降ってきた。
「梶原、もっと笑えばいいのに」
「ん?」
伊東は腰に手をあてて、偉そうに胸を張ってそう言った。
「その方が絶対イイよ」
「何変なこと言ってるのよ」
「前に先輩がそう言ってたから。学校でも笑えばいいのにって」
「えっ」
じゃ、俺部活戻るし! と机から目的の電子辞書を取り出して、あっという間に多美の前から消えた。多美はそのスピードにあっけにとられつつ、今言われたことを反芻する。もっと笑えばいいのに。そういえば、私は梓に笑いかけたことがあっただろうか?
明日、誕生日何をするか分からないけれど、梓に向かって笑ってお礼を言おう。
伊東くんの言葉で、それだけは決めた。
決めたのに。
風が金木犀の匂いを運ぶ約束の土曜日に、多美は梓の病室を訪れた。約束の正午まではまだ三時間も時間があった。白い布で隠されていた梓の表情はとても穏やかで、眠っている時よりも優しく思えた。
――必ず正午においで。時間厳守だからね。
梓の母からもらった電話は危篤ではなく訃報の連絡だった。対面した時にはご両親はどこかで手続きをしているようで、多美と二人きりにしてくれた。
枕元には本当に大きな花束だったらしきものが置いてあった。驚いたことに、その花束からは花びらがまったくなくなっていた。葉と茎だけが残された無残な姿。なんでこんなものを、と下に目をやったら、白い紙袋の中に、ありあまるほどの花びらが、山のように入っていた。
――多美にも見せてあげたいなぁ。本当にキレイなんだから。
いろんな色が入り混じった、あまりにもたくさんの花びら。この花束から梓が一枚ずつちぎっていったのだろう。でもなんでそんなこと。
――多美はこんなキレイな空を見たことがある?
時間厳守。元気な時はいつも、梓は窓から訪れた多美を見つけて声をかけた。上から降ってくる心地の良い声が、いつも多美を待っていてくれた。
――空。青くて遠くて、ずっとずっと広い空に、色が降ってくる。いろんな色。
多美はその紙袋を手に取った。花びらだけなのに、ずしりと重たく感じた。
誕生日のプレゼント。
――あの夢みたいに、キレイなものがいいんだけどな
多美は紙袋を抱えたまま、窓辺に近づくと思いっきり窓を全開にした。
そして思いっきりその紙袋の中身を、空へぶちまけた。
――万華鏡みたいにきらきら光って、
高い高い秋の空に、色とりどりの花びらが一斉に舞い上がった。その花片が一面に舞ったその一瞬を目に焼き付ける。
――雪みたいにふわふわってゆっくり降ってくるんだ。
花びらはゆっくりと螺旋を描くように、太陽を反射してキラキラと輝きながら、ゆっくりと降下する。色とりどりの光。
――それがあんまりキレイで全然飽きないんだ。
うつくしかった。
それは本当に美しい光景だった。
「いかないで」
その話を聞いた日も、多美は確か梓にそう言った。
「いかないで……」
けれどもう優しく頭を撫でてくれる手はない。
梓が昏睡していた時に見ていたもの。多美にとても見せたがっていた空。じわりと涙で歪んだ。
きれいだけど、梓。
悔しくて悔しくて悔しくて、怒っている時と同じように全身が震えた。持っていた空の紙袋を力任せに握り潰して、床に叩きつける。声にならない悲鳴をあげながら、その場に泣き崩れた。
梓がいないならこんなものいらない。
梓が見せてくれないんだったら、こんなもの見たくない。
こんなに美しい空は、私の世界じゃない。




