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「荒井さん、井口さん、さっきはどうも、ありがとう……」
消灯直前の病室で、梓は二人に礼を言った。
「多美、ごまかすの大変なんだよ。とっても聡い人だから」
眠る前にサッカー雑誌を見ていた井口が、苦々しい顔をして髪をもさもさと掻いた。
「なんであんなことしたんだよ」
「みっともないよね」
「いや、……そういうことが言いたいんじゃなくて」
井口は一度言葉を切って、それからあらためて口にした。
「今までのお前の方がよっぽとみっともなかった。でももっと体は労われ。そんな方法で傷つけるな。少しでも心臓に負担かけるな。それで泣くのはあの子だ」
何にも傷つかない。すべてを飲み込んで受け入れる、のっぺらぼうの梓。
梓の持つぺらぺらの態度に、何もかもが響かない心情に、自身の病気を嘆いていた井口は救われた。けれどまだ井口には人間としての感情が残っている。そんな風な人間でいることこそが異常だ。気持ちが悪い。みっともない――そう思える理性が残っている。
その梓が、先日キレたのだ。
荒井がスケッチブックに鉛筆を走らせていたのを止めて、会話に割り込んできた。
「俺もね、今の梓くんの方が好きだよ」
スケッチブックを見せてくれた。描かれていたのは、多美の横顔。少し硬くて隙のない、けれど端正で綺麗な彼女がそこにいた。とてもよく描けていた。
「最後まで自分らしく生きたいと願うことは、人として、正しいことだよ」
「――そんなんじゃ、ないよ」
梓の『乱心』のニュースは意外と早く回ってきた。なにせ有名人の梓のことだ。ちょっとでも派手なことが起きれば、すぐに話題になる。主治医の高橋先生から、親を交えた今後の治療方針が説明されたその場で、梓は近くにあったパイプ椅子を振り回して会議室を破壊、その時に右腕を強く打撲して、このザマとなった。あまりに梓が興奮したため話し合いは中断となり、その場ですぐに取り押さえられ、精神安定剤を打たれて、意識を奪われたまま病室へと戻ってきた。
「ただ足掻いてみただけ」
吐き捨てられた梓の一言に、井口も荒井も言葉を失った。




