第34話:青いインクの迷宮、涙のあとの違和感
ディープブルーの表紙をそっとめくると、真っ白な見返しのページが現れた。かすかに香る古いインクの匂いを吸い込みながら、揺里は最初の一行へと視線を落とした。
薄暗い棚の影で、私の心にチクリと刺さったタイトル。
そこに並んでいたのは、サルトルの時よりも少しだけ静かで、けれどじんわりと染み込んでくるような、こんな言葉だった。
『孤独とは、誰からも顧みられない寂しさのことではない。
それは、他人の視線から完全に解放され、自分自身を深く愛するための、贅沢で幸福な時間である』
その活字を見つめているうちに、揺里の胸の奥に、さざ波のような不思議な感情が湧き上がってきた。
他人の視線から解放される、贅沢な時間。
確かに、この図書室で一人で本を開いているとき、私は誰の目も気にしなくていい自由を感じていた。教室のあの四角い檻から抜け出して、本当の自分でいられるような、そんな心地よさがここにはあったはずだ。
でも――。
揺里はそっと自分のスクールバッグの底を見つめた。
そこには、さっき伊織くんから手渡された、ブルーのチェック柄のハンカチが静かに眠っている。
(何かが、少し違う……気がする)
本が言うように、孤独が完璧な幸福なのだとしたら、どうして私はさっき、誰もいないあのガランとした教室で、あんなに寂しくて痛い涙を流していたのだろう。
もしも伊織くんがドアを開けて入ってきてくれなかったら。あのキザでおちゃらけた言葉で、私を無理やりにでも笑わせてくれなかったら。
私は今もきっと、あの冷たい机に突っ伏したまま、暗い涙の底に沈んでいたはずだ。
一人でいることは、本当にそれだけで「幸福」なのかな。
誰の視線も届かない場所で、誰とも繋がらずにいることは、本当に私を救ってくれるのだろうか。
本に書かれている美しい正解と、さっき自分が教室で味わった、あの生々しい涙のあとのぬくもり。
その二つの間にある、目に見えない小さなズレのような違和感が、揺里の等身大の胸の奥で、小さく、けれど確かにくすぶり始めていた。




