第32話:放課後のマジシャン、涙のあとの小さな風
「……ほら、これ使えよ」
上から降ってきた少し軽い声と一緒に、揺里の視界の端に、綺麗にたたまれたブルーのチェック柄のハンカチが差し出された。微かに爽やかな、シトラスのコロンの匂いが鼻をかすめる。
その主は、クラスのムードメーカーでいつも輪の中心にいる、帰宅部の伊織だった。普段は冗談ばかり言ってみんなを笑わせている彼が、今は少しだけ真面目な、けれどいつものおちゃらけた雰囲気を残したまま、机の横に立っている。
揺里は机に突っ伏したまま、震える手でそのハンカチを受け取り、目元をそっと押さえた。
クラスの男子の前で泣いてしまうなんて、恥ずかしくて消えてしまいたい。けれど、伊織は急かすこともせず、ポケットに両手を突っ込んだまま、窓の外の夕焼けを眺めていた。
「ま、男の俺が言うのもなんだけどさ」
伊織は、わざとらしく前髪を指先でくいっと持ち上げると、少しモデルみたいなポーズを取って見せた。
「泣きたいときはさ、思いっきり泣いて、全部吐き出せばいいんだよ。溜め込むのは、このイケメンな俺の美学に反するからね」
あまりにもキザで、いつもの彼らしい突飛なセリフ。
張り詰めていた教室の空気が、その一言でふっと緩んだ気がした。揺里はハンカチに顔を埋めたまま、「ふふっ……」と、こらえきれずに小さく吹き出してしまった。
「あ、やっと笑った」
伊織は満足そうに白い歯を見せて笑うと、背中を向けて歩き出した。
「邪魔して悪かったな。あ、今のことは誰にも言わないよ。俺、口の固さだけはクラス一だから」
ドアの前で一度だけ振り返り、キザにウィンクをしてみせる。
「……伊織くん」
揺里は赤くなった目のまま、顔を上げて彼の背中を見つめた。
「ありがとう」
「おぅ、また明日な」
伊織はひらひらと手を振りながら、今度こそ廊下へと去っていった。軽快な上履きの足音が、遠くへ消えていく。
一人きりに戻った教室。
涙はすっかり止まっていた。
友達についた小さな嘘の苦しさは、まだ胸の奥に淡く残っているけれど、伊織が残していったシトラスの香りと優しい笑い声が、凝り固まっていた揺里の心を、少しだけ柔らかくほどいてくれたようだった。




