02. 誘惑
本編差替えにつき、ほかの更新は1~8話目になります。
読みにくくてすみません。
エミリアとネイサンが結婚する少し前、まだ婚約者同士だった頃の話だ。
二人の目の前で若い女性がふらりと身体を傾かせる。
咄嗟の動きで横にいたネイサンが抱きとめ、地面に倒れ臥すのは避けられた。
「大丈夫ですか?」
様子を伺うように顔を覗きながら声をかける。
「平気です。……ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
弱弱しい声を振り絞るように謝罪の言葉を紡ぐ。
女性はもう大丈夫だと告げると頭を下げ、少し不安な足取りで立ち去った。
エミリアはもし自分がこの場におらず、婚約者であるネイサンだけだったら、馬車まで彼女を送っていったのだろうかと思ったが、本人が大丈夫だと言いネイサンが見送るだけだったのなら、それ以上の声がけをせずネイサンに従うべきだろうと結論付けた。
翌日、ネイサンが転倒を防いだ女性が礼を言いに現れた。
だがそれ以降、毎日のように見かけるようになるとは、思ってもみなかった。
「エミリア、大丈夫?」
同僚侍女のクレアが、不穏な空気を感じ取って気遣ってくれる。
「大丈夫、ネイサン様を信じているから。それに任せて欲しいと言われているの。半月以内になんとかするからって」
権力を滲ませ高圧的な態度で、排除しようと思えば即時に目の前から排除できるらしいが、できれば穏便に済ませたいと言っていた。未婚の女性が醜聞に塗れれば、取り返しのつかない結果になる、それは避けたいのだと。
過去、アーヴァイン大司教の手助けがなければ、後ろ指をさされる羽目になっていたかもしれないエミリアは、快く思わない相手だったとしても、あまり酷いことになってほしくないと思っている。
だからネイサンが穏便に済ませたいというのなら、自分も見守っていたいのだ。
「ああいう女はしつこいわよ、気をつけてね」
クレアは何かあったら協力するとだけ言って、深く立ち入ろうとはしない。彼女なりの気遣いだった。
しかし一度エミリアが助けを求めたら、快く手を差し伸べてくれるだろう優しさを含んでいる。
数日後、ネイサンに抱きつく女性の姿を見かけた。角を曲がったところで、二人の姿が飛び込んできたのだ。
後姿だったし女性の方は身体の一部やドレスが見える程度だったが、あの女性だというのは背格好からわかった。
エミリアはそっと、一歩後ろに下がって建物の影に隠れた。
直後、衣擦れの音が聞こえて、ネイサンが女性の身体を引き離したのが察せられる。
王太子宮から離れているとはいえ王宮内の出来事だ。騒動を王族に聞かれるのは、誰にとっても好ましくない。彼女が気の無いエミリアの婚約者に、実力行使に出たのはわかったが、自分が姿を現して騒動をおこすのは避けたい。
仮令相手が婚約者を寝取る気満々で近づいていたとしても。
彼女がヘイゼル・アスカムという名であることや、実家が侯爵家であることは、二度目に見かけた直後にクレアから教えられて知っている。十七歳の彼女は結婚相手を探している真っ最中だ。親が相手を捜しているとはいえ、王都では恋愛結婚が広まりつつあり、自ら相手を探してくることも多い。
結婚してからも貴族の立場に残ろうと思えば、後を継げる長男に嫁ぐしかない。
だが貴族の令嬢たち全員が長男に嫁ぐのは不可能だ。
だから将来有望で後々男爵以上になりそうな相手や、実家の後ろ盾がありそれなりの生活が保障されそうな相手を探す。
ネイサンは騎士爵とはいえ、若くして爵位を与えられた将来有望な騎士であり、後々男爵以上になりそうだと目されている。本人に近しい人たちの中では、以前から評価の高い男だったが、実力が広く知れ渡ったのは終戦後、叙爵されてからだ。
結婚相手を探す十代後半の令嬢たちにとって、二十代前半というネイサンの年齢は申し分ない。婚約者はいるものの未婚であり、しかも婚約者は二十歳を迎えた年増だ。
奪おうとすればなんとかなると思ったのだろう。褒められることではないが、気持ちはわからなくもない。貴族籍を抜けてしまえば、それまでの交友関係から切り離される可能性がある上、生活も随分と質素になる。騎士は給料が良いらしいが、平騎士の給金だけでは使用人を雇うのは難しく、小隊長に昇進してようやく、通いの使用人を一人か二人雇うのが限界だ。
侍女になる前からの友人であり、同じ王太子宮の侍女であるデイジーは、ネイサンの先輩にあたる騎士と結婚して街で暮らしているが、侍女はおらず通いの使用人が一人いるだけだから、家事のいくつかは自分で片付けている。男爵令嬢だった独身時代より生活の質は確実に下がったが、恋愛結婚の末に築いた家庭を気に入っているからか、苦に思っていない。
皆がデイジーと同じ暮らしを受け入れられるとは思わない。だからと言って誰かの婚約者を奪おうというのは論外だが。
早くヘイゼルが諦めてくれないだろうかと思いながら、エミリアは目的地に向かって歩き出した。
今日は王太子夫妻が、隣国からの使者を出迎えるために大宮殿に赴いている。昼食を一緒に摂れない両親のために、セイラ姫が手紙を書いて託したのだ。心をすり減らしている王太子と王太子妃の慰めになるようにと。
急ぐ必要はないが、のんびりする気もない。キビキビとした足取りで目的地に向かった。
「――ちょっとよろしいかしら?」
呼び止められたのは大宮殿の手前だった。
目の前には令嬢が三人、いずれもヘイゼルの同い年の友人だ。
「手早くしてくださいませ。急いでおりますので」
きっと婚約を解消しろと迫るつもりだろう。一人ではどうにもならないから友人の手を借りたのか、それとも結婚相手をみつけた友人のために一肌脱ごうと、彼女たちが自発的にエミリアの下にきたのかは不明だが、いずれにせよ厄介なのは変わりない。
正直なところ、仕事を中断してまで対応したい相手ではなかった。
「早く済むかどうかは、あなたにかかっているわ」
もったいぶった言い方をする。
「身の程知らずだから教えて差し上げるわ。おばさんなんかがファーナム様に釣り合っていると思っているの? 別れると言えば解放して差し上げるわ」
「二十歳を過ぎた行かず後家が、将来有望な方を縛り付けるなんて罪ですわ」
三人とも言いたい放題だ。
「皆様、十七歳ですものね。二十歳を過ぎた私など年増でしかないでしょう。でも若さ以外に何かございまして? ご実家は中央貴族でいらっしゃるし裕福ですね、でもアスカム様や皆様ご自身に誇れる所は?」
エミリアはそう言うと静かに相手の出方を待った。
「実家の後ろ盾があるのよ、十分じゃない」
「男爵位をいただくまで、ヘイゼルの実家が支えますわ。あなたと違ってね!」
実家の力があるから自分たちは有利だと言うが、ネイサンにそんなものは必要なかった。
「騎士に実家の後ろ盾は必要ありませんわ。実力でどうにでもなりますもの。妻の実家を頼れば、情けないと誹りを受けますよ。何より自分の実家の援助を断りきれずにいて困っている相手に、どうやって押し付けるつもりでしょうか」
一拍おいて呼吸を整える。
「話になりません、お引取りを。それと迷惑しておりますから、ネイサン様への付きまといを止めるよう、令嬢方からお伝えください」
「弁えなさいよ!」
パンッという炸裂音とともに、エミリアの頬が熱くなる。音の割りに大した痛みがないのは、頬を打ったジェニー・ディズリーの腕力がないからだろう。侯爵令嬢であれば、労働の経験などなく、非力なのが普通だ。
エミリアも昔はほかの令嬢同様、まったくといっていいほど腕力がなかった。王太子宮に出仕して幼かったセイラ姫を何度も抱き上げるうちに、令嬢とは思えないほど力がついただけで。
「弁えるのはあなた方です。王太子宮で有名になっておりますよ、アスカム様の不品行が」
「どういうことよ!」
悪名と聞いて突っかかる。
「騎士に付きまとい、仕事の邪魔をする令嬢たちがいると噂になっております。騎士と侍女の全員があなた方の顔と名前を把握しております。王太子殿下や妃殿下の耳に入り、ふしだらな令嬢に迷惑しているとご実家に連絡がいくのも、時間の問題ですよ」
「――!!」
令嬢たちと聞いて、ヘイゼルだけでなく自分たちの評判も悪いと知ったからか、実家に連絡がいくと言われたからか、三人に動揺が走った。
「若い令嬢の悪い噂は、その後の人生を棒に振るほどの醜聞です。ですからネイサン様は時間をかけてでも穏便に済まそうとしているのです。間違ってもアスカム様に情が移った訳ではありません。皆様方もお父上に失望され、領地の片隅で一生を過ごすような生活はお嫌でしょう?」
「……」
仮にエミリアが彼女たちの実家に抗議をしても、握りつぶされるだけだろう。
しかし王太子や王太子妃から当主宛に、正式な抗議が入ればどうなるか、わからないほど愚かではないようだ。
「私がアスカム様だけでなく、ティズリー様やドーソン様、ゲティンズ様のお名前を知ったのは、二度、お姿を見かけた直後です。皆様はすでに騎士隊や侍女から目をつけられております。このままですと数日中に警備隊長か侍女長から抗議が入るでしょう。行動が改まらなければ、次の抗議は王太子殿下からです」
実際にはネイサンが穏便に済ませると宣言したから、直近での抗議を入れる予定は無かった。所謂ハッタリというものだが、令嬢たちは一気に顔を青ざめさせた。
実際、穏便に済ませられそうな状況であれば、周囲は見守るだけだっただろうが、エミリアの仕事を妨害し、暴力を振るうなど実力行使に出たと知ったならば、悠長な態度は取らず、彼女たちを責めるだろう。
すでに騎士と侍女の全員が四人の名前を把握しているのは事実だ。叙爵されそうな騎士が、突然、令嬢に言い寄られるようになることや、令嬢の親が圧をかけて娘を嫁がせようとするのはよくあることらしく、手馴れた様子だった。
「ご友人であればアスカム様をお止めくださいませ。皆様が良識ある行動を取るのでしたら、今日の事は水に流しましょう」
そう言えば黙って踵を返し、慌てて立ち去っていった。
彼女たちの行動は軽率過ぎた。正直なところ呆れていたが、だからといって醜聞に呑まれてしまえとまでは思わない。
このままで終わるのなら、無かったことにできるだろう。
「――エミリアッ!!」
王太子宮に戻るなり、ネイサンが駆け寄ってきた。
私事で仕事を放り出すような婚約者ではないのに。
「すみません、僕の対応が悪くて殴られたと」
「いいえ、間違っていませんでした」
狼狽するネイサンに微笑んでみせた。
「まだ若い令嬢の将来を気遣って差し上げたかったのでしょう?」
「だからといってエミリアを犠牲にしてまでとは考えていませんでした」
打たれた頬に手を当てながら眉根を寄せる。
「私も一度の過ちで人生のすべてを失ってしまうのを見るのは偲びありませんでした」
貴族の女性は、嫁ぐ相手によって人生が大きく変わる。エミリア自身、一度、結婚に失敗した経験があった。
だからより良い相手を見つけて結婚に漕ぎ着けたいという気持ちは痛いほどわかる。
アーヴァイン大司教を始め、何人もの手を借りて婚家を出て、多少、社交界で噂になったとはいえ、エミリアの瑕疵にならないように、上手く独身に戻れたから良かったものの、そうでなければ一生を修道院で神に祈る生活を送っただろう。
ネイサンがもし彼女の実家に抗議を入れれば、父親に見捨てられ切り捨てられたかもしれないし、社交界でふしだらだと噂されれば、問題ある男にしか嫁げない将来しか残されなかったかもしれない。
仮定の話でしかなかったが、それでもネイサンが彼女たちを気遣ったのが嬉しかった。
「アスカム様はどうなりました?」
「諦めてくれました。少しずつ行動が過激になってきていましたから、これ以上付きまとうなら、こちらも実力行使に出るしかないと強めに言いました」
普段は穏やかで物腰が柔らかいが、必要なときには厳しくも怖くもなるのを知っている。
きっと豹変したネイサンを見て、二度と迂闊なことはしないと心に誓ったのではないだろうか。
「良かったですわ、大事になる前に解決できて」
「しかしエミリアを傷つけました」
他人のために婚約者に被害が及んだのが許せない様子だった。自分の弱腰が被害に繋がったのだと。
「少し赤くなりましたが、痛くはありませんでした。三人とも自分の過ちに気付かれましたわ。大目に見て差し上げましょう」
気にすることはないと笑って返す。
その後、ヘイゼルを含む四人がエミリアとネイサンの前に現れることはなかった。
若気の至りだと気付いたのだろう。
このSSにて完結になります。
長い間、ありがとうございました。
この後は重版が決まる等、何かあればSSを公開すると思います。