【現】29.始まり
長い、長い夢をずっと見ていたような気がする。しかし、それを思い出すことができなかった。
いつものと変わらない日常が流れていく。朝練に行き、授業を受け、新しく加わった亀田さんと香織との昼休憩があり、また夕方はクラブに熱中する。不満などなかった。昼休憩は、亀田さんが加わったためなのか、それとも香織が池口と付き合い始めたせいなのか、恋の話が多くなった。不快とは思わなかったが、それを聞くと何か後ろめたさを感じていた。
そんなある日の昼休憩の時間、亀田さんが突然話を切り出した。
「前に言ってた合コンの話、やるから今度の日曜日予定空けておきなさいよ」
そう言った亀田さんの顔はにやにやとしている。私はご飯を運んでいた箸を思わず止めた。
「はぁ?合コン?本当にやるつもりなの!」
「当たり前でしょ。忘れたとは言わせないわよ。これは私の厚意なのよ、素直に従いなさい?」
見下された、とまではいかないが、ふんと鼻で笑うと再びパンを食べ始めた。あまりの強引さに呆気に取られてしまった。
「でもさ、亀田さん。前、らむが相談してたじゃない。それを無視しちゃらむがかわいそうだよ。それに合コンって……相手はどんな人たちなの?」
「近くに男子高があるでしょ?あそこのやつらとよ。何、香織ちゃんも来たいわけ?」
「いやいやいや!そんなわけないよ!……男子高って下馬高校だよね。そんなところにも伝手があるんだぁ」
「ふふ、私をあまりなめないでくれる?」
香織は感心した様子で感嘆の声を出している。亀田さんは残っていたパンを食べ終わると、持ってきたビニール袋にゴミを入れながら私を見てきた。
「……どうなのよ。あんた行きたいの?嫌なら無理には行かせないわよ。ってか本当に、前言ってた人とは今どうなのよ。あんた何にも言わないんだから」
「あ、私も気になるなぁ。あの後どうなったの?」
熱い二人の視線が私へと集まる。その二人を見つつ口を開くが、何を言えばいいのか困ってしまった。
「た、確かに前相談したけど……思い出せないんだ」
「思い出せない?」
と二人同時に言葉を言った。二人とも驚いた表情をし、互いに首をかしげ合っている。
「ま、まぁ……もういいんだあれは。だから、せっかくの亀田さんのご厚意だし合コン行くよ。亀田さんの化けの皮を剥ぐのも楽しそうだしね」
そう言うと、亀田さんがムッとした顔をした。隣にいる香織もくすくすと笑っている。
自分がこの二人に相談したことは間違いない。しかし、今、どうしてあんなことを言ってしまったのか、誰に対しての言葉だったのかが思い出せないのだ。
ものすごく悩んでいたと思う。しかし、その対象が誰なのかがわからない。何か大事なことを思い出せそうで、思い出せないもどかしさ。
きっと時間が解決させてくれる、そう思い合コンに行くことに決めた。
日曜日になり、待ち合わせ場所であるママレードへと向かった。ママレードは初めて亀田さんを連れて行って以来だった。
着いてドアを開くと、いつものように乾いたような鐘の音が鳴り響く。店内にはカウンターに一人、座っているだけだった。
「いらっしゃい」
花柄のエプロンに、今日は白いバンダナをつけたあいさんがカウンター越しから声をかけてくれた。私はそのままカウンターの椅子に腰掛けた。
「すいません、今日は待ち合わせしてるんです」
「あらそうなの。全然構わないわよ。外は暑いものねぇ。……あ、お水でも飲む?」
「あ、じゃあいただきます」
カウンターの後ろを向くあいさんの背中を見つめながら、ふと横にある写真立てが目に入った。
――あの写真に写っている人……どこかで見たことがある……。
見覚えのある男子だった。その人の顔を見つめると、あの高鳴りが蘇ってくる。忘れている何かが胸をちくちくと刺してくる。
「あいさん。すいません、その写真立てを……もう一度見せてもらえませんか?」
「え?……あぁ。あなた前にもそう言ってたわねぇ。もう一度見たいの?」
動揺が抑えきれず、忙しく頷いた。あいさんは氷の入ったコップを私の目の前に置くと、写真立てを私の前に差し出してきた。
「はい。……本当にこの子懐かしいわねぇ。……あら?」
じっと写真に写る青年を見つめた。どこかで、どこかで見た覚えがある。必死になってなかなか出てこないものを思い出そうとした。
「ちょっとあなた!」
叫んだあいさんに驚き、思わず顔を上げた。しかし、あいさんは私ではなく一つ席を空けて座っていた男子に向かって言っていた。
あいさんは驚いた顔をしていた。そのあいさんに釣られて私も横を見た。
座っていても分かる背の高さ。短髪でつんつんとした頭に、あまり焼けていないが逞しい腕。その横顔は、遠目からでも分かるはっきりとした目鼻立ちだった。見た瞬間、思わず息を呑んだ。
「この写真に写ってる人そっくりじゃない!この人と何か関係ある人?」
「え……?俺ですか?」
聞いたことのあるような声色だった。その男子がゆっくりと私の方を見た。目と目が合うと、その人も驚いた表情をした。
真正面から見た顔でも、やはりどこかで見覚えのある顔だった。
自分でもわかるほど心臓が激しく動いている。
その男子の目に釘付けとなる。忘れていたものを思い出せそうで、それを必死に探している気分だった。
「……あら、二人とも知り合いだったの?」
見ると、私と男子の間にいたあいさんが不思議そうな顔をして首をかしげていた。その声にはっとなり、ようやく視線をはずした。
「あ、い、いえ。……写真ありがとうございました」
誤魔化すように笑顔を作り、写真立てをあいさんに手渡した。
受け取ったあいさんは、写真立てとその男子を見比べながら「似てるわねぇ」とつぶやきながら、再びカウンターの後ろを向いた。
「あの、どこかで会いませんでした?」
動揺が治まりきっていないところに突然声をかけられた。
驚き横を見るとその男子はずっと私を見ていたらしく、じっと見つめてくる。なぜか恥ずかしくなり顔を俯かせると、その男子は空いていた私の隣の席に移動してきた。
「すいません、突然変なこと言ってしまって。なんか見覚えがあるんですよね……。あ、思い出した……夢だ」
「ゆ、夢?」
拍子抜けした声を出すと、その男子はふふっと笑い出した。その笑顔も見覚えがある。
「……信じてくれないと思うけど、本当なんだ。すっごい切ない夢だったように思う。そんな夢にあなたそっくりの人が出てきたんだ。……なんだろ、初対面のはずなのにずっと前から知ってる気がする」
すると、照れくさそうに頭を掻きながらその男子は頬を赤く染める。
「あー恥ずかしい!なんかナンパしてるみたいだ。はは、ごめん変なこと言って……」
知らない人のはずだ。なのに、なぜこんなにも安心できるのだろう。近くにいるだけなのに、こんなにもドキドキするんだろう。
「……私も、あなたと同じように、前から知ってる気がするんだ」
「え?」
「これって……一目惚れってやつかな?」
思わず口から出てしまった。しかし、その男子は目を細め嬉しそうに笑った。
「本当?俺もそうかもしんない」
笑い合う私たちに対して、あいさんが小さく咳払いをした。
少し話をして二人で店を出た。話を聞くと、実はその男子も合コンへ行く予定だった下馬生だったらしい。私は亀田さんに電話をし合コンの断りをした。
「すっごい偶然だな。……あ、そうだ。今さらなんだけど、名前は?」
「来夢。木元来夢っていうの」
「来夢……。すごいな、夢に出てきた人の名前まで一緒だ」
「え?」
「いいや、なんでもない。……あ、ごめん、俺の名前はね……」
その日から、私と彼の関係が始まる。
忘れていた何かが、私と彼を結びつけたのだろうか。次第に後ろめたさもなくなってきた。
しかし家に帰って寝る間際になると、落ち着かない。何かを思い出せそうになる。必死に考えていると、ふと言葉が過ぎった。
窓だ。
――せめて窓を閉じないで。
そんなことを言われてたような、言われていないような。閉じてしまったらいけないような気がした。
――また逢いましょう。
また一つ思い出す。窓を全開にする。そこから眺める風景は、普段と変わらない夜のネオンに着飾れた街だった。
これでいい。
安心してベッドに入った。目を閉じて夢へと誘われる。
夢は決まって、誰かが私を見守ってくれていた。顔は見えないが優しい微笑みを浮かべて。