恋心を消す薬を飲むつもりが、間違えて婚約者と聖女が飲んでしまった件
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王都の夜会は、その日も華やかだった。
眩いシャンデリアの光が美しい大理石の床を照らし、貴族たちが優雅に笑い合う。
その中心にいるのは、この国の第一王子にして私の婚約者のフラウス殿下だ。
そして、その隣に立つのは婚約者である私ではなく、一人の少女だった。
「メル、今日も美しいな」
「そんな、殿下ったら」
頬を染める少女はメルトリクスと言う。
その類稀なる治癒能力から聖女との異名を持ち、その強大な癒しの力を買った陛下の意向で私たちの通っている学園へと先日編入してきた平民出身の女だった。
「キャサリン様」
少し離れた場所から二人を見つめていた私の声をかけてきたのは、侍女のアンシラだった。
かつてなら2人の中睦まじい様子は私の胸を締め付けていたが、最近は胸の痛みよりも疲労の方が勝っていた。
それを知ってか知らずか、アンシラの声色には私を気遣う心遣いが滲んでいた。
「お部屋へ戻られますか?」
「ええ」
私は微笑んだ。
「少し疲れてしまったわ」
彼女に連れられて夜会を退出する私に投げかけられるのは、遠慮の無い陰口か、それとも労りの言葉なのか。
最早それを気にするほどの余裕すら、今の私にはなかった。
幼い頃から殿下の婚約者だった私は、物心つく前から妃教育と公務に悩まされ続けてきた。
各国の言語だけに留まらず、時折女神の御業によって異界から落ちてくる異世界人の話す言語や異世界のマナーの習得や、得られる異世界の知識をいかにしてこの世界に馴染ませるかという日々の調整。
特に超未来的な文明を誇るとされる異世界人の持ち込む技術をこの世界に落とし込むのは至難の業であった。
国が違うだけでも様々な配慮を必要とするのに、異世界人は物事の考え方が根本から異なるし、小さなもの一つでもこの世界のパワーバランスを変える劇薬となり得る。
これが全て妃教育の更に上に乗っかってくるのだから、私には休まる日というものがもうここ何年もなかった。
そんな私にとっての唯一の癒しは、婚約者との親睦を深める束の間のお茶会だった。
彼はかつて優しい人だった。
異界言語が苦手な私を助けてくれ、乗馬が怖かった時は手を引いてくれた。
初めて贈られた花束も、初めてのダンスも未だに覚えている。
だから私は、政略であれども彼を好きになっていた。
けれど三年前、突然聖女が現れた。
これまでと違って異世界から人が落ちてきたのではなく、異世界の記憶を持ちながらもこちら側の世界の人間として生を受け、魔物災害を鎮めた奇跡の少女。
平民でありながら純粋で優しく、誰からも愛される存在。
殿下は瞬く間にメルトリクスに夢中になった。
正直、最初は仕方ないと思っていた。一時の憧れだと。実際、私も少し憧れみたいなものを持っていた。
ずば抜けた適性から放たれる強大な結界魔法や癒しの魔法の数々に魅了されたのは私もそうだった。
一度私も激務が祟って体調を崩した時、彼女の世話になったことがあった。積年の疲れが吹き飛ぶどころか、まるで身体から羽でも生えてきたかのように身が軽くなった時は、感動すら覚えた。あれば見事な物だった。
だが、殿下はいつしか私との約束を忘れるようになった。
茶会や婚約者として出席する行事はもちろん、誕生日に至るまで、いつしかすべて聖女が優先されるようになった。
初めのうちは、仕方ない事と割り切っていた。しかし、私が割り切っていても、周囲はそうではなかった。
『まあ皆様、悪役令嬢のヴェレク侯爵令嬢様ですわ』
『恋路に障壁は付きものですものねえ。例えば、キャサリン様とか』
『身分を超えた愛に振りかける、とっておきの隠し味』
少しでも苦言を呈せば嫉妬深い女。
婚約者として当然の抗議をすれば聖女いじめ。
無視を決め込めば吠えることすらままならない負け犬。
悲しかった。
いつしか、誰も私の言葉を聞かなくなった。
でもいちばん悲しかったのは、そんな私を省みる者が居なくなっていたことだろう。
以前なら、愛する殿下との束の間の時間で私は生きるための活力を貰っていた。
でも今、砂漠化した私に水をくれる殿下は居ない。
◇
夜会を早退したその日の夜。
私は屋敷の書庫で古い本を読んでいた。異界の技術にまつわる書物だった。
ただ、そこに記されていたのは通常の異界とは異なる、魔法のある異世界からやってきたとされる、魔の森の魔女についての書物であった。
彼女は、あらゆる薬を作る女とされていた。
運を直接あげる薬や、忘却の薬すら作れるという。
……忘却の薬、か。
「忘れられるなら……」
思わず、口をついて出ていた。
もしも私が、この苦しさを忘れる事が出来たのなら。
この恋心が初めから存在しなければ。
どれほど楽なのだろうか。
◇
数日後。
私は護衛も連れずに森へ向かった。
王都から遠く離れた、霧の深い森の奥に小さな木造の家があった。
扉をノックする前に、まるで私が来たのを予期していたかのように扉が独りでに開く。
「いらっしゃいませ。どうぞ中へお入りください」
……男の声だ。
「では、失礼致します」
話が違うなと思いつつも、恐る恐るその家の中に入ると、そこにいたのは黒髪の青年だった。
……若い。私と同じ位の歳に見える。間違いなく異世界人だ。
「森の魔女……と、聞いていたのですが……」
「伝承なんて曖昧なものです。わたくし、イージスと申します。どうぞよしなに」
そう言って、彼は完璧なボウアンドスクレープを行った。
予想外の対応に、私は思わず瞬きをした。
「おや? オブリース王国では目上の方には私の世界で言うイギリス式の敬礼が合っていると思っていたのですが、もしや違っていましたでしょうか」
「あ、いや、まさかここで異世界の方からそのようなご挨拶を頂けるとは思いもしなかったもので……」
「王国のはずれとはいえここはオブリース王国。異界の者かつ平民とはいえ、わたくしもマルシオ辺境伯の領地の片隅に住居を構える王国民になりますので、当然のことですよ」
その言葉に、私は再度瞬きをした。
森の魔女ならぬ森の青年は、自らを平民と名乗って見せた。それどころか自らのいる場所を正確に理解し、私を貴族であると理解し、侯爵家にも引けを取らない完璧な挨拶をしてみせたというのか。
「粗末な家ですが、どうぞお掛けになってください」
彼がそう言うと、目の前にティーポットが現れた。この世界では伝説とも謳われる無詠唱の魔法だ。
「私の世界でマロウブルーと言う紅茶です。お気に召すといいのですが」
ポットが独りでに傾くと、見たことの無い鮮やかな青い液体が、これまた空中にパッと現れたティーカップへと注がれていく。
「このお茶は粘膜を……この世界に粘膜という知識はあるのかな? 分かりやすく言うと内臓を保護する効能があります。お腹が痛む時とか、喉が痛む時に飲むといいとされますよ。ストレスで胃が痛む時とかは特にいい」
「そ、そうですか」
勧められ、ひと口、口に含んでみると、思っていたよりも穏やかで癖のない味であった。
見た目は明るく透明なポーションだったので何となく気後れしていたので、意外な味だった。
「ちなみにレモンを……この世界ではシトリウムか。シトリウムの絞り汁をこうして垂らすとーー」
「まあ!」
シトリウムの雫が垂れた瞬間、瞬く間に紅茶の色がピンク色に変化する。
まるで魔法のようなその出来事に、私は思わず感嘆の声を上げてしまった。
「いかがですか?」
「このような紅茶は、初めて飲みましたわ」
「お気に召したのなら幸いです」
そう言って、彼もまた紅茶に口を付けた。
闇色の髪と闇色の瞳を持つ、不思議な雰囲気を持つ青年は何を考えているのか読めない、薄い笑みをその顔に貼りつけて見せた。
「さて、アイスブレイクはこの位としますか。本日はどのようなご用件でこちらに?」
その言葉で、ふと我に返った。
今日私が来たのは、心の重荷となっている恋心を……
「こちらでは、どのような薬でも作ることができると聞きました」
「薬ですか。どのような、はいささか誇張が過ぎると思いますが、どのような薬がご入用ですか」
「私が必要としているのは……、……」
その言葉に答えようとして、喉が詰まる感覚を覚えた。
言えなかった。
ここまで出掛かっているのに、最後の言葉が出ない。
言ってしまったら、全てが終わってしまいそうな錯覚に囚われ、自らの意識が湖の奥底へと沈んでいるような妄想に捕えられーー
「何かを忘れたいんですか?」
「……」
探るような声色の彼に対し、言葉を紡ぐ事が出来ず、私は頷いた。
「トラウマ? それとも恨み? 喜び? 怒り? 狂気? 悲しみ? 楽しみ? ……今、喜びと悲しみ、楽しみと言う言葉に反応しましたね。瞳孔が僅かに揺らぎました。さて、喜びと悲しみ、楽しみが共存する物となると……」
暫し考え込むような仕草ののち、不意に闇色の瞳がこちらを射抜く。
「恋情。あるいは、愛情」
「……こっ、婚っ、や、く者への……あ、あっ、愛情をーー」
一際強い痛みが胸をほとばしる。
その痛みに、思わず私は涙を流した。
「なるほど。婚約者への恋心を、愛情を、消し去りたいと」
「は、い……」
「相当重症ですね」
彼が片手を掲げると、その美しく伸びた指先で彼は何かを摘むような仕草をした。
「恋心を消す薬です」
空中に出現した小瓶には、無色透明の液体が詰まっていた。
「これが……」
「ただし、消せるのは現在持っている、現在進行形の恋心だけ」
ーー過去の恋心やこの先に起きるかもしれない恋心には無意味です。今まで恋していたという記憶は残りますし、飲む瞬間まで恋焦がれていたという記憶やそれに対する懐古心などはその後も残ります。
そう、彼は言った。
「ただ、今恋心を持っている相手に対しては未来永劫、恋することが無くなるだけ。我ながら何とも都合のいい薬ですね?」
読めない表情でニコリと笑う彼から、私は震える手でその小瓶を受け取った。
「代価は?」
「いらないですよ。ああ、せっかくですからこのお茶の葉もセットでお付けしましょう。この薬は微妙に酸味があるので、それこそシトリウムの汁かなんかと混ぜて飲んでしまうといいですよ」
「え?」
思わぬ発言に、私は思わず目を丸めた。
「面白そうですからね」
そう言って、彼は意味深に笑った。
「私はどうも昔から人の心を理解し寄り添うと言うことが苦手でして。恋などと言う酔狂が邪魔なのであれば、その様な物は消すべきかと愚考しますが」
ニヤリと彼が笑みを浮かべた瞬間、小屋が、彼が、全てが真っ黒に塗りつぶされた。
突然の魔力の反応に思わず飛び上がった私が慌てて後ろに下がると、草が私の靴をくすぐる感触がした。
何が起きているのか理解しようとしている間に、黒色が徐々に茶色や緑色に変化していく。
気がつけば私は深い森の中に立っていた。小屋が忽然と姿を消しており、また深いきりが立ち込めていたはずなのにそれも晴れてしまっていたのだった。
◇
帰宅後。
私は薬を屋敷の自室にある机の引き出しへしまって、そのまま悶々とする日々を過ごしていた。
白昼夢のようなあの時の思いが頭をよぎる。
あの後周囲を見回しても、小屋自体がまるで初めからそこには存在していなかったかのように忽然とその姿を消してしまい、果たしてこれは現実だったのか、分からずにいた。
ああ、そういえば森の魔女……いや森の青年にお礼も言えていなかったなどと思い出したのは、私のポーチの1番上に横たわっていた、無色透明の液体が詰まった小瓶がキラリと光った時だった。
しまっては出して、出してはしまって、しまっては出して。我ながら情けない。
「キャサリン様、まもなくフラウス殿下が到着されます」
侍女のアンシラのその言葉に、はっと意識が現実へと戻る。
そうだった。今日は婚約者とのお茶会だった。
あれから何回かお茶会は開かれたが、全て王宮で開催されていたため、常に聖女メルトリクスも同席する、なんとも言えない茶会だった。
そこで思い切ってこちらの家で開催の連絡を入れればもしかしたら、と言う淡い期待を抱いたものの、馬車から現れたのはフラウス殿下と聖女メルトリクスであった。
「わあ、凄く立派なお屋敷ですね!」
「だろう? 流石はこの国きっての侯爵家と言うべきか」
またしても聖女が同伴しているという事実に、私の胸が軋むような音がした気がした。
気がつけば、私はそっとポーチの中にある小瓶を握りしめ、深呼吸をしていた。
端的に言うと、今までは飲む勇気が出なかった。
これを飲めば楽になる。それは頭ではわかっている。
だが同時に、これを飲んでしまえば、私がフラウス殿下を愛した日々も終焉を迎えることとなる。そうしたら私は、これから一体何のために生きるのだろうか。
政略結婚だからと割り切って、公務に明け暮れるのだろうか。この痛みと別れることができれば、せいせいするのだろうか。
今もフラウス殿下は聖女メルと楽しそうに談笑されている。私には見せたことの無い、自然体の笑顔でだ。
それが、寂しかった。
私には決してその笑顔が向かないという寂しさと、その寂しささえもが愛おしいと思えるような苦しさが私の中で天秤にかけられ、不安定に揺れていた。
「キャス様、なんか疲れてます?」
「えっ?」
悶々と内心揺れているのを淑女の仮面で覆い隠していたはずが、この女は鋭い。
今もいつの間にかこちらを覗き込んでおり、上目遣いにこちらを覗くその目には悪意や害意は一切無かった。
ああ。
せめてこの人が、悪人だったなら。
私も容赦なく排除できたのに。
「あっ、また目の隈が深くなってる〜。ちょっとまってね」
「め、メルトリクス様? 何をーー」
「えいっ」
彼女は無遠慮に私に向けて手を翳すと、光の粒子がその手から放たれ、眩い光が部屋を満たす。
一瞬の閃光が止むと、キラキラとした癒しの魔法の残留物が空気に優しく溶けて行った。
「せ、聖女様……」
「どう? 多少は楽になった?」
2度ほど瞬きをして、ようやく何が起こったのかを私の頭が理解していく。
これはあれか。
まさか聖女に癒しの魔法を掛けられたか。
「……身体が、かなり楽になりました」
「うふふ、それなら良かった!」
「メル……君はやはり素晴らしいな……」
寝不足が祟ってあまり動いていなかった頭の中の歯車が、綺麗に手入れされ油を差されたかのように滑らかに回転を始める。
このような生活を続けていたら、潰れてしまうのは私だ。
もしも私が倒れてしまったら、この国の国政は立ち行かなくなる。
異世界人たちの世話はどうなる。誰が彼らとの繋ぎ役になる。
私が、私しか、異世界の言語を完全に理解している者が居ないのに。
「アンシラ」
そもそも私は何故殿下と婚約した。政治のためだ。この国のためだ。私個人の想いのためではない。私はこの人ではなく、この国と結婚するのだ。
「はい、お嬢様」
「私が先日手に入れたあのお茶をお出しして」
であれば、私の胸の内を静かに焼き尽くすこの想いは、無い方がいい。
「ですが……」
「いいのよ。殿下、実は私、先日とあるツテで異界の茶葉を入手したのです。これがまた魔法のように美しいお茶で……聖女様へのお礼も兼ねて、お出ししてもよろしいですか?」
「異界の茶だと? 面白そうじゃないか」
「異界のお茶って言うと、緑茶とか抹茶とか?」
「リョクチャもマッチャも以前聞いた事がありますわね。確か異界のニホンチャと言う部類のお茶でしたね。実は私がこれからお見せしたいのは紅茶なのですよ。アンシラ、用意して」
「……承知しました」
……皮肉にも、私の後押しをしてくれたのは、他ならぬ聖女だった。
「異界の、紅茶?」
「え、この世界にもダージリンとかアッサムとかはあるけど……紅茶??」
二人とも揃って、はて、と頭を傾げて見せた。殿下のその仕草が愛おしいと思うのも、これが最後なのだ。そう思うとなんだかおかしくて、私はくすくすと気がつけば久しぶりの笑みを浮かべていた。
「君が笑うとは、珍しい事もあるものだな」
「そうかも知れませんね。ふふっ」
そうしてアンシラが紅茶を用意してくれた。
茶葉はイージスという森の魔女ならぬ魔男から貰ったマロウブルー。
ティーカップへと注がれると、二人は目を見開いて見せた。
「ほう? 青い紅茶とは珍しいな」
「えっ、すごーい!」
鮮やかな青の液体に、二人は目を大きく見開く。
こんな殿下の顔を見るのは、いつ以来だろうか。
「飲みやすいな。優しい味がする」
「ほんのりと甘い香りがするね。えっ、これ本当に異界の紅茶? あっちの世界にこんな色の紅茶あったっけ……」
「驚くにはまだ早いですわ。実はここにシトリウムの絞り汁をこうして足すと……」
アンシラに用意させた、シトリウムの絞り汁を数滴、自分のカップに垂らす。
同時に、森の魔……青年から貰った薬を同じように、2人からは見えないようにカップに垂らす。
「えっえっこれヤバっ!? 魔法みたい!」
「いや、しかし魔力は特に感じなかったぞ!?」
鮮やかなピンク色に変化したカップを見せると、二人は興味津々とばかりに身を乗り出す。
「まるで魔法のようでしょう? これで魔法の存在しない異世界から齎された茶葉だと言うのですから、私も初めて見た時は驚きました」
「いやはや、異世界というのは本当に興味深いな」
あとは、このカップの紅茶を飲み干すだけ。
これを飲むだけで、私の中にある身を焼く炎は、一瞬で焼失する。それこそこのマロウブルーの色が変わった時のように。
……そう、思っていた時だった。
「ひと口ちょうだい!」
「はい? えっ、ちょっ、まっ──」
メルトリクスが身をズイっと乗り出し、私が今まさに手にしようとしていたカップを風の如く掻っ攫っていく。
そして、彼女の唇が、その鮮やかなピンク色の液体に触れた。
「わぁっ、美味しい! フラウス様もひと口……飲ん、で……」
満面の笑みでそう言って、私のカップを彼女は殿下に差し出す。
「ああ、頂こう」
「いや、まっ──」
しかしその目が、徐々に逆三日月形から丸く見開かれる形へと変わっていっていることに、殿下もまた気付かぬ間にそれを受け取り、残っていたお茶を飲み干してしまった。
あれは、火が一瞬で鎮火した目だ。
私は青ざめた。
咄嗟のことだったので反応できなかったとは言え、曲がりなりにも、私は。
殿下に、得体の知れない薬を盛った事になる。
「もっ……申し訳ありません!!」
血の気が引いた。
もしこれで万が一殿下の身に何かがあったら、私の命どころでは済まない。
私はすぐさまなりふり構わず、身を投げ出してその場で平伏した。
「お嬢様!?」
「なっ……どうしたんだ、一体!」
「えっ、ちょっ、何やってるの?」
「アンシラ! 直ちに医官をお呼びして! それから王宮への連絡も!!」
「お、お嬢様、一体何が──」
「薬を間違えて殿下が飲んでしまったの!」
「薬?」
殿下は不思議そうな顔をした。
「キャス様待って。ほら、私聖女だから。何かあれば殿下を癒すことぐらい訳ないんだから、落ち着いて!」
「え? ……あ」
そうメルトリクスに言われたところで、ようやく私は我に返った。
「で、薬とはなんだ? 今のところ特に私は問題ないが、何かあれば聖女殿が何とかしてくれる。案ずるな」
「そ、れは……」
殿下は、本気で分からないらしい。そしてそれは、聖女メルの方も同様だった。
ただ、二人は気付いているのだろうか。
二人のお互いへの呼び方が、敬称へと変わっていることを。
二人の言葉から、私は直ぐに薬が効いているのだと理解した。
「その……私、少し体調が芳しくなく、気付けも兼ねて新しく関係の出来た薬師から薬を貰って、茶葉にブレンドしていたのです。まだ効果のあるものかも分からなかったので、それをまさか殿下が飲んでしまうとは夢にも思っておらず……」
私が。
二人から、恋心を奪ってしまった。
「そ、そうか。それは迂闊な事をしてしまったな。すまない。顔を上げてくれ」
「私こそ申し訳ありません。私も気安く殿下にカップをそのまま勧めるべきではありませんでした。さあ、お立ちになってください」
そう言われて、ようやく私は顔を上げた。
二人はお互いに顔を見合せてから、私に手を伸ばして見せた。そこには、先程まであった熱量は微塵も残されていなかった。
薬を盛ってしまった罪悪感と、その場を取り繕うために適当な事を口走ったことに罪悪感は残りつつも、私はそのまま二人の手を借りて立ち上がった。
アンシラが一歩控えた所から、疑惑の目をありありとこちらへと向けている。
これは後で怒られそうだ。
◇
「あ、キャス様だ」
翌日。
孤児院の慰問の予定が入っていたので、領内の孤児院へと向かったところ、なんとそこには聖女メルトリクスがいた。
「せ、聖女様、どうしてこのような所に……」
「いや、その……一言謝っておこうと思って……」
「謝る?」
むしろ結果的に薬を盛ったことになってしまったことで、こちらが謝ることはあれども、この聖女から私に謝罪されるようなことって……
「いや、私さ、正直ぶっちゃけで言うとフラウス殿下に憧れてたって言うか、割と好意を持っていて、婚約者にヴェレク侯爵令嬢がいることも分かった上で今まで近寄ってた節があったんだけど……」
おっと。
そう来たか。
内心身構えた私をよそに、彼女は言葉を続けた。
「なんか、昨日の件で、婚約者同士のお茶会に横入りしてたのあまりにも図々し過ぎるなって改めて思い返して……」
どことなく居心地が悪そうに彼女はモゾモゾと動いて見せた。
「それに、私が渡したカップをそのまま手に取って飲んでるのを見てたら、なんか不用心だな〜これにもし毒が盛られてて私がどっかのスパイならイチコロじゃんとか思ってたら急になんか目が醒めて……これが蛙化現象って言うんですかね? って考えてたらよくよく思うと身分差とかもヤバいし、今まで相当失礼な事ばかりしていたなってふっと我に返って、その……」
一瞬の間があった。
「ごめんなさい」
彼女は真っ直ぐ、頭を下げて見せた。
「私の事を、罰すると言うのなら、甘んじて従います。ただ、出来れば私の命だけはご容赦ください。図々しいですが、私は聖女として、まだ辛い状況に置かれている人たちを癒したい。それこそ、この身が滅ぶその時まで」
聖女メルトリクスが泣きそうな顔で半ば叫ぶ。
それに対して、私は掛ける言葉を考えていた。
初めは悔しかった。
平民の女に殿下が心を寄せていた事が悔しかった。聖女だからと無理やり納得しようとしたが、今度は私の心が持たなかった。だから私は薬に手を出した。
それを、どういう訳か彼女が飲んでしまった。
これで姦通していたとか、この子の性格が最悪だとか、そういう分かりやすい物があったなら、私は躊躇なくこの子を叩き潰していただろう。
だが、私はどこかでこの子の根にあるものは善性の物だと分かっていたので、そこまで非情にはならなかった。
……なれなかった。
「お顔を上げてください、聖女様」
そういうと、彼女はハッとした様子で顔を上げた。
「誰しも夢を見るものです」
彼女の場合、その夢は王子様と結婚して、幸せな人生を送ることだったのだろう。
ただ、彼女の場合彼女はその夢から──主に私のせい……いや、でも私のカップから勝手に飲んだのは彼女だけど──まあなんせ、たまたま醒める事が出来たというだけのこと。
「……」
「もし夢から醒めても、その時はまた別の夢を見ることができます」
「……」
「私が貴方を罰するだなんて、とんでもない。貴方はこの世になくてはならない存在。貴方がいなければ、今夜夢を見ることなくお星様になってしまうような人が大勢います。皆が安心して夢を見れるよう、これからも聖女としての務めを果たしてください。そして貴方も、夢をまた見てください」
「……ヴェレク侯爵令嬢、様……」
そういう彼女の目は、今にも泣きそうだった。
まさか私の薬でこんな事になるとはそれこそ夢にも思ってなかったし寝覚めが悪いから適当に口からついて出た言葉をそれっぽく言ってみたら、なんか感動されてしまった。
とはおくびにも出さずに柔らかい淑女の笑みを浮かべると、彼女は鼻をすすりながら服の袖で目元を拭ってみせた。
「ありがとうございますっ!! これからも精進します!!」
◇
「こうして見ると、二人だけの茶会は久しぶりかも知れないな」
「……そうですね」
更に後日。
私は王宮に呼び出されていた。
名目は婚約者との交流を図るための茶会だ。
「キャス」
「はい」
「私は君に謝らなければならない」
あくまでも冷静な声でそういうと、フラウス殿下は深く頭を下げた。
この国の王子が。私にだ。
「殿下!?」
「私は君に、酷いことをした」
その言葉に、私の胸が痛む。
一方の殿下は、苦い表情で言葉を続けた。
「私は君との約束を破り続け、婚約者として扱う事をしなかった。なぜあんなことをしていたのか、自分でも理解できない。本当に突然目が覚めたんだ。まるで……我でも失っていたかのような……」
そういう彼の声は、まだ夢から醒めていないような、消え行くような曖昧な声だった。
しかし私が恋心だけを奪った結果、彼は客観的に過去を見られるようになったのだ。
「許してほしいとは言わない」
沈黙の後、彼は真っ直ぐ私を見つめた。
「……」
「私は君の信頼を損ない、その心を大いに傷付けた。そこに弁明の余地はない。もし君が婚約解消を望むなら、王家の有責で破棄して貰って構わない。もし、私にもう一度機会を、与えてくれるのなら……その時は、君に、誠心誠意尽くすと誓う」
彼の視線が私の視線と交わり、互いの目を射抜く。
「もちろん、直ぐに返事をして欲しいとは言わない。もし決心がついたらまた言って欲しい。この度は本当に、申し訳なかった」
彼に対して思うことは色々とある。
こうして私に一定の誠意を見せてくれた事への安堵感とか。恋心が消えたということは、好いていたのは私ではなくやはり彼女だったのだと言う落胆とか。結果的にいい方向に転がったとはいえ、殿下に間違えて薬を飲ませてしまった罪悪感とか。
だけれども、ハッキリと良かったと思ったことが一つだけあった。
それはようやく。
本当に、ようやく。
彼はこちらを見てくれた事だ。
聖女ではなく、この私を。
「なるほどね」
王宮からの帰り道、馬車に乗り込むと唐突に声がした。
見れば御者席にいたのは、あの時の森の青年。
「自分が飲むのかと思いきや相手に飲ませるとは、考えましたねえ」
「ち、違います! あれは本当に事故みたいな物で……」
「ふふふ、毒味係の首は飛びましたか?」
「笑い事ではありません!! あと飛んでません。本当に事故みたいなものでしたので……」
「でも面白かったでしょう?」
そうケラケラと笑う彼は、とても愉快だと表情で語っていた。
私は……面白く感じたのだろうか。
……少しだけ、面白いと思ったかも知れない。
「薬の効果は戻せますか?」
私が尋ねると、彼は首を振った。
「無理ですね。未来永劫聖女も、王子様も、互いを異性として見ることは無いでしょう」
「そうですか」
「でもそこは別に問題ではないでしょう? 問題は、本来飲むべきだった人の心が、そのまま手付かずな所では?」
「……」
その言葉に、私は答えられなかった。
「貴方はまだ王子様の事を好いている。違いますか」
その言葉に私は目を伏せた。
「……ええ」
「諦めるもよし、改めてアプローチするもよし、愛想を尽かして見捨てるもよし、あるいは、引け目に付け込んで支配してもよし」
「し、支配って……」
彼は微笑む。
「幸い、彼の恋心は聖女に対してのみ永久に失われているが、他の女性に対してはそうでは無い」
「……」
「だから、今度は貴方自身に惚れさせる、という選択肢もある」
◇
それから数か月。
あれからフラウス殿下は変わった。
聖女との噂は完全に消え、以前のような陰口なども完全に消えてしまった。
彼は誠実に公務へ取り組み、私にも丁寧に接した。
聖女は聖女で、今は辺境伯領などの遠方地の慰問に力を注いでおり、暫く王都で見ていない。
では、私たちの交流は恋人同士のそれなのかと聞かれたら、それは違うと明確に言える。
確かにお互い婚約者ではある。
しかし、どちらかと言うと友人のような距離感だった。
私も、彼も、どこかで線を引いてしまっており、付かず離れずで過ごしていたからだろう。
正直、少し寂しい。
けれども、以前よりはずっと心地よい。
息の詰まりそうな緊張感や悪意がないと言うだけで、こんなにも呼吸が楽になるとは思いもしなかった。
そんなある日、王宮の庭園を二人で歩いていると、不意に殿下が立ち止まった。
「キャス」
「何でしょう」
「最近気付いたことがあるんだが」
彼は珍しく緊張している様子だった。
「君といると、落ち着く」
予想していなかったその言葉に、私の心臓が跳ねた。
「思えば、君は昔からそうだったな」
「殿下……」
思わずそう言ったところ、彼は苦笑いした。
「つくづく思う。私は愚かだったなと。もっと早く気付くべきだったな」
そして彼は真っ直ぐ私を見た。
「今の私は君を愛しているとは言えない」
その言葉に、改めて私の胸が痛んだ。だが次の言葉が続いた。
「だが愛したいと思っている」
私は思わず息を呑んだ。
「もう一度、最初からやり直してくれないか?」
求婚にも似た言葉だった。
恋を忘れる薬は確かに間違いなく効いた。
誰かに執着し、現実を見失うような恋。
それを私が取り上げた結果、彼に残ったのは誠実さだったのだ。
だから、私は──
こういうプロットの物って有りそうでないなぁって思ってたらまた描いてました。
無ければ自分で作って自己供給するか……シリーズです。




