第60話 ESCAPE
佐那は目を覚ました。
そこには廬が心配そうな顔をしている。
「なんて顔しているの?」
「心配くらいさせてくれても良いだろ」
佐那が起き上がると聡が「人魚姫」と心配な声を漏らした。
大丈夫だと笑うが、その言葉を信じていないようで表情は変わらない。
廬が此処に居るという事は、と佐那は廬を見て尋ねた。
「先生は?」
「……悪い」
「っ! ……そう」
佐那は立ち上がり硝子の向こう側を見る。誰も入る事が出来なかった壁の向こう。触れる事の出来ない友人の姿は何処にもなかった。残っているのは煤のような粉。
「一度くらい。誰かの腕の中で眠らせてあげたかった。海良さんの夢だったのに」
誰にも触れられないのなら最後、死ぬときくらいは誰かの腕の中で眠りたいと言っていた。それが叶わないのは知っていたのだ。
だから気丈に振る舞っていた。
毒が相手の身体を蝕んでしまうと知っているから、何も望まないふりをした。
「あたしは誰も守れないのかな」
瑠美奈のように鬼の力があるわけでも、憐のように全てを化かす事も出来ない。儡のように真意を読み取ることも出来ない。双子のように臨機応変に行動できるわけでもない。
それは純正の新生物じゃない。一生半人前でどれだけ頑張っても追いつけない。挙句に救える命があったかもしれないに何も出来ない。
「出来なかった事を考えるのはやめろ」
「っ……」
「これから出来る事を考えろ。不特定多数を守ろうと思うな。誰か一人を守るつもりでいろ」
「そんな……じゃあ他の人は? 放っておくの?」
「俺たちにその膂力はない。俺は瑠美奈を守りたい。瑠美奈を死なせたくない。たとえ、瑠美奈の親を殺してでも生かす」
華之は死んでしまった。瑠美奈に会う事なく、研究所の所長としてその生を終えた。
妖狐はその後、姿を消した。自由を謳歌するのか息子を探しに行ったのか。
廬は佐那が意識を取り戻すまでに海良の部屋のエレベーターで地上に上がり華之の遺体を筥宮の病院に運ぶように佐那のマネージャーに無理を言った。
もっともマネージャーの方も研究所の関係者であることは事前に知っていた為、深くは追及されなかった。今頃、高速道路を走っている頃だろう。
襲撃者もいつの間にか消えていた。華之を殺せたから満足したのか。黒の宝玉を回収するのが目的だったから引き上げたのか。主犯格が誰だったのか分からずじまい。挙句に廬は自分によく似た男の事を調査する羽目になった。
瑠美奈の事で手一杯だと言うのに余計な事ばかりで頭の中が爆発寸前だ。
廬はこの後、筥宮に戻る。佐那はどうするのか尋ねた。
「研究所を守る。研究所の所長をする。まだ知識だって先生みたいに豊富じゃない……だけどっ! あたしにだって出来る事はあるから。まだ幼い新生物の子がいる。その子たちを導く」
聡が「俺も手伝っちゃうよ!」とちゃっかり佐那の腕を組む。
「悪いけど、僕は手伝わないよ」
「は? なに空気読めない君?」
さとるが佐那の手伝いは出来ないと首を振ると聡は予想していなかったようで不服そうな顔をする。
「僕たちが一緒にいる理由ってない。聡は水穏さんと一緒に研究所を修復して言ってよ。僕は僕で調べたい事があるんだ」
「調べたいこと?」
「うん。この研究所を襲撃した人達の事を調べたいんだ。もしかしたらまた襲撃してくるかもしれない」
「それなら俺と一緒に来るか? もしかしたら何か関係があるかもしれない。襲撃者の一人にも遭遇している」
「本当ですか!」
廬も自分と似た男の事を調べる為、さとるの言い分は有難かった。一人で調べるには方法が少ない為、さとるが来てくれるのは百人力だった。
「まあ、廬の兄ちゃんが一緒ならいいか。怪我だけはするなよ」
「優しいんだな」
「そうじゃない。俺とさとるは肉体共有が後遺症なの」
「肉体共有?」
それはどう言う事なのか首を傾げる。
周藤兄弟はドッペルゲンガーの子供。
聡が指を切れば、さとるにも同じ傷が出来る。
原因不明の怪我は、どちらかが原因だ。だから極力一緒にいる。
一緒に居られないのなら原因不明の怪我は死を齎す。
原因不明で気が付いたら心臓が止まっているなんて冗談じゃないと聡は注意したのだ。
「大丈夫。危なくなったら逃げるよ。それで良いですよね?」
「ああ、構わない。俺だって逃げる」
ダメなんて言うわけがない。逃げられるのなら逃げるべきだ。
廬はそれで怒ったりしない。寧ろよくやった。よく逃げる選択をしたと褒めるだろう。
各々のするべき事を確立させたが一つだけ問題があった。
それは佐那が研究所の所長代理をするに当たって異論を唱える新生物が多い事だ。
廬は筥宮に戻る前に研究所のホールに生存者を集めるように言った。
集め終えて佐那が次期所長として勉強をしていくことを言うと当然のように新生物たちが異論を唱えた。
「ふざけんな!」
「先生の代理なんて半人前に務まるわけがないだろ!」
「そうだ! 先生はどこだ!」
話を聞こうとしない新生物。代理で次期所長なんて言い出したら当然許さない。
尻込みしてしまう佐那を聡は何か言わなければと声を出そうとするが、何も言葉が出てこなかった。そんな姿を見た廬は言った。
「鬼頭華之は死んだ。襲撃者によって殺された。俺が彼女を看取り、その際に遺言を受け取った。水穏佐那は次期御代志研究所の所長だ。これに異論がある者は即刻研究所から出て行け。研究所の保護なしで生きていけるほど外の世界は優しくない」
廬は新生物に嫌われたって構わなかった。
廬が言うと新生物は言葉を飲み込んだがすぐに「ふざけるな」「新入りの癖に」「勝手な事を言わないで」と口々に文句を言った。研究者は何か言いたそうにしていたが新生物のご機嫌窺いをしている。研究所内で生きづらいのは研究者の方なのかもしれない。
「それなら、君たちは次期所長に反発した罪で追放されて現実を受け入れたまえよ。今まで君たち自身が守られている事に気が付けるはずだ」
聞こえて来た声。ホールの様子をずっと見ていたのか。
それとも今、丁度良くやって来たのか。
声の主は、糸垂綿葉だった。
「ッ!? なんであんたが生きてるのよ」
「生きていちゃいけないのかい? 酷い言われようだ。私ほど君たちの事を親身になっている先輩もいないと思うけどね〜」
女性の新生物が訴えると綿葉はヘラヘラと笑いながらに言った言葉に廬は「やっぱりか」と内心に抱いていた解を肯定する。
何でも知っている。不自然なほどに知っている。それはきっと棉葉も新生物だったからだ。
「私の事に気がつけたのは君が初めてだぜ? 廬君」
棉葉の視線の先には佐那の横に立る廬だった。
約一か月ぶりの再会に棉葉は喜びを示すように両手を広げた。
「もっとも初対面に限る事だけどね!」
A型の新生物。糸垂棉葉。生き残りの一人だ。
研究所内で棉葉を知る新生物たちが罵詈雑言を棉葉に浴びせかける。
その言葉すら聞こえていないように棉葉は廬を見つめている。
「私をご所望のようだけど、私が君に協力する利益を教えてくれるかい?」
「協力?」
佐那がどういう事なのか首を傾げる。
佐那は棉葉が来ることを知らなかったのだ。廬だって運任せだった。
来なければ自分が悪役となり全てを引き受けるつもりだった。
「名誉挽回だ」
A型は失敗作として処分された。今ここに現れる事で棉葉自身、危険に身を置いている。棉葉にとって、それは、この上ない面白さを持っていた。
研究所に一人で来るのは正直面倒な事に変わりなかったが研究所に廬がいるのなら話は別だ。棉葉にとって廬は面白い事製造機と言ってもよかった。面倒な事に巻き込まれるのは万々歳だ。
「何でも知っているんだろ。なら佐那を助けてくれ」
「私が裏切ると言う選択肢はないわけだ」
「ない。お前は勝算のない事はしないはずだ」
『私は命の危険という冒険は好きだけど、勝算しかないことはしない主義なのさ』
それはかつて棉葉本人が言った事だった。
命は軽んじている。確実に死ぬ道は進む気がない。
日々誰かに命を狙われる恐怖を感じながら研究所を支えるのは棉葉にとって最高の感覚なのではないのか。
それに棉葉は全てを知っていたとしても対抗の術を持っているわけじゃない。
「安心したまえよ。研究所にもう襲撃者は来ない。勿論、一年ほどの情報でしかない。その先の事なんて誰も興味ないだろうからね~。一年でさえ人は忘れているものだ」