「たまにはスープも作ってね」
――雫。ごめんね。どうか、あの人を――。
「助けてあげて、か…」
「うん?」
李玖が洗った茶碗類を拭きあげている最中である。祖父はテーブルに座って緑茶を飲みながら新聞を読み、沙羅は相変わらずクッションで丸くなっている。
ホテル本郷の代表交代が発表されて数週間、日本はそろそろ年末に向けて慌ただしくなってきているところだ。一雨ごとに寒くなるこの季節、今日も外は雨が降っている。
「んー。なんでもない」
「今日も病院で忠人さんに会ったんでしょ。なんか話した?」
「別に、なんにも。今更、距離の取り方も分からないしね」
「…そっか」
大学や本屋でのアルバイトの合間に病院へ行く生活は変わっていない。ただ、病院へ行くとほぼ必ず忠人に会うようになった。
母親はいまだ、虚空を見つめたままだが。
「返事をね、したんですって。「うん」って、それだけだったらしいけど」
忠人が、ゼリーでも食うかと聞いた。それに答えた。それだけだが。
みかんゼリーは、母親の好物だ。
「それ、忠人さんから聞いたの?」
「まさか。李玖の伯父さんからよ」
「そっか」
李玖の伯父は、山からたまに出てきては母親の傍にいるようになった。忠人と少しの会話もするらしい。
「伯父さんは大人よね。忠人の謝罪を受け入れるなんて」
「まあ、実際にいい年してるからねぇ」
「なによ。あたしが子どもだって言いたいの?」
「いやいや。ははは」
「どうせまだ子どもですよ」
ふん、と雫はそっぽを向く。
「あー…。ほら、伯父さんには贖罪の意思もあると思うよ」
「伯父さんが謝ることでもないでしょうよ」
分家の人間は、薫をはじめとした全員が身のこなしが良すぎた。それは、李玖の実家である黒峰家の人間が武術を教えたかららしい。
「黒峰家の人たちだって、別にあたしを困らせようとしたわけじゃないし。分家の奴らにほとんど泣き落とされたようなもんだったんでしょ?」
「まあ、そうだけどさ」
「伯父さんは山に籠っててなにも知らなかったんだもの。そうじゃなくても謝る必要なんてないわよ」
「本人に言ってやってよ」
「言ったわよ。で、そうは言われましてもって言われたわ。これ以上なにを言っても無駄でしょうね。お母さんが言ったらなにか変わるかもしれないけど」
「そっか。分家の人たちは、元気かな」
「知ったことじゃない」
忠人から土地を返された分家の面々は、忠人がリコールを受け入れたことで賠償金の額を減じたらしい。興味が無かったので詳しくは聞かなかったが、雫のあずかり知らないところで再興するためがんばっているのだろう。友恵には二度と顔を見せるなとは言っておいたが、図々しいあの女のことだ、どうなるか分からない。
薫に関しても、どうなったのかよく知らない。
薫が誰の願いを叶えたかったのか、なにを思って武術を学んだのか、彼女は頑として口を開かなかった。
「まあでも、あいつも自分で言っていたけど、願い事なんて本来自分で叶えるものよ。他人の記憶と引き換えに叶えてもらおうなんて、甘えてるにも程があるわ」
「そうだねぇ。あ、そういえば聞きたいことがあったんだけど」
「なに?」
「本郷家で、薫さんに言ってたよね。詞師が持っているのは術と沙羅だけじゃないって」
「ああ。言ったっけ。そんなことも」
「あれってどういう意味? ほかになにを持ってるの? ハッタリの才能ってわけじゃないでしょ」
「んなわけないでしょ」
一呼吸おいてから、雫は答えた。
「李玖よ」
「おれ?」
詞師が持つもの。術、沙羅、そして専任護衛だ。
「あたしは、あたしのものを何一つ渡す気はないもの。術も沙羅も李玖もあたしのものよ」
きょとんとして雫を見る李玖。やがて彼は、ふんわりと笑った。
「そっか」
「そうよ。なにその気持ち悪い顔は」
「いやー、へへへ。おれ、雫の為に一生味噌汁作るよ」
「…たまにはスープも作ってね」
いいからお前らもう結婚してしまえ。
誰がそう思ったのかはともかく、祖父は新聞から顔を上げなかったし、沙羅はクッションで丸くなったままだった。
十一月の雨が、外で優しい音を立てていた。




