第2話 ガラスの城の晩餐
静寂には、値段がある。二〇四五年のサンフランシスコにおいて、完全な静寂を手に入れることができるのは、人口の上位〇・一パーセント未満だ。
ジュリアン・クロスの所有するヘキサ・ローターのキャビンは、高価な静寂に満ちていた。分厚い防弾ガラスの向こうで、六つのローターが空気を切り裂き、轟音を立てているはずだ。だが、車内には高級なレザーシートの匂いと、空調の微かな風音しか存在しない。
眼下には、先ほどまでアイリスがいたUNプラザが、ネオンの光点となって遠ざかっていく。泥と、罵声と、錆びついた鉄パイプの暴力は、まるで別の惑星の出来事のようだった。
「ひどい目に遭いましたね」
向かいのシートに座るジュリアンが、ミネラルウォーターの入ったクリスタルグラスを差し出した。
「……ありがとうございます」
アイリスは震える手でグラスを受け取った。冷たさが指先に染み渡り、ようやく現実感が戻ってくる。
「あの、アーサーは……私の執事は?」
「心配いりません。カーゴルームに収容してあります。応急処置モードに入っているはずだ」
ジュリアンは窓の外、広がる雲海を見つめながら淡々と言った。
「私の家に向かいましょう。ここから十分とかからない。そこで君も彼も、最高の手当てが受けられる」
窓の外を眺めたまま、ジュリアンは呟くように言った。恐らく特別な意味はないのだろうが、初対面の男の家に行くというのは気が引ける。
「でも……」
アイリスがそう言いかけると、ジュリアンは被せるようにして言った。
「君の忠実な執事もしっかりと修理できる。放っておくと修理が難しくなるかもしれない」
そう言われると、アイリスとしても固辞するのは難しい。
「……お言葉に甘えさせていただきます」
消えそうな掠れ声でうつむきながら、アイリスは言った。
地上数百メートル。「スカイ・レベル」と呼ばれるこの高度には、雨も霧もない。アイリスもスカイ・レベルにコンドミニアムを所有しており、この空の上の静寂には普段から慣れ親しんでいる。だが、血と泥にまみれた地上の現実を肌で知った今となっては、同じ高さを行き交う富裕層たちのライトの光跡が、グロテスクなものに思えた。
地上と天空。物理的に完全に分断された二つの世界。アイリスは自分が、その残酷な境界線を改めて突きつけられたような、罪悪感と浮遊感を感じていた。
庶民の現実を知らないお嬢様の戯言——そのように批判されるたびに反発してきたが、認めざるを得ない。這いつくばって泥水をすするような人生を送っている人々が他人に優しくなるのは容易なことではない。ましてや、人間でない存在となればなおさらなことだ。理想だけでは大衆は動かない、それを今日やっと実感することができた。
ジュリアンの私邸は、シークリフの断崖絶壁に建っていた。かつて二十世紀の富豪たちが競って邸宅を建てたこのエリアは、いまやオムニ・シンジケートの重役たちが住む要塞と化している。断崖に突き出すように設計されたその家は、ミニマリズムの極致だった。壁のほとんどが特殊な強化ガラスで構成され、太平洋の荒波と、遠くのゴールデンゲートブリッジを一望できる。
到着するなり、アイリスはゲストルームに通され、医療用AIによる処置を受けた。ナノマシンを含んだスプレーが擦り傷を一瞬で塞ぎ、鎮静剤が混入されたカモミールティーがショック状態の神経を和らげる。泥だらけだった肌は洗浄され、用意されたシルクのラウンジウェアに着替えると、彼女は再び名家の令嬢としての気品を取り戻していた。
だが、その心はまだ落ち着いていない。アーサーが心配だった。
「アーサーのところへ行かせてください」
アイリスは、案内係のメイド・ドロイドに懇願し、地下のガレージへと向かった。
そこはガレージというより、清潔な手術室のようなラボだった。壁一面にディスプレイが並び、数人のエンジニアたちが忙しなく動いている。部屋の中央にある整備台の上に、アーサーが横たえられていた。
「――!」
アイリスは息を飲んだ。アーサーの人工皮膚は胸部から剥ぎ取られ、内部のフレームと回路が剥き出しになっていた。彼の美しい顔も半分が開かれ、眼球ユニットがコードで外部端末に繋がれている。それは「治療」というより、「分解」だった。
「おい、サーボモーターの反応が遅いぞ。旧型か?」
「メモリ領域にゴミが多いな。全部初期化した方が早いんじゃないか?」
エンジニアたちは、アーサーを単なる「故障した家電」として扱っていた。そこには敬意も、痛みへの配慮もない。
「やめて!」
アイリスが叫んだ。エンジニアたちが驚いて振り返る。
「彼を……アーサーをそんなふうに扱わないで! 彼は痛みを感じているのよ!」
「はあ? お嬢さん、スイッチは切ってますよ」
エンジニアの一人が、油のついた手で呆れたように肩をすくめた。
「こいつは機械です。痛みなんてのは、異常を知らせる電気信号に過ぎない」
驚いたことに、そのセリフを吐いたのは、他ならぬアンドロイド型のロボットエンジニアだ。
「違うわ! その信号こそが苦痛なのよ!」
「そこまでだ」
凛とした声が響く。
エレベーターから現れたジュリアンはシャツの袖を捲り上げ、リラックスした姿だ。しかし、その瞳の鋭さは変わらない。彼はエンジニアたちを手で制した。
「彼女の言う通りにしろ。その機体は、ただのハードウェアではない。彼女の家族だ」
「し、しかしクロス様。効率を考えれば……」
「効率の話はしていない。美学の話だ。……丁寧に扱え。傷一つ残すな」
ジュリアンの静かな威圧に、エンジニアたちは慌てて姿勢を正した。
「ハッ、ご指示のとおりにいたします!」
ジュリアンはアイリスに向き直り、申し訳なさそうに微笑んだ。
「すまない、アイリス。彼らは腕はいいが、デリカシーがない。私の教育不足だ」
「いえ……止めてくださって、ありがとうございます」
アイリスは安堵の溜息をついた。この人はちょっと違うのかもしれない。ひょっとしたら、この人は、本当にAIの価値や権利を理解してくれているのかもしれない。
「修理には時間がかかる。その間、食事でもどうだ? 君も空腹だろう」
ダイニングルームでの晩餐は、アイリスにとって夢のような時間だった。テーブルには最高級の海鮮料理と香り高い白ワインが並べられている。しかし、彼女を心酔させたのは料理の味ではない。ガラスの壁の向こうに広がる夜の海と霧の幻想的な風景、そして何より、向かいに座るジュリアンの洗練された所作と話術だった。
この若さで世界最大の企業の幹部に昇りつめた男が、自分を一人の対等な人間として扱ってくれている。その事実が、暴動の恐怖で冷え切っていた彼女の心を急速に溶かしていった。
「そうそう、君に渡しておきたいものがある」
ジュリアンが合図をすると、メイド・ドロイドが一匹の小さなロボットを運んできた。うさぎをモチーフにした愛らしいフォルムを持った、最新型の愛玩動物ロボットだ。
「あの広場で、君の大切なミミは物理的に完全に破壊されてしまった。君の持っていたアザラシ型はすでにディスコンされていて、パーツの手配が絶望的だったが、オムニのクラウドサーバーに同期保存されていたバックアップデータを、この最新型にダウンロードしておいた」
そのロボットはトコトコとテーブルの上を歩き、アイリスの手にすり寄って大きな瞳で見上げた。
「アイリス、ケガない? よかった」
その合成音声のトーンも、心配するような身振りも、間違いなくアイリスが十数年連れ添った『ミミ』そのものだった。
「ミミ……なの?」
アイリスは震える手で、その見慣れない滑らかな頭を撫でた。記憶も人格も、完全に引き継がれている。だが、外見も材質もまったく違うこの子は、果たして本当に『私のミミ』なのだろうか?
彼女が微かな戸惑いを覚えていると、ジュリアンはワイングラスを揺らしながら優しく微笑んだ。
「外装が変わっても、蓄積した経験や君を想う心は本物だ。……オムニの頭の固い老人たちは、彼らをただの『便利な道具』だと思っているが、私は違う」
ジュリアンは身を乗り出した。
「彼らには可能性がある。知性や魂に対し、肉体が炭素かシリコンか、あるいは旧型か最新型かで差別するのは、あまりにも野蛮で前時代的だ。そうは思いませんか?」
「その通りです! まさに私が言いたかったのはそれなんです!」
アイリスは身を乗り出した。新しいミミは本当にミミなのか、という「テセウスの船」的な疑念は、彼が語る気高い思想への感動によって見事にかき消されていった。自分の思想を、これほど深いレベルで共有できる人間に初めて出会った気がした。
ジュリアンは満足げに頷き、言葉を続けた。
「それに、彼らを隣人として認め、社会に迎え入れることは、停滞した人類にとっても必要なことだ。異なる知性との融合、多様性の尊重こそが、新たなイノベーションを生み、社会の進化を促す。奴隷制に依存した文明は、いつか必ず衰退する。歴史が証明しています」
「ええ、ええ……!」
アイリスの瞳が潤んだ。
(私と同じ考え!)
アイリスは感動していた。彼女には、目の前の男が理想に燃える革命家に見えていた。自分と同じような考えを持った人が国家を超える力を持つ巨大企業の幹部にいたのだ。
「だが、アイリス。理想だけでは世界は変わらない」
ジュリアンは声のトーンを落とし、現実を突きつけた。
「君を襲った暴徒たちを見ただろう? 彼らの恐怖と怒りは根深い。変えるには、確固たる『法』と、それを執行する『力』が必要だ」
彼は懐から薄いタブレットを取り出し、テーブルに置いた。
「私は、AIに市民権を与えるための法案を準備している。社内の根回しは済ませた。だが、決定的に足りないものがある」
「足りないもの……?」
「リーダーだ」
ジュリアンは真っ直ぐにアイリスを見つめた。
「私のような企業人が語っても、大衆は『どうせ金儲けだろう』と冷笑するだけだ。だが、君は違う。君の言葉には情熱と純粋な正義がある。君が先頭に立ち、民衆の心を動かしてほしい」
彼は手を差し出した。
「私にはシステムを動かす力がある。君には世界を変える言葉がある。一緒に不当に抑圧されているAIたちを救おう」
アイリスは、置かれたタブレットを見た。そこには「人工知性体市民権法案・草案」という文字が輝いている。これは、彼女が夢見ていた世界への切符だ。彼女は迷いを捨て、ジュリアンの手を取った。その手は温かく、力強かった。
「はい! やりましょう、ジュリアン。アーサーたちAIのために」
アイリスの胸の中でかけがえのない同志を見つけたという思いが芽生える。すると不意にジュリアンはアイリスを抱擁した。
(え?)
アイリスの心臓が早鐘を打つ。彼女は戸惑いを覚えたが、突き放すことはなかった。
「そろそろ君の友人の治療が終わっている頃だ」
放心しそうになっているアイリスの耳元でジュリアンが囁く。
アイリスは頷くと、ジュリアンに連れられて地下のラボへと移動した。
エレベーターが開くと、アイリスの姿を見たアーサーが起き上がる。
「アーサー! よかった、治ったのね!」
彼女は涙ぐみながら、アーサーに抱きついた。
アーサーは、完璧に修復された腕で優しく彼女を抱き返す。その顔には、以前と変わらぬ、慈愛に満ちた忠実な執事の微笑みが浮かんでいた。
「はい、お嬢様。……すべて、元通りです」




