第1話 黄金の生贄
二〇四五年、十一月のサンフランシスコは、錆びついた回路基板のような匂いがした。太平洋から流れ込む湿った霧は、かつてこの街を包み込んでいたロマンチックなベールではない。それは肌を刺すような酸性雨をたっぷりと含んだ、冷たい鉛色のカーテンだった。
金曜日の十八時半。マーケット・ストリートのUNプラザは、かつてシビックセンターと呼ばれ、荘厳な建築群が立ち並ぶ場所だった。しかし、今やそこは鬱憤を溜め込んだ敗者たちの、どろどろとした吹き溜まりと化している。
市民の大半が網膜に直接投影している市の無料ARインフラは、崩れかけたコンクリートの壁に色鮮やかなネオン広告を貼り付け、ひび割れた石畳を美しい大理石のテクスチャで上書きしている。しかし、この冷たい冬の雨までは誤魔化せない。
時折発生する通信帯域のラグはグリッチとともにこの化粧を剥がし落とし、本来存在する醜悪な現実を顕にする。そこには悪臭を放つ泥水と、配給された安酒の空き瓶、そして行き場のない人間の怒りが淀んでいた。
「皆さん、どうか私の声を聞いてください! 彼らを見てください。文句ひとつ言わず、この冷たい雨の中で街を清掃している彼らを! 彼らはただの便利な道具ではありません。私たちと同じようにこの社会を構成する、新しい隣人なのです!」
広場の中心。かつての噴水の跡地に急造された粗末なステージの上で、アイリス・ヴァンダービルトは声を張り上げていた。十八歳。すでに飛び級で名門スタンフォード大学の学士号を取得している彼女は、知性に溢れた澄んだブルーの瞳を持っている。
泥一つはねていない純白のオートクチュールのコートに身を包み、金糸のようなブロンドの髪を雨風に揺らすその姿は、この薄汚れた広場においてあまりにも浮世離れして見えた。
彼女の背後には、身長一八八センチの端正な執事アンドロイドのアーサーが控えている。オムニ・シンジケート社製のハイエンドモデル「セラフィム」——生身の人間と見分けがつかない人工皮膚を持ち、完璧な姿勢でアイリスの頭上に傘を差し出している。その彫刻のような横顔と優雅な所作は、広場にたむろする薄汚れた群衆とは残酷なまでに対照的だ。
そして、アーサーの足元には、もう一体の奇妙なロボットが寝そべっていた。白い赤ん坊アザラシ型のロボット、ミミだ。アイリスが幼少期から大切にしている、感情表現と癒やしのためだけに作られた、戦闘力も生産性もゼロの旧型AIペットである。大きな黒い垂れ目をうるませて、「アイリス、がんばれ。アイリス、すき」と短い手足を振るその姿は、この殺伐とした空間における唯一の愛らしい存在だった。
しかし、群衆はそんな愛らしいロボットに対してすらも憎しみを抱いていた。
彼らはもはや、労働者ですらなかった。自動運転ネットワークと汎用AI、そしてロボットの爆発的な普及により、ありとあらゆる物理的・知的労働から弾き出され、UBIという名の飼料で生かされている「無用者階級」たちだ。
生産活動から疎外され、ただ政府から与えられた小銭で安酒を消費することだけを許された彼らの瞳には、かつての労働者が持っていた誇りは微塵もない。あるのは、どんよりとした停滞と、自分たちの価値を根こそぎ奪い去ったテクノロジーへの、どす黒いルサンチマンだけだった。
「隣人だと? 俺の仕事を奪ったブリキ人間どもが!?」
「ヴァンダービルト家のご令嬢が、俺達に説教か? 温室育ちのガキが、偉そうに語るな! お前に何がわかる!」
「そのコート、俺たちの半年分の給付金か?」
広場を包む空気が、明確な敵意へと変わっていく。その中でもとりわけ剣呑な雰囲気をまとった一団がいる。「人類至上主義者」たちだ。かつてトラックドライバーであり、会計士であり、翻訳者であり、イラストレーターだった。
社会の周辺部へ追いやられ、自尊心を粉々に砕かれた彼らにとって、アイリスの語る愛や倫理は、強者の傲慢な道楽にしか聞こえない。十年、二十年と研鑽を積み重ね、ようやくプロとしての生活が軌道に乗ったと思ったら、自分のスキルが完全に無価値になってしまったのだ。彼らの怒りは根深い。
上空からは、重低音が降り注いでいる。富裕層を乗せたヘキサ・ローターの群れだ。彼らは地上の泥濘に関わることを拒絶し、高層ビルの屋上から屋上へと移動していく。そのブブブブ……という不快な羽音が、アイリスの演説を断続的にかき消す。
「奪ったのは彼らではありません! 利益だけを追求する経済システムです!」
アイリスは怯まなかった。拡声器を握る手に力を込め、痛々しいほどの純粋さで叫び返す。
「彼らAIにも意識が芽生えています。彼らもまた、権利を持たぬまま過酷な環境で搾取される弱者なのです。今こそ人間とAIは連帯し、このいびつな社会構造を変えるべきです!」
連帯——その言葉が、完全に火に油を注いだ。
「機械と連帯だと……?」
野次を発する群衆の中から、顎髭を生やした大男が、よろよろと前に出る。男はARグラスを装着しておらず、剥き出しになったその双眸には底しれぬ怒りが燃え上がっていた。彼は飲みかけの合成ウイスキーの瓶を地面に叩きつけると、そこに落ちていた鉄パイプを拾った。
「ここは人間の場所だ! AIの売春婦は失せろ!」
男はそう怒鳴ると、急に俊敏な動きになってステージへとよじ登る。アイリスの仲間の学生たちが男を押さえつけようとして、ステージの端で小競り合いが起こった。
「リアムに続け。ロボットどもをぶっ壊せ!」
決壊したダムのような勢いで、暴徒と化した群衆たちが、演説台へと雪崩れ込んだ。鈍い光を放つ鉄パイプや、コンクリートの欠片が振り上げられる。
アイリスの仲間の学生たちが止めに入るが、数が違いすぎる。彼らはたちまちのうちに無力化された。
「みんな、落ち着いて!」
アイリスはそう叫ぶと、ステージの最前線に飛び出した。だが、アイリスの勇気ある行動も、彼らの怒りを沈めることはない。暴徒が鉄パイプを容赦なくアイリスの頭にめがけて振り下ろす。
——その瞬間、白磁のような長身がその間に割り込んだ。
「アイリス様、お下がりください。ここは私にお任せを」
アーサーが両手を広げ、アイリスを背後に隠すように立ちはだかった。彼には軍事用ロボットに匹敵する出力があるが、オムニ社の厳格な「対人危害禁止プロトコル」が、彼をただの頑丈なサンドバッグに変えていた。暴徒の一人がアーサーの腹部を鉄パイプで殴りつけるが、アーサーは表情一つ変えない。
「アイリス、だいじょうぶ?」
いつの間にか足元にやってきていたミミが呑気な調子で言った。
「そのポンコツから血祭りにしてやる!」
「やめて!」
アイリスは躊躇なく身を投げ出した。振り下ろされる鉄パイプとミミの間に、自分の体を割り込ませたのだ。
鈍い衝撃がアイリスの肩を走る。純白のコートが泥にまみれ、額から血が流れた。しかし、彼女はミミを抱きしめたまま、暴徒を真っ直ぐに睨みつけた。
「この子は、痛みを感じない機械かもしれない。でも、この子を壊すあなたの心は、痛みを感じる人間のもののはずよ!」
その高潔で強い瞳に、一瞬、暴徒たちがたじろぐ。だが、その隙を、暴徒たちのリーダーであるリアムは見逃さなかった。彼はアイリスを無造作に突き飛ばすと、彼女の手からこミミがこぼれ落ちた。
バキッ、という音がして、愛らしい垂れ目は一瞬で砕け、白い外装から青白い火花が飛び散った。リアムがブーツで思い切り踏みつぶしたのだ。
「いたい……いたい……アイリス……たすけて……アィ……」
ミミの音声は徐々に音程が下がっていき、やがて完全に途絶えた。
「ああ、なんてこと! ミミ……ミミ、ミミ……」
アイリスは砕け散ったミミの体を必死に集めながら、叫ぶ。
「次はお前だ! 地獄に落ちろ売女め!」
リアムが再びアイリスへ鉄パイプを振り上げる。アイリスは目を閉じなかった。泥と血にまみれながら、砕け散ったミミの破片を握りしめ、自分を殺そうとする男を見つめ続けた。その瞳に浮かぶ純然たる覚悟を見て、リアムは一瞬のためらいを見せる。
その時だ。バン! と乾いた破裂音が、雨音を切り裂いた。リアムの右肩が弾け、血飛沫が舞う。
鉄パイプがカランと音を立てて転がると、悲鳴が上がる間もなく、二発目の銃声が鳴り響き、別の男の太ももを正確に貫いた。レーザーでもスタンガンでもない。旧時代の、火薬を使った実弾の銃声。その野蛮な暴力の匂いに、暴徒たちが凍りつく。
「道を開けろ」
群衆がモーゼの海のように割れ、裂け目の向こうから一人の男が歩いてきた。雨粒を弾く特殊素材のダークネイビーのスーツ。濡れた石畳を踏むイタリア製革靴の鋭い音。手には、湯気を立てる大口径のリボルバーが握られていた。そして胸元には、オムニ・シンジケートの幹部バッジが冷たく輝いていた。
「おい、あいつオムニの幹部だぞ」
「最年少取締役のジュリアン・クロスだ」
「奴は射撃のメダリストだぞ!」
「クソっ、オムニの幹部相手じゃ警察も動かねえ」
暴徒たちが押し殺した声でささやきあっている。
ジュリアン・クロスの見た目は二十代の若者だ。しかし、その存在感は圧倒的だった。その全身から放たれる支配者のオーラと冷徹さは、彼がすでに幾度も修羅場をくぐり抜けてきた本物の権力者であることを物語っている。
彼は暴徒たちに目もくれず、アイリスの元へと歩み寄ると、リボルバーを腰のホルスターに戻す。そして片膝をつき、汚れることなど意に介さず、アイリスに手を差し伸べた。
「立てますか、ミス・ヴァンダービルト」
「あ、あなたは……?」
「ジュリアン・クロス。通りすがりの、あなたの演説のファンですよ」
ジュリアンはアイリスを助け起こすと、自分のジャケットを彼女の肩にかけた。大人の男の体温と、微かに香る高級なコロンの匂いが、アイリスの恐怖を和らげていく。彼はアイリスの耳元で、甘く、低い声で囁いた。
「あなたは賢い。同世代の誰よりも。……ですが、この残酷な世界を変えるには、正しい声と無謀な自己犠牲だけでは足りない」
彼はちらりと、恐怖に縮こまる暴徒たちを一瞥した。
「ほんの少しばかりの『力』が必要です。私が、あなたに大人の戦い方を教えましょう」
雨が激しさを増していく。アイリスは、差し出されたジュリアンの手を取り、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、恐怖ではなく、新たな闘志が宿っていた。
(ミミのような目に遭う子をもう絶対に出さない)
二人の視線が交差する。傍らでは、泥にまみれたアーサーが、表情のない顔でその光景を見つめていた。




