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水彩のフィヨルド  作者: 佐藤産いくら
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40、諦めたらそこで

 帰りの車の配置はこうだった。運転席にマイロニー、その後ろに私、助手席に中里。


 中里は恐らく生まれて初めて手にした水彩画用具に戸惑っているようだった。普段は使わない安物のナイロン素材の筆。紙のキャンバスに水がしみこむこの感覚。全てが中里にとって初めての経験らしかった。

 私よりもだいぶ遅く描きあげたその絵を、私には見せてはくれなかった。「下手くそすぎる。自分の一生の汚点だ」なんて言って、キャンバスを抱き抱えていた。


 新聞紙でくるんだ水彩画を見つめながら、中里はぼんやりと呟いた。

「先生。……僕の絵は、下手ですか?」

 マイロニーはハンドルを器用に捻りながら、中里の問に応える。

「そうだね、下手だったよ。あるがままを描いて、中身が何も無い。昔の君のことは知らないから何もわからないけど、僕の想像では、君は昔の君より絵が好きじゃなかったんじゃないかな。」

 ゆったりとした右カーブ。体の重心が少し左へとずれる。中里は重心のままに左側のドアに寄りかかり、ため息をついた。

「………俺、向いてなかったんですね。きっと……………。」

 肩を落としてぼやく中里。次の瞬間、

「何を言うんだ!」

運転席から伸びてきた長い腕が中里の頭をバシッと叩いた。

「いっ!?」

 その手の主は左手を中里の頭の上に乗ったまま、右手だけでハンドルをきる。そして、また中里の頭をバシバシと叩いた。

「いたっいたっ」

「僕は才能がないって言っただけさ。向いてないなんて言ってないぞ?」

 バックミラーからのぞき見たマイロニーの顔は、ニコニコしていた。私に向けた笑顔とは違うものを感じた。

「で、でも……先生の言う通り俺は下手、だし………才能がないってことは、つまり向いてないってことで…………」

 マイロニーは左手でぽんぽんと頭をなでた。私にはしなかった。初めて見る……いや、中里にだけ見せる表情。先生としてでなく、『マイロニーとして』中里に向けた愛情。

「昔日本人の友人が見せてくれた漫画で、とてもカッコイイと思ったセリフがあるんだ。その言葉で僕もカッコつけたいけど…僕は僕の言葉で言うことにするよ。」

 くしゃり、と髪の毛を弱く握る。

 彼らがまるで、兄弟のように見えた。マイロニーは弟を慰めるかのように頭をなで続けた。少し……中里の気持ちが分かった気がした。

「僕はあきらめない子が好きなんだ。辞めたいなら辞めればいい。だけど、君がまだこの道を進むのならば、僕が手を貸してあげないこともない。……どうする?」


 ぼんやり。すっかり空は黒くなったが、街はこんなに明るい。

 私達が進む道というのは決して甘くなく、途中で辞めても誰も困らない。無事に夢を掴めたとしても、それで生活できるとも限らない。けれど、大学まで来てしまったら、もう夢を追う以外の道は正直言って無い。

 その中で恵まれた環境に生まれた者もいるし、運悪く恵まれず自分の力で這い上がろうと努力する者もいる。

 私は人に恵まれ、その人に身に余るほどの施しをして貰った。もう、返しきれないほどに。だから、私は絶対に絵描きになるのだ。そして成功しなくてはならない。

 きっと、斜め前に座って、声を殺して絵を抱きしめている彼も、同じことを思ったはずだ。

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