22.来客
午後2時頃――。建築雑誌の方が先日竣工した戸建て住宅の取材に事務所を訪ねた来た。
爽やかで良く通る男性の声と、僕と同じくらいの年頃と思われる女性の声が聴こえて来る。
手狭な事務所の奥、丁度僕の右側が作業スペース兼打合せルームになっている。
此処は僕が面接の時に通された部屋で、過去に手掛けたクライアントから依頼された竣工物件の戸建て住宅や公民館のような建物、事務所ビルのような写真が飾られていた。
棚の上にも緻密且つ、精巧に製作された建築模型や部分的なデティール模型、イメージを具現化される為のエスキス模型(スタディ模型)が沢山置かれていた。
「おぉ、素晴らしい」
「カジヤマさん、見てよこれ、この模型。家の中の空間が透けて見えるようになってるよ」
「はい、本当に素敵です。・・・わぁカワベさん、この御宅のランドスケープもお洒落です」
感嘆するような溜息と、可愛らしいここ数年僕の周りで聴いた事もないような心地良いハスキーボイスの響きが僕の脳に沁みてくる...。
(...ランドスケープ?個人邸の庭のデザインの事だろう...。それにしても、聞いているだけで耳が癒される、彼女の顔をちゃんと見てみたい...。)
打合せルームと僕の席との間には、通路を隔てて背の高い本棚が視界を塞いでおり、当然声は聞こえるが覗き込まない限り相手の顔は見えない。
相手からもドラフターの前に屈んで、蛍光灯に照らされながら仄かに光っている僕の背中を見る事が出来ても、それ以上は見えない。この本棚のお陰手で集中出来る空間を構成しているのに、この時ばかりは恨めしくって仕方がない...。
(...畜生...。)
別に僕に会いに来たわけでもないのに、少しドキドキしながら僕は所長の図面を下書きに、黙々と「日本語の練習」をしていた。
(...午前中からネクタイも外し、両手のカッターシャツも捲って、必死に何かに打ち込んでる姿をもしも彼女が一目でも見てくれたら、"凄く仕事が出来そうな人"と勘違いしてくれるかもしれない。そしてテレビドラマにように駅の何処かで偶然巡り会って知り合いになる事も、無きにしも非ずだ...。)
声のイメージと建築雑誌という出版社関係の方という僕の勝手な妄想力で、彼女はきっと美人であると確信していた。
(...何か一目で良いから見る方法は無いものか...。)
と「日本語の練習」もそっちのけで悶々と考えている僕を尻目に、
「ひっひっひっ」
とわざと僕の方をにやにや見つめながら、清水さんがキッチンの方に向かっていった。御客様に飲み物を出す為だ。
こう云う仕事は当然本来は「僕の仕事」の範疇ではあるが、何分まだ食器が何処にあるかさえも分からない。口惜しい気持ちでいると、
「やぁ、どうも、どうも、わざわざお出で下さり申し訳ない!」
と、聞いた事もない声で、所長がニコニコと雑誌社の方に挨拶しながら、作業スペース兼打合せルームに登場した。
この辺りは清水さんがキッチンに向かったタイミングと清水さんがお客さんに飲み物を出すタイミングが絶妙に調整されているように、名刺交換後、流れるような所作で清水さんがアイス珈琲とガムシロップ、ミルクを出した...。そんな気配を感じながら、僕は黙々と22歳にもなって「文字の練習」を続けていた。
飲み物を出して帰ってきた清水さんは僕の顔を見て又にやにやしながら、僕が練習しているトレースの端っこに、こう綴った――。
"髪が茶色でストレートのロング。めっちゃいい匂いがした。Very Beautiful (^_-)-☆"
(...絵文字いらんし...。)
僕はドラフターに額を押し付けながら、悔しくてもっと早く"お茶を出す係"の仕事を覚えておけばよかったと後悔した...。
・・・多分1時間は滞在してなかったと思う。
せいぜい40分くらいだったか、さすが編集社の方だと思うカワベさんの柔らかい口調の話術が所長の話を巧みに盛り上げ、その話題に上機嫌になった所長がぺらぺら談笑しながら苦労話しやクライアントの想いをどう建築に生かして形にしたのかを熱を込めて話していた。
助手のカジヤマさんがその話しを巧みに相槌を打ちつつ、シャッターを切る感じで話しが進んでいった。
僕の出番はないというよりも、ただその話しを聞きながら、「コンクリート金鏝押さえ」とひたすら「所長文字」をトレースしていく。
「コンクリート金鏝押さえ」の単語を「所長文字」では、「コンクリート金ゴテ押エ」と書いてあった。
コンクリートを木鏝ではなく、金鏝で仕上げる意味は知っていたし、"鏝"と言う文字を図面で書くと潰れてしまうから、"こて"と書いているのは推測されるが、
(...何故"カタカナ"なのか?...。)
全く分からない。
所長が似つかわしくない大きな笑い声を発している間に、僕の前に座って図面を引いている清水さんに小声で聞いた。
「どうしてここはカタカナなのでしょう?」
「あぁこれね。これは、こっちの方が格好良いからだよ。字がしまって見えるから」
「あぁ、なるほど」
そんな事は思いも付かなかったが、
(...確かに図面に書かれている文字はカタカナの方がしまって見える気がする...。)
所長は"図面も自分の作品の一部だ"と思っているので、特注の和紙で図面を引いたり、通常は不要と思われるコンクリ―トの部分を、アニメにカラーを付けるように裏から薄く塗ったりしており、単なる寸法だけを読み取るのではなく、一瞬で図面を立体的に見せる仕掛けが随所に施されていた。
僕には不愛想でまだコミュニケーション方法も全く分からない吉沢所長だが、多分多少なりとも尊敬する事が唯一の方法ではないかと、思っていると棚越しにカワベさんの別れの挨拶が聞こえてくる...。
「今日は貴重な時間を取って下さり、有難うございました。次回は実際に今回竣工されたクライアントの御宅に伺ってお話を頂きたいと考えてますが、先生のご都合は如何でしょうか?」
(...もう、帰るのか...。)
僕の心はさっきまでパチパチ炎を上げていた線香花火が、今は消えてポトリと火の玉が落ちてしまったような、あの寂しげな夜の海の様に沈んでいた...。
お客さんが帰る段になって所長が、
「うちのアトリエの所員です」
と、なんと、清水先輩と僕を紹介してくれたのだ!
僕は川辺さんと、梶山さんに頭を下げた。
梶山さんが俯いた時の流れるような明るい茶髪のサラサラしたストレートが耳元から前に垂れた。対談という事も考えての選択と思われるが、清潔感のあるリクルートスーツ姿の美しい女性が僕の眼の前に立っていた。
(...私服姿が見てみたい...。)
「梶山です」
とほほ笑む細い顎と細くて長いまつ毛、アヒルのような可愛らしい口元、グラマーではないがそこそこある女性らしい胸元。そして何より石鹸のような清潔感のある香りで僕の頭はくらくらしてしまいそうになる。まさに天使だ。
・・・体感時間30秒――。
一瞬ではあるが夢を見させてくれた所長に僕は少しだけ感謝した。




