表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖女様、その回復魔法では患者が死にます ~45歳の外科医が異世界転生したら、チートは『診断』『統計』『経営』でした~  作者: 東雲 諒杏
第四章 地図の外側で(第31〜40話+エピローグ)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/45

第37話 心臓の音 ― 医者が患者になる日


【今回の症例】患者名:剣崎アラタ。診断:重症弁膜症。

 執刀できる医者は、この世界にただ一人――本人だけである。




 外科医が最も執刀したくない患者は、自分だ。


 そして俺の場合、それは物理的に不可能だった。


 医者は、自分が倒れる日を、なんとなく分かっている。


 分かっていて、その日にも予定を入れる。


 ――それが、この職業のいちばん悪い癖だ。


 港町の危機が去って、二ヶ月。


 俺は、フロンティアの医学校に戻っていた。


 久しぶりの帰還は、盛大に迎えられた。校舎は増築され、生徒は二百名を超え、卒業生は大陸全土に散っている。トトはもう立派な外科医で、若手を厳しく指導していた。


 乾杯の音頭を取ろうと、俺は杯を持って立ち上がった。


 二百人の顔が、一斉にこちらを向く。


 声を出そうとした瞬間、視界の端が、白く飛んだ。


 意識が飛んだのは、ほんの数秒だった。だが、目を開けた時、俺はエリスの膝の上にいて、彼女の顔は蒼白だった。


「……アラタ」


「……ああ、悪い。立ちくらみだ」


「嘘をつかないでください」


 エリスはもう「アラタ様」とも「学長」とも呼ばなかった。怒っている時の彼女だけが使う、短い「アラタ」だった。


 その声を聞いて、俺は自分の病気が自分だけの問題ではないと、ようやく理解した。死ぬ自由を主張することは、残される者の傷を無視することでもある。


 彼女の声は、震えていた。


 俺は、観念して、自分に魔眼を向けた。──ずっと、目を逸らしてきた場所へ。


────────────────


【VINDICATE】対象:剣崎アラタ


心房細動:持続性/心拡大:進行 〈心臓が疲れて、風船のように膨らんできている〉

僧帽弁狭窄・逆流:高度

 〈僧帽弁=心臓の中の一方通行の扉。それが硬く狭くなり、同時に血が逆流している〉

左心房内:血栓形成の兆候あり 〈心臓の中に、血の塊ができ始めている〉

心不全:NYHA III度相当(軽い労作で息切れ)

 〈NYHA=心不全の重さを四段階で表す物差し。III度は、日常の動作でも息が切れる段階〉


予後:内科的管理のみの場合、5年生存率 30%以下

 〈薬と養生だけで過ごした場合、五年後に生きている人は十人に三人以下〉

⚠ 随時、脳塞栓(脳卒中)を発症する危険 〈心臓の血の塊が、いつ脳へ飛んでもおかしくない〉


根治的選択肢:弁の外科的修復/置換術 〈壊れた扉を、手術で直すか取り替えるか〉

※本世界における実施例:ゼロ


────────────────


 診察室が、静まり返った。


 エリス、ミカゲ、玄斎、トト、社代──全員が、その文字を(俺が読み上げた内容を)聞いていた。


「……心臓を、切る手術」トトが、掠れた声で言った。「そんなもの、誰も……」


「ああ。誰もやったことがない」俺は、淡々と言った。「前の世界でも、心臓手術が成立するまでには、心臓を止めて血を回す装置が必要だった。この世界には、無い」


「では……」


「無いなら、作るか、別の道を探す。いつも通りだ」


 俺は、寝台に横になったまま、思考を回した。


 (人工心肺は無理だ。だが──心臓を止めずにできる手術なら? 前世で、心肺装置が発明される前に行われた術式があった。閉鎖式僧帽弁交連切開術。心臓を動かしたまま、指かメスを心房から挿し入れて、癒着した弁を裂き開く。……成功率は、決して高くない。だが、ゼロじゃない)


 そして──決定的な要素が、この世界にはある。


「エリスの回復魔法だ」俺は言った。「前の世界には無かった、最大の武器。心臓を切開して、出血をどう止めるかが最大の課題だが──傷口を、その場で塞げる存在がいる」


 エリスの顔が、強張った。


「……私が、貴方の心臓に、光を?」


「ああ。──あんたにしか、できない」


 彼女は、両手を握りしめた。震えていた。


「……もし、私が失敗したら」


「死ぬな」俺は、正直に言った。「だが、やらなくても、あと数年で死ぬ。どちらも死ぬなら、俺は"やって死ぬ"方を選ぶ」


「そんな──!」


「エリス」


 俺は、彼女の手を取った。


「俺は、患者としての権利を行使する。──説明を受け、自分で選ぶ権利だ。俺は説明された。俺は理解した。そして俺は、手術を選ぶ」


 彼女の目から、涙が零れた。


 そして──彼女は、涙を拭い、学長の顔になった。


「……分かりました。では、執刀は、誰が」


 そこで、俺は微笑んだ。


 一番、言いたかった言葉を。


「お前たちだ」


 診察室の全員が、凍りついた。


「が、学長……我々が!?」トトが叫んだ。「無理です! 心臓ですよ!? 学長ご自身でなければ──」


「俺は、自分の心臓を執刀できない」俺は、笑った。「これは、俺がこの世界で教えてきたこと全部の、最終試験だ。──"あなたにしかできない医療は、医療の失敗だ"。覚えてるか?」


 トトが、言葉を失った。


「もし俺が死んだら、それは俺の教育の失敗だ。だが──お前たちが成功させたら、それは、この世界の医学が、俺を超えた瞬間だ」


 俺は、集まった弟子たちを見渡した。


「執刀、トト。お前は俺の次に手が速い。麻酔と全身管理、ミカゲ。お前は薬物の量を誰より正確に読める。玄斎殿、術中の疼痛と自律神経の制御を。社代、器具と薬剤の調達と手順書の管理。──そして」


 俺は、エリスを見た。


「エリス。お前が、俺の心臓を止めないでくれ」


 長い、長い沈黙。


 やがて、トトが、ぼろぼろと涙を流しながら、深く頭を下げた。


「……謹んで、お受けします。──先生」


 俺は天井を見上げて、二十年前を思い出していた。


 初めてメスを持った日。俺の手も、まったく同じように震えていた。


 (――大丈夫だ)


 (震えを隠さない手ほど、よく効く手はない)



【今回のカルテ】


弁膜症:心臓の弁の異常により、息切れ・不整脈・心不全を起こし得る。


【たとえるなら】心臓の弁は、逆流を防ぐ一方通行のドア。閉まりが悪くなると、心臓は同じ血を何度も押し出す羽目になり、やがて疲れ果てる。


【次回】第38話「最後の講義」

 二百頁の手順書、豚の心臓、そして中止基準。医神は、自分の死に方まで設計する。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ