第37話 心臓の音 ― 医者が患者になる日
【今回の症例】患者名:剣崎アラタ。診断:重症弁膜症。
執刀できる医者は、この世界にただ一人――本人だけである。
外科医が最も執刀したくない患者は、自分だ。
そして俺の場合、それは物理的に不可能だった。
医者は、自分が倒れる日を、なんとなく分かっている。
分かっていて、その日にも予定を入れる。
――それが、この職業のいちばん悪い癖だ。
港町の危機が去って、二ヶ月。
俺は、フロンティアの医学校に戻っていた。
久しぶりの帰還は、盛大に迎えられた。校舎は増築され、生徒は二百名を超え、卒業生は大陸全土に散っている。トトはもう立派な外科医で、若手を厳しく指導していた。
乾杯の音頭を取ろうと、俺は杯を持って立ち上がった。
二百人の顔が、一斉にこちらを向く。
声を出そうとした瞬間、視界の端が、白く飛んだ。
意識が飛んだのは、ほんの数秒だった。だが、目を開けた時、俺はエリスの膝の上にいて、彼女の顔は蒼白だった。
「……アラタ」
「……ああ、悪い。立ちくらみだ」
「嘘をつかないでください」
エリスはもう「アラタ様」とも「学長」とも呼ばなかった。怒っている時の彼女だけが使う、短い「アラタ」だった。
その声を聞いて、俺は自分の病気が自分だけの問題ではないと、ようやく理解した。死ぬ自由を主張することは、残される者の傷を無視することでもある。
彼女の声は、震えていた。
俺は、観念して、自分に魔眼を向けた。──ずっと、目を逸らしてきた場所へ。
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【VINDICATE】対象:剣崎アラタ
心房細動:持続性/心拡大:進行 〈心臓が疲れて、風船のように膨らんできている〉
僧帽弁狭窄・逆流:高度
〈僧帽弁=心臓の中の一方通行の扉。それが硬く狭くなり、同時に血が逆流している〉
左心房内:血栓形成の兆候あり 〈心臓の中に、血の塊ができ始めている〉
心不全:NYHA III度相当(軽い労作で息切れ)
〈NYHA=心不全の重さを四段階で表す物差し。III度は、日常の動作でも息が切れる段階〉
予後:内科的管理のみの場合、5年生存率 30%以下
〈薬と養生だけで過ごした場合、五年後に生きている人は十人に三人以下〉
⚠ 随時、脳塞栓(脳卒中)を発症する危険 〈心臓の血の塊が、いつ脳へ飛んでもおかしくない〉
根治的選択肢:弁の外科的修復/置換術 〈壊れた扉を、手術で直すか取り替えるか〉
※本世界における実施例:ゼロ
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診察室が、静まり返った。
エリス、ミカゲ、玄斎、トト、社代──全員が、その文字を(俺が読み上げた内容を)聞いていた。
「……心臓を、切る手術」トトが、掠れた声で言った。「そんなもの、誰も……」
「ああ。誰もやったことがない」俺は、淡々と言った。「前の世界でも、心臓手術が成立するまでには、心臓を止めて血を回す装置が必要だった。この世界には、無い」
「では……」
「無いなら、作るか、別の道を探す。いつも通りだ」
俺は、寝台に横になったまま、思考を回した。
(人工心肺は無理だ。だが──心臓を止めずにできる手術なら? 前世で、心肺装置が発明される前に行われた術式があった。閉鎖式僧帽弁交連切開術。心臓を動かしたまま、指かメスを心房から挿し入れて、癒着した弁を裂き開く。……成功率は、決して高くない。だが、ゼロじゃない)
そして──決定的な要素が、この世界にはある。
「エリスの回復魔法だ」俺は言った。「前の世界には無かった、最大の武器。心臓を切開して、出血をどう止めるかが最大の課題だが──傷口を、その場で塞げる存在がいる」
エリスの顔が、強張った。
「……私が、貴方の心臓に、光を?」
「ああ。──あんたにしか、できない」
彼女は、両手を握りしめた。震えていた。
「……もし、私が失敗したら」
「死ぬな」俺は、正直に言った。「だが、やらなくても、あと数年で死ぬ。どちらも死ぬなら、俺は"やって死ぬ"方を選ぶ」
「そんな──!」
「エリス」
俺は、彼女の手を取った。
「俺は、患者としての権利を行使する。──説明を受け、自分で選ぶ権利だ。俺は説明された。俺は理解した。そして俺は、手術を選ぶ」
彼女の目から、涙が零れた。
そして──彼女は、涙を拭い、学長の顔になった。
「……分かりました。では、執刀は、誰が」
そこで、俺は微笑んだ。
一番、言いたかった言葉を。
「お前たちだ」
診察室の全員が、凍りついた。
「が、学長……我々が!?」トトが叫んだ。「無理です! 心臓ですよ!? 学長ご自身でなければ──」
「俺は、自分の心臓を執刀できない」俺は、笑った。「これは、俺がこの世界で教えてきたこと全部の、最終試験だ。──"あなたにしかできない医療は、医療の失敗だ"。覚えてるか?」
トトが、言葉を失った。
「もし俺が死んだら、それは俺の教育の失敗だ。だが──お前たちが成功させたら、それは、この世界の医学が、俺を超えた瞬間だ」
俺は、集まった弟子たちを見渡した。
「執刀、トト。お前は俺の次に手が速い。麻酔と全身管理、ミカゲ。お前は薬物の量を誰より正確に読める。玄斎殿、術中の疼痛と自律神経の制御を。社代、器具と薬剤の調達と手順書の管理。──そして」
俺は、エリスを見た。
「エリス。お前が、俺の心臓を止めないでくれ」
長い、長い沈黙。
やがて、トトが、ぼろぼろと涙を流しながら、深く頭を下げた。
「……謹んで、お受けします。──先生」
俺は天井を見上げて、二十年前を思い出していた。
初めてメスを持った日。俺の手も、まったく同じように震えていた。
(――大丈夫だ)
(震えを隠さない手ほど、よく効く手はない)
【今回のカルテ】
弁膜症:心臓の弁の異常により、息切れ・不整脈・心不全を起こし得る。
【たとえるなら】心臓の弁は、逆流を防ぐ一方通行のドア。閉まりが悪くなると、心臓は同じ血を何度も押し出す羽目になり、やがて疲れ果てる。
【次回】第38話「最後の講義」
二百頁の手順書、豚の心臓、そして中止基準。医神は、自分の死に方まで設計する。




