幕間II 綱を切った女 ― トトの母のこと
【この話について】第6話で、南の井戸の綱を切った村の女の話です。
息子のトトは、のちに大陸を代表する外科医になります。これは、その母親の話。
うちの人が死んだのは、三日ぐらいのことだった。
朝は畑に出ていた。昼に戻ってきて、水を飲んで、それきり。
米のとぎ汁みたいな下痢が止まらなくて、みるみる痩せて、口の中が乾いて、最後は目が落ち窪んで、別人みたいになって死んだ。
神官様は、疫病神の祟りだと言った。
だから私は、香を買った。三日分の食い扶持と引き換えに。
効かなかった。
あの異国の男が村に来たのは、その少しあとだ。
背が高くて、黒い髪で、いつも眠そうな顔をしていた。
最初は、誰も行かなかった。当たり前だ。よそ者の、それも罪人だと聞いていた。
うちの息子――トトが、勝手に手伝いに行くようになった。
九つだった。父親を亡くして、何かしていないと駄目だったんだと思う。
私は怒鳴った。「あんな怪しい男のところへ行くな」と。
トトは、初めて私に口答えした。
「母さん。あの人は、父さんがなんで死んだのか、知ってる」
あの男は、村を歩き回っていた。
家を数え、井戸を数え、誰がどの水を飲んでいるかを、一軒ずつ聞いて回っていた。
馬鹿にする者もいた。石を投げた者もいた。私も、投げた側だ。
そして、あの日が来た。
男は、村の広場に大きな紙を広げて言った。
――南の井戸を、閉めろ、と。
誰も動かなかった。
あの井戸は、私が嫁いできた時からある井戸だ。うちの人が毎朝、水を汲んでいた井戸だ。
あの水で、私は息子を育てた。あの水で、飯を炊いた。
それを、切れと言う。
私は前に出た。理由は、自分でもよく分からない。
ただ、もし本当にあの水がうちの人を殺したのなら――誰かが、その綱を切らなければいけないと思った。
そして、それは、いちばん恨みのある人間がやるべきだと思った。
「あんたの言うことが嘘なら」
私は男の顔を見ずに言った。
「あたしを、恨んでいい」
斧は重かった。
一度目は、はずれた。二度目も、浅かった。
三度目で、綱が切れた。
桶が井戸の底に落ちる音が、村中に響いた。
――それきり、村では誰も死ななかった。
次の日も。その次の日も。
七日目に、私は診療所の戸口に、卵を二つ置いた。
何か言おうと思ったけれど、言葉が出てこなかった。
男は、卵を見て、それから私を見て、こう言っただけだった。
「綱を切ったのは、あんただ。俺じゃない」
――今、うちの息子は、都の学校で医者になる勉強をしている。
手紙が来るたびに、私は近所の字が読める人に読んでもらう。
この前の手紙には、こう書いてあった。
「母さん。僕は今日、初めて一人で人の腹を縫いました。震えました。でも、母さんがあの日、震えながら斧を三回振ったことを思い出したら、手が止まりませんでした」
私は、その手紙を仏壇に上げた。
うちの人にも、読ませてやりたかった。
【今回のカルテ】
対策を"誰が実行するか"は、対策の中身と同じくらい重要である。当事者が動いた時、対策は初めて村のものになる。
【たとえるなら】正しい指示を出すのが医者の仕事なら、その指示を"自分の手で"実行してもらうのが、公衆衛生の仕事である。
【次回】第21話「東方の毒、そして新たな生徒」から、第3部が始まります。
三人が死にます。アラタの仕組みで、アラタの薬で、アラタの生徒の手によって。
<第2部・完>
第2部は「一人の医者が、国家の仕組みを動かすまで」の物語でした。ここまでで一区切りです。
第3部『東方の毒と継ぐ者たち編』では、アラタが作った仕組みそのものが、初めて人を殺します。
# 【第3部】東方の毒と継ぐ者たち編(第21〜30話+幕間III)
第1部・第2部を読んでいなくても、ここから読めます。
前提:主人公は大陸に「医療同盟」を作り上げた外科医。ここまでは、順風満帆でした。
この部で、アラタが作った仕組みが、初めて人を殺します。
罰しない組織づくり、世界初の臨床試験、そして「病を制する者が世界を制する」と嘯く敵との対決。
読みどころ:医療安全/臨床試験/依存症/敵組織との頭脳戦/継承




