11発目 寺来薙心とあの日の扉
「あぁ〜」
間の抜けた声だった。
けれど、遠い過去から戻ってきたような環さんの声は、どこか晴れやかで、雨雲をそっとどけて、ゆれる草木をちらちらと照らす陽だまりのようだった。
「環さん……?」
白い帯がふわりと揺れる。一反木綿の環さんの身体が、雨に打たれながら、ゆっくりと持ち上がる。さっきまで疲れ切って短くなり、薄く透けていたはずの輪郭が、ひと息ごとに、長く、濃く、なっていった。
ふわり。
一度、大きく身をしならせた。
その動きは、水底から浮かび上がる白龍のよう。
「いくわよ〜」上擦り声の環さん。おおきなひと息をすって──、
「た、環さんッ!」
吐いた。
パッと光った環さん。
もう誰にでもみえるくらいに。
それは蒼白の閃光。雨の公園を薙ぎ払った。
闇の扉から溢れていた黒が、一瞬、薄くなった。
公園を覆っていた雨雲も、空中に浮かぶ無数の雨粒も、滑り台も、うんていも、公衆トイレ脇の自転車も、影にどいてと押し潰すように光に染められた。
蒼白い景色であった。
海のように青い空が見える、
空のように青い海が見える、
晴れた、ウユニ塩湖みたいに。
環さんはパッと輝いていた。
私がいつか見た、遠い記憶と重なった。
あの青白いひんやりとした手。なのに、胸の奥が温かった。
環さんは飛ぶ。細く長い身を波のようにうねらせて。流れる青白い髪が風を描いた。まるで海辺のさざ波に佇む少女が麦わら帽子を青空へ攫われパンアップしちゃう風。
──ていうか環さん? "いつも"よりはしゃいでない? まぁ、『がんばって!』とはいったけれど……身体大丈夫だよね?
「環さん! はしゃぎたい年頃なの!?」
「あら〜? 景気よくはりきったまでよ? "お母さん"がんばっちゃうから〜!」
──お母さん? 私は聞き逃さなかった。欠伸は聞き逃したけど。思わず、考えもなしに、京魔くんのお手手繋ぎ大作戦、真っ最中に聞いてしまった。
だって、目が僅かに泳いだ。
私は知っている、隠してる大人の目だ。
「環さん既婚者なの?」
「な、薙心! ま、前見なさい!」
──ゴキ。痛。
一反木綿の環さんからニョキと伸びた両手が私の顔を前に正した。視界に映るは集中線だらけの通り過ぎる景色。
──はぐらかされた。身の上話になるといつもこう。
それよりも、疾い! 猛スピードの弊害発生。ツインテがほどけちゃうよ! あとぶつかる雨粒が針みたい痛い! 眼球にぶつかったら大変だ! 環さんは、ロードのダンシングの要領で、白い帯を右に振り、左に振り、さらに、さらに、加速する。
帯が揺れる音が、風を切り裂く音が、雨の針が刺さる音が、耳に濁流のように押し寄せる。
油断すると落ちる。目が潰れる。瞼をギリギリまで下ろして、姿勢を低くしろ。私。
あまりに速すぎる世界を私は、コマ送り再生で"現在"を捉えた。
一コマ目、私達と京くんの距離が半分になった。厳密に言えば、京魔くんが体育祭で飢えた女子どもに押し潰されて保健室で寝ていたベット4.5台分! だから9m! 京魔くんは私達の急接近に気づかずに、背筋を伸ばした歩きの姿勢で闇の扉へかっとんでいる。
それは信号機の歩けのポーズのように。"前"に振られる彼の左手。
二コマ目、さらに近づいた。
京魔くんの左手まで、あと1m。もう届く。
彼の斜め後ろから私は右手を伸ばしていた。京魔くんの空いた左手にむかって。私は一反木綿の環さんから落ちないように強めに左手で握り込んでいた。環さんは唇をギュッと噛み締め、痛みを堪えるように、口をボーリングのストライクマークの×の形にしていた。ごめん。強く握りすぎたかも。私は、ギリギリまで身を乗り出して、右手を広げていた。
そう。──彼を、繋ぐ手。
帰ろう。京魔くん。
三コマ目、──私の右手が空をきっていた。空振り? なんでだ? 環さんの飛行高度は完璧だったのに。私が姿勢を崩したり、「やっぱり、京魔くんの、手、繋ぐの、恥ずかしいな……?」なんて"恋に迷う乙女"が発動したわけでもないのに。
京魔くんの左手、信号機の歩けのポーズのように"前"に振られた手を、確実に繋げたポジションのはずだった。
なのに──"位置"が変わっていた。京魔くんの左手は、"下"に向いていた。左足ももにぴったりとくっついていた。私の右手が入り込む隙間すらないほどに。僅か一コマの間で? 京魔くんの身体能力の成せる技? それとも教会の子特有の聖書の偉業を超信仰で超体現する"聖力"か?
人並外れた動きしないでよ? 私の手をかわさないでよ?
それにしても特徴的な佇まいだ。直立不動の気をつけの姿勢。まるで信号機のとまれのポーズだった。
──京魔くん。いい加減にしなよ?
人並外れた力を使ってまで、信号機の各種ポーズとってまで、この世界を去りたいのか? 私の手をなにがなんでも拒むのか?
繋げよ! 私の手を! 逃げてばっかりいないでさ?
繋げよ? 私の手を?
──驚いた。私の湧き上がった想いに。
なんて身勝手で、ド直球な想いだ。
変わったものだ。三年で、こんなにも。
一年目の恋は散々であった。事務的会話も碌に出来ない。挨拶もできない。目も合わせられない。
きっと、不愉快で気味が悪い存在に見えただろう。手を繋ぐなんて考えもしなかった。
二年目もだ。話しかけてくれたのに抑揚のないトーンで、すかした返事。信じられない愛想に自分をなぶり殺したくなった。嫌われたかも知れない。それだけで涙がとまらなかった。私が悪いのに。傷つけてしまったかもしれない。傷つけたくないに。もうやめようかとおもった。
三年目は頑張った。挨拶をした。下手くそな目線、口角も動作もズタボロな挨拶。もっと嫌われたかもしれない。だけど挨拶をした。関係ない。おはようも、ばいばいも、他所に「あれキモくね?」と嘲笑われても、繰り返した。だって、あなたは挨拶をしてくれる。必ずだ。すれ違い様に足を止めて、私のどもりっぱなしの「おはよう」を待ってくれたあなた。嬉しかったなぁ。他所の声なんてどうでも良くなった。てゆーか、ケツバットした。他人の恋を嘲笑うな。
ふふ。本当に変わった。
私は、本当に、なにもできなかった。
──厳密にいえば、
体育祭で保健室のベットで寝ているあなたに、声をかけることも、労うことも、そっと見守ることも。なにも。
保健室から声が聞こえた。
「いつでもこいよ! 桂木!」
発破をかけたような野太い男子の声。バン!と肩でも強めに叩いたような音が聞こえた。
「京魔くん大丈夫? これ飲んで」心配そうに囁く女子の声。さらにドン!と5,6本ほど飲み物を詰めたかもしれない袋を置いた音がした。
「多くねぇ〜?」「当たっちゃたんだもーん!」
「全部エナドリかよ? ウケる〜!」
「「「あはははは!」」」
彼等は、迷いなく、当たり前のように彼を見舞い、気遣い、触れ合った。
「寺来さんも心配そうにしてたよ?」
「あぁ、顔面が変色してたぜ?」
「「青い彼岸花みたいに!」」
「青ざめすぎ〜」
「「「あはははは!」」」
京魔くんの声はひとつも聞こえなかった。
きっと、涼しげな顔をして宝飾品みたいに輝いていたのかもしれない。あはは!と壁を何度も突き抜けた明る気な声が、私の耳に虚しく刺さった。
私はなにも出来なかった。
足がすくんで保健室の扉に指をかけることすら。
あと、一歩が踏み出せなかった。
部屋から漏れる音を盗み聞き、肩が震えた。なのに耳を塞がずに、立ち尽くしていた。
いいな。うらやましいな。
前が見えない。指が見えない。目の前が滲んだ。立ち尽くしていた。
窓から刺す日差しと歓声、体育祭のアナウンス。なにか始まる。賑わっている。
うるせぇんだよ。
私は立ち尽くしていた。
京魔くんを潰しておいて碌に謝りもしない愚者共の、尻爆ぜた屍達の上で。
──ふふ。笑える。本当に変わった。
私はもう、踏み出した。
この一歩を、私はとめない。
とめられるものか。やめられるものか。
私は、開く。あの日、開けなかった扉を。
私は、指をかける。あの日、立ちすくんでしまった扉を。
私は、開けてみせる。
──あの日、きっと涼やかに笑ったであろうあなたに、
労いたかったあなたに、
差し入れを渡したかったあなたに、
鉢巻を渡して、リレー頑張ってね? なんてエールを送りたかったあなたに、
声をかけよう。
────私は、開く。
あの日の扉を。
さよならなんていわないで。
一緒に帰ろう。京魔くん。
手を繋いでさ。




