第5章:「暁の疾風、鋼鉄と魂の合奏」 ② 嘆きの谷、静寂の守護者(前編)
険しい崖が折り重なる『嘆きの谷』へ向かう道中、一行は夜の帳に包まれていた。嘆きの谷の入り口に差し掛かった時、一軒の小さな民家が静かに明かりを灯しているのが見えた。
「こんな時間に……。少し道が怪しいな」
アンヴィルが馬車を停めると、民家から一人の老人がゆっくりと姿を現した。老人は一行の立派な馬車を見ても驚く様子はなく、ただ穏やかな微笑みを浮かべて声をかけた。
「旅の方々かい。もう夜も遅い。谷は夜になると霧が深くなり、何が待ち受けているかも分からん。一晩泊まっていかないか? この老いぼれと、息子の話し相手になってくれるだけでいい」
その優しさに、荒野での緊張を強いられていた一行の心は少しだけ解けた。彼らはその夜、民家で休息を取ることにした。家には老人とその息子、そしてまだ幼い少年が暮らしていた。
お爺さんが手際よく用意してくれたのは、荒野の厳しい自然の恵みが詰まった質素ながらも温かい料理だった。大皿には、近隣で採れた野草や根菜をたっぷりと使い、塩と少しの干し肉で味を調えた素朴なスープと、硬く焼かれた雑穀パンが並べられている。
食卓を囲む中で、アンヴィルたちはその温かさに心から安堵した。
アンヴィルは、冷えた体に染み渡るスープを一口ずつ丁寧に味わう。強行軍の疲れが胃の腑から解けていくような感覚に、思わず肩の力が抜けた。ノインは、雑穀パンをスープに浸して豪快に口に運ぶ。その食いっぷりに、お爺さんが細い目をさらに細めて笑みを浮かべていた。ミリアは、野草の苦みがアクセントになった優しいスープを、一口ごとに感謝を噛みしめるようにゆっくりと啜る。リンは、背後の長槍を気にかける癖はそのままに、それでも手元のスープにはどこか懐かしさを感じるような穏やかな表情を浮かべていた。
そんな中、少年がふと、潤んだ瞳でアンヴィルたちを見つめた。
「あのね、お母さんをこの前、外で見かけたんだよ。ずっと僕たちを見ていてくれたんだ」
食卓に、ふっと静寂が流れた。スープを啜る音が止まり、一行の手元が止まる。少年が口にした言葉の重さに、アンヴィルはスプーンを握ったまま、どう言葉を返すか迷う。ノインは咀嚼していたパンを飲み込み、いたたまれない気持ちで少年の父親に視線を向けた。
しかし、父親と老人は顔を見合わせ、苦い表情を浮かべる。
「……またか。亡くなった母さんを、この子はまだ忘れられなくてな」
父は悲しげに首を振る。少年は反論するように、大切そうに家族写真を持ってきて、そこに写る女性の顔を指差した。
「本当だよ。お母さんだよ。また会えるって言ってたもん」
翌朝、一行は感謝を伝えて民家を後にした。山間から差し込む朝日は弱々しく、嘆きの谷へ近づくにつれ、周囲の景色は急速にその姿を変えていった。
谷の深淵に辿り着いたとき、目の前に現れたのは、かつて戦乙女たちが祀られていたという壮大な祠だった。しかし、今は往時の威容を物語る残骸が、巨大な崖の割れ目に突き刺さるようにして残っているだけだった。
祠の周囲は、まるで時間が凍りついたかのような静寂に支配されている。あちこちに砕け散った大理石の破片が散乱し、それらは長い年月を経て苔に覆われ、まるで自然の一部と化していた。建物自体は半ば崖崩れに埋もれ、天井の一部が抜け落ちている。そこから差し込む薄明かりが、室内に漂う深い霧を銀色に輝かせ、幻想的でありながらも、背筋が凍るような死の気配を漂わせていた。
壁画には、空を駆ける戦乙女たちが精巧に彫り込まれているが、その顔部分はどれも風雨によって侵食され、どこか哀しげに一行を見下ろしているようにも見える。足元にはかつて捧げられたであろう供物台がひっくり返り、そこから零れ落ちた土が、何百年もの間、死者の溜息を吸い込んできたかのような湿り気を帯びていた。




