岸辺 桃花 終
高校を卒業してすぐのことだった。俺と桃花の間に、新しい命が宿っていることが発覚した。
「ウチ……暁人の赤ちゃん、産んでもいいの……?」
妊娠検査薬を握りしめ、不安と期待が入り混じった顔で涙を流す桃花を、俺は力強く抱きしめた。
今まで散々クズな生き方をしてきた俺に、桃花は無償の愛を注ぎ続け、最後には「家族」という何にも代えがたい光をくれたのだ。パパ活も派手な遊びもすべてやめ、俺のためだけに一途に生きると決めてくれた彼女を、俺は一生かけて幸せにすると誓った。
俺たちは小さなアパートを借り、二人で新しい生活を始めた。
少しずつ大きくなる桃花のお腹を撫でながら、ベビー服を選んだり、子供の名前を考えたりする日々。それは、俺のこれまでの荒んだ人生からは想像もつかないほど、穏やかで、温かく、眩しいほどに満たされた時間だった。
明日は、大安。二人で市役所に行き、正式に夫婦となるための婚姻届を提出する日だ。
「暁人、ウチ、今世界で一番幸せだよ……えへへ」
「俺もだよ。桃花と、この子と一緒に、絶対幸せな家庭を築こうな」
婚姻届の証人欄も埋まり、テーブルの上に置かれたその紙を見つめながら、俺たちは幸せを噛み締めていた。
だが――俺たちは忘れていたのだ。
俺がかつて手を出し、狂わせてしまった「悪魔」の存在を。
翌日の夕暮れ。
明日の準備のための買い物を終え、二人で手を繋いでアパートの前に着いた時だった。
「――あきと」
背後から、鼓膜にへばりつくような、ひどく冷たい声がした。
俺の全身の毛穴が粟立ち、心臓が凍りつく。振り返らなくてもわかった。
ゆっくりと首を向けると、夕闇の中に、鳴上空が立っていた。
「そ、ら……」
息を呑んだ。
俺の知っている、太陽のように無邪気で可愛らしかった幼馴染の姿は、そこにはなかった。
瞳孔が異常に開き、光の全く宿っていない、底なし沼のようにドス黒い瞳。口元だけが三日月の形に歪んで笑っているその顔は、天使の皮を被った地獄の悪魔そのものだった。
「なんで……なんで、その泥棒猫と手なんか繋いでるの?」
「空、お前……」
「ねぇ、暁人は私のモノでしょ? 髪の毛一本から、爪の先まで、ぜーんぶ私のモノなのに。なんで、そいつのお腹の中に、私の暁人を奪う『寄生虫』が蠢いてるの?」
「や、やだ……暁人……っ」
桃花が震えながら、大きなお腹を庇うように俺の背中に隠れる。
「やめろ、空! 桃花には指一本触れさせない!!」
「ふふっ……あははははっ! 指一本触れさせない? 愛する家族を守るパパのつもり? ……気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いッ!!」
空は完全に壊れていた。
「暁人、私暁人の子供、妊娠してたんだよ?でもね?暁人がこの女を選んだせいで、ストレスが爆発して流産しちゃった…あはは」
「許さない。私の暁人を汚したそのビッチも、腹の中の肉塊も、全部グチャグチャに潰してやる。呪ってやる。お前らが笑い合うたびに、血反吐を吐くような地獄を見せてやるから……ッ!!」
その日を境に、想像を絶する悪夢が始まった。
無言電話の嵐。ドアノブに括り付けられた動物の死骸。ポストに詰め込まれた、血文字で埋め尽くされた手紙の束。夜中に窓ガラスをコツコツと叩き続ける異常な音。外出するたびに、必ず視界の端に映る空の虚ろな目。
警察に相談しても、実害が出るまでは動けないとあしらわれた。
妊娠中の桃花の精神は、みるみるうちに削り取られていった。夜も眠れず、少しの物音で悲鳴を上げ、過呼吸を起こすようになった。
そして――数週間後。
極限のストレスと恐怖に耐えきれず、桃花は自宅で大量に出血して倒れた。
救急車で運ばれた病院の白いベッドの上。俺たちの希望だった小さな命は、産声を上げる前に、冷たい血の海へと消えてしまった。
「あああああぁぁぁっ!! ウチの……ウチらの赤ちゃんがぁぁっ!! ごめんなさい、ごめんなさい……っ!!」
病室で、お腹を掻き毟りながら発狂し、絶望のどん底で泣き叫ぶ桃花。俺は彼女を抱きしめることしかできず、ただ声を殺して涙を流した。
(俺が……俺が、空の異常性に早くケリをつけていれば……!)
俺は、深い殺意と後悔を胸に、病院を飛び出した。この狂気に終止符を打つために。
だが、空の狂気は俺の覚悟をはるかに凌駕していた。
「――遅かったね、暁人」
自宅のアパートに戻った俺を待ち構えていたのは、闇の中で包丁を握りしめた空だった。
「これで、お腹の寄生虫は消えたね。やっと、邪魔者がいなくなった」
「……空ぁぁぁッ!!」
俺が胸ぐらを掴み掛かった瞬間、空は避けるそぶりすら見せず、恍惚とした笑みを浮かべて両手を広げた。
ドスッ、という鈍い音。俺のナイフが空の肩を掠めたのと同時に、空の包丁が、俺の首に深々と貫いていた。
「がはっ……!」
「あはっ……あきと……あきとの血、温かい……っ」
崩れ落ちる俺の身体を、空は愛おしそうに抱きとめた。
「かわいそうな暁人。あのビッチのせいで、こんなに苦しんで……。でももう大丈夫だよ。私が、ずっと、ずーっと……守ってあげるからね」
薄れゆく意識の中。俺の命が尽きる最後の瞬間まで、空の狂ったような愛の囁きが耳元で響き続けていた。
⸻⸻
数ヶ月後。
外界の光が一切差し込まない、異常なほどに冷え切った部屋。
かすかなキャンドルの火だけが揺れるダイニングテーブルで、カチャ、カチャという、フォークとナイフが皿に当たる音が静かに響いていた。
「んっ……ふふっ、相変わらず美味しい。暁人って、こんなに甘かったんだね」
テーブルには、綺麗に盛り付けられた「肉料理」が並んでいる。
空は、うっとりとした表情でその肉片を切り分け、ゆっくりと口に運んで咀嚼していた。
「ねぇ、暁人。覚えてる? 中学の時、二人で花火大会に行ったよね。あの時、暁人が買ってくれたリンゴ飴、すごく甘くて美味しかったなぁ……」
空は、テーブルの向かい側の空席に向かって、嬉しそうに語りかける。
彼女の視線の先には、ホルマリン漬けにされた眼球や、綺麗に白骨化させられた俺の頭蓋骨が、オブジェのように飾られていた。
「他の女に触られた汚い皮膚は全部捨てて、綺麗なところだけを、丁寧に、丁寧に料理したんだよ。……もう少しで、全部食べ終わるからね」
空は、恍惚とした吐息を漏らしながら、血の滴る肉を頬張る。
「暁人が私の血肉になって、私の中で溶け合って……これで暁人は、誰にも奪われない。永遠に、私だけのモノ。私の身体の中で、ずっと一緒に生きていけるんだよ……っ♡」
彼女にとって、これこそが究極の「愛の完成」だった。
殺害した暁人の死体を解体し、防腐処理を施し、日々の食事として少しずつ自分の胎内へと取り込んでいく。狂気の沙汰としか思えないその儀式は、空にとっては無上の喜びであり、絶対的な純愛の証明だった。
⸻⸻
さらに数日後。
「ごちそうさまでした、暁人」
皿の上には、もう何も残っていなかった。
空は、純白のウェディングドレスに身を包み、美しく化粧を施して、俺の頭蓋骨をまるで愛おしい赤子を抱くように胸に抱え込んでいた。
「全部、私の中に入ってきてくれてありがとう……。あぁ、暁人の鼓動が、私のお腹の中から聞こえる気がする……」
空は、静かに目を閉じ、頭蓋骨の額にそっとキスを落とした。
そして、彼女の手には、先鋭に研ぎ澄まされたカミソリが握られていた。
「もう、この世界に暁人がいないなら、私に用はないよ。だって私たちは、完全に一つになったんだから」
空は微笑んだ。その瞳には、かつての天使のような、澄み切った無垢な光が戻っていた。
「愛してるよ、暁人。今からそっちに行くから……あの世で、二人だけの、本当の結婚式を挙げようね」
躊躇いなく、カミソリが頸動脈を深く切り裂く。
吹き出す鮮血が純白のドレスを真っ赤に染め上げても、空の顔から笑みが消えることはなかった。
彼女は俺の骨を抱きしめたまま、永遠の愛を夢見て、ゆっくりと血の海へと沈んでいった。
誰にも邪魔されない、二人だけの地獄の底へと。
[岸辺 桃花ルート 終]
完結です
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