27 黒幕の正体
戦禍にある王国。
その王国にあっては、王族に名を連ねる第二王子も当然緊張状態にある……はずがない。
なぜなら彼はかれこれ十年近くひきこもり生活を送ってきたエリートニート王子、自分の国の情勢など全く興味がないのである。
そんなわけで王子は今日もうだうだと愛しのラプンツェル嬢を思い涙しぐじぐじと森をさまよっていたのであった。
「ああ……ラプンツェル……君がいなくては俺はどうすればいいんだ……ラプンツェル……君だけなんだ……」
ぼそぼそと呟きながら徘徊する様はさながら不審者である。
否、徘徊しなくとも彼は不審者であった。
木々の上を鷹が飛んでゆく。
大きな翼をもつそれを見上げ、第二王子は溜め息をつく。
「俺にあのような翼があればラプンツェルを見つけられるのだろうか……ああ神よ。もし願いが叶うのならば、あの大きな翼が欲しい」
第二王子の心からは既に死体コレクションへの欲望が消え失せ、ただ純粋にラプンツェルへの愛しさで溢れていた。
この数ヶ月で大きな進歩を遂げたものである。
「ああ、ラプンツェル。君と暮らせるなら俺は王子の地位など捨ててもいい」
第二王子が自分に酔いながら木々へ語りかけたときだった。
「そのお気持ちは本当ですか」
まるで森に吹く風のような爽やかな声が聞こえ、第二王子は動きをとめた。
木々の合間から現れたのは黄色のワンピースを纏ったラプンツェルで、優しい笑みをたたえてもう一度問う。
「ねえ、私の愛しいエルンスト、私のために王子を捨ててくれる?」
第二王子の顔が喜色に染まる。
「もちろんさラプンツェル! 窮屈な地位など俺には必要ない!」
第二王子はラプンツェルへと駆け出し、力いっぱい抱き締めた。
腕の中に閉じ込められたラプンツェルが苦しそうに、しかし幸せそうに笑う。
「愛してるわ、エルンスト」
「俺もだ。愛してる」
出会い頭からクライマックスの二人を止める者などいない。
ラプンツェルが喋っていることへの疑問を呈する暇もなく二人は熱く口付けを交わし、そのまま危ない展開へともつれ込みそうになったところでラプンツェルが第二王子の頬にキスをする。
「エルンスト、大切なお話があるの」
「なんだいラプンツェル? それは悪い話?」
「二人で幸せになるためのお話よ」
二人は切り株に腰掛け、ラプンツェルは第二王子を優しく見つめる。
「私はずっと、中途半端だったの。私の両親はこの国の人だけど、私が生まれるかどうかといった時に、秘密都市国家の住民権が与えられたのよ」
「秘密都市国家? そんなもの知らないぞ」
「ええ。この世界の王族でさえろくに知らない秘密の国なの。その国の住民の子は必ず住民になるのだけれど、もし私が両親の住民権取得より前に生まれていたら私には住民権がないことになって、それで、審査保留のままずっと暮らしてきたの」
空を飛んでいた鷹が滑空してくるとラプンツェルの膝の上に止まる。
鷹からはジィーーーーっというゼンマイ仕掛けのような音がしており、第二王子はいぶかしげに鷹に触れた。
「……冷たい」
「この鷹は外見は剥製で、中は機械仕掛けなの。まるで生きているみたいでしょう」
それはまるで第二王子の理想だった。
物静かで従順。自分を拒否することのない、美しいもの。
それが目の前にあることで彼の喉がこくりと鳴る。
「昔から機械仕掛けが好きで、お金があればたくさん試作品が作れると思って、私、あなたを利用しようとしたわ。あなたと一緒にいたらたくさん機械仕掛けを作れると思ったの。ねえエルンスト、私は悪い子ね?」
「ああ。ひどいよ。俺を利用しようとするなんて。まるで……大人たちみたいじゃないか」
言葉とは裏腹になぜか嬉しそうにする第二王子はおそらく、ラプンツェルの眼差しにある悲しみと愛情と、そして悪戯っぽい光に気づいたのだろう。
その先に素敵なことが待っているのがわかっているように彼は耳を傾ける。
「先月のことだったわ。秘密都市国家から住民権付与の連絡が届いたの。住民になってしまえば好きなだけ実験ができるし機械仕掛けもたくさん作れるのよ。だから、私はこの国の王子様と一緒にいる必要はなくなったの。
でもね、私、あなたを好きになっていたんだわ。
エルンストが抱える淋しさも、エルンストが抱える悲しさも、私が受け止めてあげたいって思ったの。
ねえ、エルンスト。私はあなたを大好きなのよ」
「ラプンツェル、俺もさ」
「だけどね、エルンスト。世界は残酷なの。
秘密都市国家の住民は住民権以外との結婚を認められないんですって。もしその掟を破ると、その住民は死ぬことになるのだそうよ」
「じゃあ君は」
「ええ。あなたの妻になれないってわかって、つらすぎて家出してしまったの。泣いて泣いて、気付いたら叫び声を上げていたわ。
ねえ気付いていて? 私、声が出るようになったのよ」
笑うラプンツェルの額に第二王子の唇が触れる。
「俺はラプンツェルの声も好きだ」
「大好きよ、エルンスト」
唇を重ねる二人。
鷹はそれを記録に残さないように下を向いている。
頭の良い機械である。
「あのね、だから決めたの。私、あなたの妻になるためにあなたを秘密都市国家の住民にしようって。
ねえエルンスト、私をあなたの妻にしてくれる?」
「もちろんさ!」
第二王子はラプンツェルを強く抱きしめ、もう一度深く口付ける。
ラプンツェルの目がきらきらと輝く。
「二人で王国から逃避行しましょう」
「ああ。ずっと一緒だ」
その後、第二王子は死体の鮮度を維持して運搬するために自作した冷凍棺をラプンツェルに見せ、その断熱構造とフラぺ山から噴出するフランガスを冷媒とする蒸気圧縮冷凍装置を見て「いける」と確信したラプンツェルはすぐさまヒーヅルに向けて推薦論文を書き上げた。
それからは早かった。
第二王子の発明はその用途が用途だけに誰にも知られず、そのせいでヒーヅルの目をかいくぐっていたのだが、いざ表に出てしまえば即刻住民認定されるものだったのだ。
かくして二人は迎えに来たネロとアリアの手によってその日のうちにヒーヅル入りを果たした。
その晩、老女の手によって王城に届けられた一枚の手紙にはこう書かれていたという。
『父上へ。真実の愛を見つけました。さようなら。エルンストより』
そのあまりにそっけない文章に現王は頭を抱え、電信を受けた宰相は髪が数本抜け落ち、巨大氷穴を管理していた者達は残されたコレクションの処理を思って肩をすくめ、死体調達担当を強いられていたメンフは晴れ晴れとした笑みを浮かべたのだった。
◇
朝焼けはいつだって目に眩しい。
馬を替え御者を替え、馬車を夜通し走らせ続けて一週間。
サラたちは前線にほど近い場所に到着した。
ふらふらと辺境伯の別荘に入った一行は辺境伯の歓迎を受け、とりあえず夜まで解散、とそれぞれあてがわれた部屋へと消えて行く。
サラももちろん、体を濡れタオルで拭くと久々のベッドに飛び込み、すっかり意識を失ったのであった。
「サラ、起きて」
しかし、主の声が聞こえてくるなんてよほど疲れていたのだろうか。
「サラ。仕事の時間だよ」
何度も呼び掛ける声はまるで本物で、私なんか用済みじゃないんですか、とつい口走る。
「誰がそんなこと言ったの? まだまだ仕事は山積みだよ」
おでこに触れる温かい手。
それが優しくまぶたや頬を撫でる。
あまりに現実味のある感覚にサラは思わず目を開けた。
「……え」
目の前にトーリがいた。
ベッドに腰掛けてサラを見下ろす空色の瞳はまぎれもなくサラの主だった。
「おはよう、寝ぼすけさん。もうすぐ日暮れだよ」
「えっと……トーリ様?」
「なに?」
「追い付くの早かったですね」
ぼんやりとした口調で言うサラにトーリは楽しげに笑った。
「コノハが教えてくれたから、城には行かずに直接ここに来たんだ」
「そうでしたか。……あ」
「どうしたの?」
「夏用のネグリジェは生地が薄いので透けます。起き上がりたいので今すぐ出てってください」
トーリの顔に赤みがさす。
そそくさと部屋を出ていく姿は第一王子に似て、まるで子どものようだ。
サラが身支度を整えてサロンルームへ行くと、宰相とトーリは地図を広げて話し合っており、セバスは屋敷の使用人とお茶の用意をしていた。
サラもいそいそとセバスの手伝いに回り、こっそりつまみ食いしつつテーブルを整える。
宰相とトーリの熱い議論は食べ物を前にしてもいっこうに終わる様子がない。
「国民の噂に乗る? これ以上のイレギュラーが必要ですか?」
「仕方ねぇだろ。前線では士気がなんぼだ。連隊長以上は若ぇ頃に英雄を見てんだ、ここが投入しどきだろうよ」
「しかし万が一ですよ、現場で第一王子と遭遇して第一王子の身になにかあったら」
緊迫した会話の内容を図りかね、サラは隣のセバスに説明を求めることにした。
「セバスさん、お二人は何をもめてるんですか」
「あれですか。王弟殿下を前線に配置するかどうかを問題にしているんですよ。昔王弟殿下が英雄と呼ばれていたことはご存じですか? 戦争開始直後に国民に噂が流れましてね、なんでも現王は王弟を騙して王位についたとか、今回の戦争は王弟を王にしなかったせいで起こったとか。それで、英雄を再び戦地へと望む声が高まっているのです」
「王弟殿下って暗殺者をむけてくるだけの人だと思ってました」
「その感想を抱いているのは王国中であなたくらいのものですよ」
「おいセバス!」
気付けば宰相がこちらを向いていた。
「はい、閣下」
「王弟殿下を飼い慣らす方法を出せ」
(無茶ぶり来た!)
しかしセバスは顔色を変えずに、いやむしろ口角を上げてさえみせる。
「私が参りましょう。王弟殿下をお守りすることで信用を得ると共に、第一王子殿下に害をなさせないよう監視致しましょう」
その案はただの秘書官が前線に立つということで、壁際に控えていた使用人がざわつく。
それに対し宰相は予想していたという表情で頷いた。
「電信を打つ。うまくやれよ」
「ご期待に添えるよう尽くします」
セバスの執事としての礼はいつもどおり整っており、その姿に軍人らしさは見受けられない。
しかしこれまでに見てきたセバスの移動速度、正確に人の急所へ与える打撃、そして重いものでも軽々と持ち上げる筋力は武勇を上げた軍人であっても太刀打ちできないだろうと思われた。
かくして戦局は新たなうねりを持ち、三国の戦争を更に激化させることになったのである。
サラたちが半島入りして一週間。
王弟モルゲンロートの指示により一部の小隊が斥候作戦を実施。
あわせて各砦の物資の確認がされる。
落ちた砦の中で衝突点から離れた砦は放置されており、アイソープ軍の装備を拾った王国軍はアイソープ軍に成りすましてその砦を制圧。
点を繋ぎ、初秋の豪雨で川が増水したのを期に島国軍が小拠点とする砦を王国軍で囲い込むことに成功。
包囲を狭め、アイソープ軍の応援を装って突撃。 一進一退の攻防が続く中、モルゲンロートが到着。
彼が現れる前には必ず黒い疾風が吹き荒れ、敵は王弟を見ることなく倒れ伏す。
その後はまさに一気呵成。
またたくまに砦を守っていた少佐の首を掲げたモルゲンロートに王国軍は歓喜の雄叫びを上げた。
「英雄だ。英雄がいる」
王国軍のみならず島国軍やアイソープ軍までもがそう呟き、モルゲンロートの支配地は着々とその面積を広げてゆく。
黒い疾風のあとに生み出される血の海、高笑いするモルゲンロート。
毎日進む戦局はあまりにも王国に有利な展開であり、まるで神がゲーム盤に細工でもしたかのようなその現状に敵国だけでなく王国軍も驚き、しかしその奇妙さは戦略の堅実さによって誤魔化されてゆく。
まるで死神だと言ったのは誰だったか。
気配を感じた時にはもう命が刈り取られている。
人の骸を踏むモルゲンロートの高笑いが響き渡り、味方でさえも王弟を恐れた。
そして戦いは島国軍が半島で大拠点としていた砦に移る。
この砦を落とせば確実に島国に敗北を認めさせることになるため、王国軍の士気は否応なしに高まり、島国アイソープ連合軍はそこを死地として応戦する構えを見せた。
「ここが最後の戦いになる。儂と共に栄光を掴め」
明け方に響いたモルゲンロートの言葉。
王国軍がいらえる雄叫びは砦にまで届き、それが合図となって火薬が打ち出された。
弾丸と砲弾が砦を囲む者達に容赦なく撃ち出され、王国軍の数を減らしていく。
まるで攻めきれない王国軍はそれまでの勢いが嘘だったかのように膠着状態に陥り、兵糧攻めとも急襲攻めともつかない状態で日にちだけが過ぎてゆく。
「いったい何があった」
前線からかなり引いた辺境伯の屋敷で問う宰相。
トーリは各方面に電信を打っていたが、何もわからないと首を横に振る。
「王弟殿下は最後は自分の力で落とすと仰ったのです」
ふいに告げられたその声は宰相秘書のもの。
誰もが幻聴だと思い、すぐには反応できずにいたが、声はなお続ける。
「お役目を果たし只今戻りました、閣下」
土埃に汚れてはいるが損傷ひとつない黒いフロックコートを身に着けた彼は右手を胸にやってお辞儀をする。
「セバス、か」
「はい」
「よく戻ったな」
「はい。やるべきことのために戻って参りました」
セバスの笑みが不敵に、しかし残虐さを匂わせて周囲に向けられる。
「やるべきこと、ってなんですか」
サラの質問にセバスはサラに一歩近づいた。
「サラさん、体調はいかがですか」
一歩、二歩、三歩。
セバスがサラの真正面に立つとサラを見下ろす。
「体が重いままですけど、もう慣れました」
「そうですか」
セバスの手がサラに伸び、サラの首に触れる。
次の瞬間。
「待て!」
トーリの叫び声とセバスがサラの首を絞めたのは同時だった。
めしめしと音が鳴りそうな勢いで力を加えられた首は痛みよりもひたすらに苦しく、サラは身をよじって足掻く。
トーリがセバスを引き剥がそうとするも、せバスはびくともせずにサラの首に力を加え続ける。
「非排出性高速度循環薬、でしたか。排出させてしまえばなんということはありません。ただの人です」
「おまえ、まさか」
「私はヒーヅル上層部からの命令に従っただけですよ? 人体実験を中止せよ、というね。あなたがた第六研究室からの要請でもあったはずですが」
「サラ、移動! 僕の後ろに立て」
トーリが叫ぶのは聞こえるが、既に目の前が暗い。
でも、なんとか目を見開けば金髪が目印のようにそこにあった。
トーリの後ろに移動、そうトーリは言った。
すぐそこ。
そこまで。
いつもの頭が白くなる感覚は来ない。
しかし代わりに秒速千メートルで駆け抜ける時と同じ感覚がした。
サラの体がぶれる。
首の拘束から解放されたサラがへたりと座り込むと、後ろからトーリの「よくやった」が聞こえてきた。
目の前にいたはずのセバスはおらず、少し離れて宰相が立つのが見える。
「なぜ動けるのです」
呟くセバスにトーリは強気な光を目に宿す。
「第八研究室は筋肉馬鹿しかいないからわからないか? 第六研究室は移動通信特化機関だ。座標指定が出来る者に身体の強さは不要だろう」
トーリはセバスから目を離さずにサラの脇による。
廊下から鐘を打ち鳴らす音が響いた。
「皆様、火事です! どうかお逃げを!」
使用人が声を張り上げ扉を開けようとしているが、その扉は開かない。
宰相も引き手を鳴らすが、鍵がかかっているわけでもないのにびくともせず、宰相の舌打ちが鳴る。
「セバス、おめぇ」
「閣下。あなたは言いましたね、信用出来る人間を見つけろと」
廊下から人の声がしなくなる。
それはおそらく、火の手がすぐそこまで迫っていることを表していた。
「私はあなたを信用しています。あなたがどんな行動を取るか、あなたがどんな思考をするか。私はあなたのそのブレない点を信用しているんです」
よたつくサラが部屋の窓に寄る。
しかし金具が固くて動かず、窓を開けることが出来ない。
ならばとテーブルのナイフをつかんで窓ガラスに打ち立ててもまったく歯が立たない。
トーリも窓に触れ、そしてセバスを見る。
「無駄ですよ。この部屋の扉も窓も数刻前の状態で固定されています」
部屋に煙が入り込み始める。
たとえ扉から火が入ってこないとしても、このままでは一酸化炭素中毒か酸欠で死んでしまうだろう。
瞬間移動できるサラはともかく、宰相とトーリは絶体絶命だ。
「セバス、おめぇ何が目的だ」
「復讐、いや、道連れ……ですかね」
たとえ部屋自体が無事でも熱は遮断できないらしい。
着々と部屋の温度が上がり、煙が満ち始めるのがわかった。
「三十年前、ここは東の島国の領土でした。そう、地名こそ変われど、ここには私の家がありました。毎日が楽しかった。私も妻も子もここに暮らし、息子は木登りばかりする元気な子で、三歳の娘は可愛い盛りでした。絵に描いたようなアットホームな家族というものがあるとするなら、まさしく私たちのことでした。
それをぶち壊したのが王国です。たかが領土を増やしたいという欲だけで非戦闘民も無差別に蹂躙し略奪し証拠隠滅に火まで放った。
私は運悪く出張に出ていて……戻ってきた私を迎えたのは焼け落ちた屋敷と骸となった家族でした。
そのとき私は王国を滅茶苦茶にしてやろうと決めたのですよ。そして、半島を見捨てた東の島国もね」
「セバスさんそんなことはどうでもいいので脱出しましょう! なんとかしてください!」
「言ったでしょう、道連れだと。
あの日から私は妻と子らを生き返らせようと研究を続けてきましたが……わかったのですよ、死んだ者は生き返らないと。
得たのはこの不老の身体だけ。
愛する家族のいないこの世界を無為に過ごす苦しみが長引いただけです。
だから全て終わらせようと思ったのですよ。
この数年、暗殺騒ぎが続いたでしょう?
くすぶっていた王弟を動かしたのは誰だと思いますか?
いま、半島は再び荒れ、東の島国は中枢部が壊滅。
今頃王弟殿下の首は取られているでしょうし、王の秘蔵の第一王子も火の中にいるでしょう。
そして何より、王国の立て直しに必要な人材はここにいる。
こんなにも素晴らしいシチュエーションが他にありますか」
「もう! 死にたいならあったかいベッドの中で一人で死んでください! トーリ様と宰相様を巻き込まないで!」
自己陶酔に浸るセバスに正面からタックルしたサラはセバスの上着をつかむ。
「それにセバスさん約束しましたよね? 戦争終わったら料理教えてくれるんじゃなかったんですか?」
「ああ、そんな約束もありましたね。忘れていました」
「ひどい!」
わめくサラの手を白手袋の手が包む。
セバスはサラの耳元に口を寄せ、他者に聞こえないよう小声でゆっくりとささやいた。
「壁抜けが身体強化の薬によるものではないのは解っていました。それが壁抜けではなく彼の言う通り座標指定での移動なら、あなただけは外に出られる。
行きなさい。
行って、生きなさい」
予想外に優しい声音にサラの胸がどくどくと鳴る。
首を横に振るも、セバスは動かない。
視界の端で宰相がずるりと扉にもたれかかる。
「くそ……おいセバス。俺は、良い上司だったか?」
扉に近い分煙を多く吸ったのだろう、呟く声に通常の力強さはない。
「はい、閣下。あなたほど一緒に仕事をするのが楽しいと思えた人間はいませんでした」
「そうか」
「宰相様っ。だめですしっかり!」
「残念ですが私、安っぽい三文芝居は嫌いなんです」
セバスがサラを突き放す。
そして胸ポケットから出した瓶の中身を一気に呷った。
「さようなら皆様。素敵な絶望を」
跪く彼の口から赤黒い液体が漏れ出し、その身体が数度跳ねた。
まるで最敬礼をするように頭を垂れたセバスはそのまま動かなくなり、触れようとしたサラを後ろからトーリが抱きかかえる。
「触れちゃ駄目だ。これが彼の矜恃なら守ってやるべきだ」
そう言ってトーリは黙祷するように目を閉じた。
サラもそれに習い、目を閉じてセバスを思う。
「サラ、一つ質問したい」
「なんですか」
「瞬間移動が不発だったことはあるか」
目を開けたサラの目の前にトーリの顔があり、その距離はやけに近かった。
「はい。さっきトーリ様の後ろに行こうとしたのにうまく行かなくて。代わりに走ってる時と同じ感覚がしました」
「そうか。やっぱり今か」
「トーリさ」
言葉を挟む間もなくトーリの唇がサラの口を塞いだ。
口の中に入り込んでくる熱、そしてミントの爽やかな香りと甘み。
喉もとまで押し込まれる熱と異物。
苦しさにトーリの胸を叩くも、蹂躙は止まらない。
口の中を掻き乱すかのように深く、不意に浅く、しかしもっと深く入り込んでは溶かすように熱を落としてゆく。
ごくり、と思わず飲み込むと、ようやく唇が解放された。
「ひどいです……初めてだったのに」
「僕もだ」
トーリの顔はひどく優しかった。
そして、悲しそうに見えて満足そうでもあった。
「もう一度瞬間移動を試してみて。そうだな、宰相のとこまで」
「トーリ様ってムードもへったくれもないことを言いますよね」
初めてのキスの後は熱い抱擁と相場が決まっているのではなかったか。
しかしトーリにそういった注文をつけるのは無駄だろうと諦めて瞬間移動を使う。
しかし、五感が失われるようないつもの感覚はあらわれない。
「トーリ様、私……」
宰相のところへ行く。
もう一度駄目元で意識する。
しかしその瞬間、身体が軽くなるような感覚で宰相のもとまで移動していた。
「あれ? 分解してないのに……走ってないのに走れた?」
混乱しながら振り向くも、トーリも唖然としており答えは期待できそうにない。
とりあえず宰相の腕を引き、意識のない彼を煙の濃い扉のそばから離そうと力を入れる。
しかしセバスの言う身体強化の効果がなくなっているせいか一歩分動かすのさえやっとだ。
力はない。走れはしても瞬間移動はできない。
このままこの部屋の中で煙に巻かれて死ぬしかないんだろうか。
守るために努力してきたのに、主を守れずに死んでしまうのか。
「トーリ様、ごめんなさい」
「何が」
近づいてきたトーリが一緒に宰相を引っ張る。
「ここから助けられなくて……守れなくてごめんなさい」
「……良いんだ」
宰相の体が大きく動く。
二人がかりでずるずると窓へと引きずりながらサラは続けた。
「あの、言い忘れてたんですけど、バレッタありがとうございました」
「バレッタ?」
「これです。お城に戻った日にトーリ様のお机に私宛の手紙と一緒に置いてくださっていたのを見つけました。凄く嬉しかったです」
指先で後頭部に留めたバレッタに触れる。
金の台座の上に水色の石が並ぶそれはトーリの髪と瞳の色だった。
一緒にいれなくても一緒にいさせてくれるような気がして、一緒にいてもいいと許された気がした。
たとえここで終わりだとしてもトーリがこの顔を覚えていてくれればいい。
精一杯の笑みを浮かべてトーリを見ると、トーリは目を泳がせて、耳を少し赤くして、ぎゅっと目をつぶった。
窓際に宰相の体を横たえる。
部屋全体が白っぽく視界を遮る。
「私、戦争が終わったらご命令通りロイスさんと婚約しようと思って、そうお返事したんです。
でも、ここで死んでしまうならそのお返事も無効ですね」
煙の中にあっても目の前のトーリの姿はよく見える。
三年前、デイファイン領で顔合わせした時よりも精悍になった彼は、サラにとって一番好きな人だ。
「好きです、トーリ様。誰よりも、好きです」
「……っ。サラ」
トーリがサラを抱きしめる。
サラの顔にトーリの胸板が当たった。
腕と胸板に閉じ込められた気分で目を閉じる。
煙の中に感じる焼きたての白パンの香り。
じんわり広がる幸せに、このまま死ぬのも悪くないかもしれない、とぎゅっと目を閉じる。
トーリがサラの後ろに回した手でサラのバレッタを外した。
サラの頭の上でなにやらごそごそしていたかと思えば、カチカチと金属細工をいじる音がする。
「……トーリ様?」
「出よう。僕らはまだ死ぬときじゃない」
トーリの左手がサラの右手を掴む。
そして勢いよくしゃがんだトーリは右腕で宰相の首を絞めるように抱え、右手に持ったバレッタを握った。
「窓の外、橋の前へ移動」
トーリが窓の外を凝視して宣言した瞬間、サラたちは秋の空気の中にいた。
川の流れる音がし、空は高く、数百メートル先で屋敷が燃えている。
「あれ、外……ですよね? え? 外?!」
「うん。……成功したみたいだね」
繋がれた右手をたどればトーリがいて、トーリの横には宰相が倒れている。
冷たい風が頬をなでつけた。
外に出れた実感が、助かった実感が、じわじわと押し寄せて膝の下が震える。
「サラ、戦争が終わってもロイスとの結婚はしないで欲しい」
「それは、ご命令を撤回なさるという趣旨ですか」
「わがままな主ですまない」
「いえ……でもその……私、期待して良いんでしょうか」
繋いだ手を離したトーリがサラの頭をなでる。
大きな手。
どこか懐かしい感じのする、温かい手。
「必ず迎えに行く。何があっても、サラを迎えに行くから」
カチカチカチ、と金属細工のこすれるような音がしてトーリがバレッタをサラの髪に留め直す。
おでこに落とされた軽い口づけがやけに熱く感触を残していた。