第1話 婚約なんてお断りです!
「クラリス、お前の婚約が決まった」
朝食の席で告げられた兄エイドリアンの一言に、クラリスは手にしていたティーカップを危うく落としかけた。
「……はい?」
聞き間違いかと思った。
けれど兄はいつものように穏やかな表情で、同じ言葉を繰り返す。
「相手は私の友人だ。これ以上ない縁談だと思っている」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
クラリスは思わず立ち上がった。
「婚約なんてお断りですわ!」
「即答だな」
「当然です。私はまだ結婚なんて考えたこともありませんもの」
兄は慌てる様子もなく紅茶を一口飲んだ。
「考える必要はない。お前の結婚は、私に任せておけばいい」
「そういう問題ではありませんわ!」
クラリスはテーブルに身を乗り出す。
「私は……このまま外のことを知らず、どこかの誰かの妻になってお屋敷に閉じ込められるのなんて嫌ですわ!」
思わず声が大きくなる。
自分が未熟なのは分かっている。
だからこそ、結婚する前に一人の人間として成長したい。
その気持ちはずっと胸の中にあった。
「お兄様、私は――」
「クラリス」
静かな声だった。
決して怒鳴っているわけではない。それなのに、不思議と逆らえない響きがある。
「婚約は当主としての決定事項だ」
その一言だけだった。
「……どうしてですの?」
「……」
「もしかして、私の魔力と、なにか関係がありますか?」
ほんの一瞬だけ、兄の指がティーカップの取っ手へ強く掛かった。
「言うことを聞いてくれ」
また、それだ。
幼い頃から何度も聞いた言葉だった。
お前の力は特別だ。
誰にも知られてはいけない。
だから、言うことを聞いてくれ。
クラリスは兄の横顔を見つめ、小さく息を吐いた。
「……何を言っても、もう無駄ですのね」
「これがお前のためだ」
「そうですか。エイドリアン・アーデン侯爵様、浅学菲才なわたくしの代わりにご決断いただき、ありがとうございましたっ」
クラリスは語気は荒く、しかしながら淑女らしく礼をして食堂を後にした。
◇◇◇
自室の扉を閉めた瞬間だった。
「もうっ!」
クラリスはベッドへ勢いよく飛び込んだ。
「お兄様ったら、いつも肝心なことを話してくださらないんだから!」
枕へ顔を埋めながら足をばたばたさせる。
もちろん兄が自分を大切に思ってくれていることは知っている。
両親を亡くしてからは、兄は父親代わりのようにクラリスを育ててくれた。
優しくて、賢くて、頼りになる自慢の兄だ。
……ただし。
心配性にもほどがあるわ!!
クラリスは、枕のふちをぎゅうっと掴んだ。
庭へ出るだけで護衛が付く。
街へ行きたいと言えば却下。
社交界へ出ることすらほとんど許されなかった。
すべてはこの身に宿る、魔力のせい。
王都ではいつしか「アーデン家には幻の令嬢がいる」などと噂されるようになったらしいが、本人からすれば笑い事ではない。
「このまま誰だか知らない人のところに嫁ぐだなんて、絶対に嫌」
ぽつりと呟いてから、クラリスは勢いよく起き上がった。
そして数秒後には、ぱん、と両手を合わせる。
「そうだわ!」
瞳がきらりと輝く。
「職業婦人になればいいのだわ!」
いま、王都では結婚せず職を持って自立する女性が増えていると新聞で読んだことがあった。
自分で働けると証明すれば、兄も婚約を考え直すはずだ。
そうと決まれば、じっとしてはいられない。
◇◇◇
行き交う馬車。
呼び込みをする商人。
笑いながら歩く人々。
街って……こんなに人が多いの!?
初めて見る王都の景色に、クラリスはきょろきょろと辺りを見回した。
今の自分は、帽子を目深にかぶった短髪の少年だ。
いや、少年に見えているに違いない。
「しっかりするのよ、クラリス」
まずは仕事を探さなくては。
確か新聞で読んだ。
仕事を紹介してくれる場所があると。
「ええと……職業紹介所、でしたわね」
新聞の切り抜きを取り出し、住所を見比べる。
……どっちへ歩けばいいのか、さっぱり分からない。
しばらく右を見て、左を見る。
もう一度紙を見る。
「…………」
屋敷を出て十分で迷子。
職業婦人への道は、思っていたより険しいらしい。
「どうしよう」
そう呟いて顔を上げた、その瞬間だった。
「きゃっ」
角を曲がってきた誰かと正面からぶつかった。
抱えていた書類が風にあおられ、一斉に宙へ舞う。
「あっ……!」
クラリスは青ざめる。
「申し訳ありません!」
慌ててしゃがみ込み、一枚一枚拾い集める。
相手もすぐに膝をつき、散らばった書類へ手を伸ばした。
「いや、こちらこそ急いでいて失礼した」
受け取った男性は、ふっと小さく笑った。
クラリスはその笑みに思わず目を瞬かせる。
濃い紫の髪に、澄んだ碧い瞳。
背は高く、仕立ての良い黒い外套をさらりと着こなしている。
その人のまわりだけ、空気が澄んで見えた。
……なんて品の良い、誠実そうな方かしら。
思わず見とれかけ、慌てて首を振る。
いけない。今の私は男。職探し中の若者よ。
その時だった。
男性の視線が、クラリスの手元へ落ちる。
「その新聞……」
「え?」
見れば、切り抜きの記事が書類に紛れてしまっていた。
「あ、あの。職を探しておりまして」
「そうか」
男性は一度だけ頷く。
「職業紹介所へ行くつもりだったのですが……道に迷ってしまって」
そう言うと、男性は一瞬だけ考えるように目を細めた。
「それなら、私と来るのはどうかな」
「え?」
「私は王立魔導保安局へ向かうところだ。ちょうど事務員を募集している」
思いもよらない言葉に、クラリスはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
そんな都合のいいことって、本当にあるのかしら。まさか、詐欺とか? いえ、でもそんな犯罪を犯すような方には見えないわ。だって、この方のまわりは空気が澄んでいるのだもの。って、こんなこと言ってるとお兄様に甘いと言われてしまうかしら。
けれど、せっかくの縁だ。
ここで尻込みしていては、自立など夢のまた夢である。
クラリスは、勢い良く頭を下げた。
「ぜひお願いします!」
男性は少しだけ目を丸くした。
そして、どこか楽しそうに微笑む。
「では、一緒に来なさい」
「はい!」
隣へ並んで歩き始めながら、クラリスは心の中で小さく拳を握った。
◇◇◇
数分後。
王立魔導保安局の重厚な建物が見えてきた。
入口の魔力検知灯が、男性の接近と同時に濃い紫色へと染まった。
それを見た衛兵たちが、背筋を伸ばした。
「お帰りなさいませ、室長」
「お疲れ様です、室長様」
「……え?」
クラリスは隣の男性と、衛兵たちを交互に見た。
室長。
今、確かにそう呼ばれた。
男性は慣れた様子で書類を受け取ると、振り返って穏やかに言った。
「君は事務員志望だったな。それでは早速、面接をしよう」
し、室長!? この方が責任者ってことよね!?
親切な人だと思っていた相手が、まさか自分の面接官になるとは。
クラリスはようやく、自分がとんでもない人物に声を掛けられていたことを知るのだった。
両片想いのむずきゅん話が書きたくて、始めてしまいました
最終話まで書き終えたものを更新していきますので、もしよければご覧ください




