2話 兆し
ルーディスは有言実行する男だった。
次の日にはあっさり図書館への外出申請を手にしており、「明日、朝は図書館前集合」とそう言い放った。
だから、リフィエルはここに居る。
額から垂れる汗を拭いながら、また開館しない図書館の前で、リフィエルは待っていた。
日差しを避けるように建物の日陰に潜り込み、蝉や鳥の声を聞いている。
(補充率は少し進んだけど……、まだ決定打には欠ける)
昨日で魔力補充率はようやく五十を乗り越え六十を迎えたが、未だ合格ラインには辿り着いていない。合格ラインは八十、まだあと二十もある。
ルーディスの申し出は正直、ありがたい話だった。
(それに前回はボク一人だったけど、今回はみんな一緒だから)
別視点からのアプローチがあれば、実験も進むかもしれない。期待に胸が膨らむ。
「早いな」
通り過ぎる人々の中、たった一つ、靴音が目の前で止まる。
低い声が耳に届くと、期待に膨れていた胸が、今度は違うもので満たされていく。
甘さのある、紅茶のような。
視線を上げる。
いつも着ている黒コートを腕に持ち、シャツの一番上のボタンを外した彼が、そこに立っていた。
日の光を受けて、黒い髪が赤く色づいている。
たったそれだけなのに、リフィエルの心臓は変なリズムを叩き始める。
そっと視線が逸れた。
「おはよう、管理か、」
「ルーディス」
喉が詰まる。
青い瞳が彼を捉えた。
「仕事中、だし?」
「まだ時間外だ」
「……なんでそんなに、呼ばせたいの」
ルーディスが笑う。
リフィエルの靴を、日の光が僅かに照らし始めた。
「リフィエルは俺に名を呼ばれて嬉しくはないのか?」
じり、と靴の先が焼ける。足をそっと、日陰に引っ込めた。
(嬉しくないか、なんて)
そんなこと、答えはもう決まっている。
「……ル、ルーディス、も、日陰に来たら」
それだけをつぶやいて、隣を空けるように位置をずらす。
彼は靴音を立てて日陰に入り込んだ。リフィエルは、顎を伝う汗に目を向けないように、道路を見る。
その向こう側でシヴァンが手を振っていた。
リフィエルに初めて名前を呼ばれたルーディスが、どんな顔をしているのか見もしないで。
「うあぁ、涼しい……っ」
『静かに、ですよ。シヴァンさん』
開館と同時に入り込んだ四人は、その冷房の涼しさに顔を緩ませた。
照りつける太陽の光が、ブラインドで遮られている。
木製の床は丁寧にワックスで磨かれて、天井は高く、広い。シヴァンが「魔道図書館、実は初めてだ」と小さく呟いた。
「さて、分担を決めよう」
図書館の隅、複数人が座れる大きなスペースにカバンや上着を置きながら、ルーディスは図書館を見渡した。
広々とした図書館には所狭しと本が並んでいる。効率が必要だと呟きながら、まずはマリアベルを見た。
「クネアリス、魔術語の分野からアプローチしろ」
『了解です』
「エルダー、貴様は魔術実技の方を任せる」
「はーい」
「リフィエル」
(なんで、仕事中でも名前を呼ぶの)
しかも、自分だけ。
心が忙しない。はやる心を押し留める。
(ボクも苗字でいいのに)
そんな文句はつい喉まで出かかって、口を閉じる。
「お前は構築式の分野からだ。俺は歴史から探ってみる」
「……構築式のほうなの? 魔力じゃなくて?」
「それはお前が既に調べているだろう。あれだけのレポートを作っておいて」
「一人だけの調査記録なんて、あまり当てにならないよ」
「複数人数で同じ調査したって効率的じゃないだろ」
「でも深掘りしたら、」
『あの、注目されてます』
マリアベルの魔術語が、ルーディスとリフィエルの間に入り込む。
二人の視線が周囲を見た。確かに、複数の視線がこちらに向いている。
「……やろうか」
「ああ。任せた」
皆と別れた後、リフィエルは大きな本棚の前で本を開く。
一ページずつ読みながら、思考を巡らせていく。
(魔術式は、自由に魔力を使えない人類の為に作られた学問だ)
人類はもう、リフィエルのように魔力を自在には使えない。それができていた人々は、大規模戦争により既に滅んで久しい。
冷房がヒヤリと首元を撫でていく。ふるり、背中が震えた。
(自分の感覚を落とし込むだけだから、そこまで難しく感じたことはない、けど)
リフィエルができても、他人にはできない。それはもうよくわかっている。そのための魔術式であることも。
――大昔、魔術語を使用せず魔術、否。魔法を使用していた人類は今の人類と何が違うのか。
そんな文章をリフィエルはさらりと目を通していく。ここはもう、彼女は知っていることだった。
――とある一説によると、体内の魔力の質が異なるとされており、大昔の人類は我々とは違い、心臓に魔力を溜め込んでいたのではないか、とそう言われている。しかしその説は――……。
本を閉じる。専門的なことは書いてない入門書のような内容には、自分の知りたい知識はないように思えた。
次を取って捲る。
(ボクの感覚が、間違っているのかも)
だって自分は“人間じゃない”から。
化け物だと、頭の中で誰かが呟く。
思わずぎゅうと強く、目を閉じた。
それぞれが持ち帰った情報を、まとめていく。
時間はもうすぐお昼時間だ。ルーディスの目が腕時計に向く。
「そろそろ昼だ。近くにカフェがある。今日はそこでいいか?」
一度解散にしても構わないと、彼は言う。
リフィエルは椅子から立ち上がった。音を立てずに慎重に椅子をテーブルの下にしまいこみ、仕事鞄を持つ。
頭の中で響く“化け物”という誰かの声が、ずっとうるさかった。
「ボクは一人で、」
「リフィエルは俺と一緒だ。選択権はない」
「なんで」
少し一人でいたかった。
なのにルーディスがそれを否定する。彼の目は逃さないとばかりに、リフィエルだけを見ていた。
「俺が嫌か?」
ルーディスの言葉に、リフィエルは慌てて首を横に振った。
(そんなはずないの、知ってるくせに)
答えを分かっててこんなこと言うなんて。
「そうっすよ。折角だしみんなで食べたほうが楽しいって」
『でもリフィエルさんが嫌なら無理強いは良くないです』
「無理強いじゃない。腹が減っていないだとか言い出しかねないから、同席させるだけだ」
(それを無理強いって言うんじゃ……)
リフィエルが肩を落とす。眉を下げて、ルーディスを見た。
彼女の表情には、怒りも呆れもなく、あるのは、諦めと、僅かな喜び。
「仕方ないな。本当、心配性」
「心配性などではない。お前を知れば誰だってこうなる」
ルーディスはペンを置いて、立ち上がる。椅子の背もたれにかけていた黒コートをとった。
シヴァンとマリアベルも、つられて立ち上がる。
『確かに、リフィエルさんを見ているとあれこれ心配になる気持ちは分かります』
「それなー。管理官いないとマジで水分取らないし」
喉が詰まる。ふいと、視線を逸らした。
(……この人たちといると、胸があったかくなる)
変な気分だ。
耳の奥に住んでいた身も知らぬ誰かは、声を潜めていた。




