死に至る病
「先輩、人類って、愚かにも死ぬじゃないですか」
「なんで他人事なの?」
綾乃は両足をそろえて、出っ張った石造りの段差からぴょこんとジャンプして、粗いコンクリートの地面に着地する。グラウンドではサッカー部と野球部が様々な動きを見せている。珍しく日が落ちる前の帰宅途中。僕が風邪っぽかったからだ。もう夕方だ。
少しだけ気分が落ち込んでいるのと、頭がぼやぼやするのも相まって、笑う気分じゃなかった。だからきっと、綾乃もそんな僕にちょっぴりだけ、感化されたのかもしれない。
「私はいいのです。いわく人間ではないので」
「じゃあ人でなしじゃん」
「傷口に塩を塗りたくりますね……」
「で。ヒューマンイズデッドがどうかしたの?」
綾乃はその辺に転がってる小石を軽く蹴っ飛ばして、石ころが斜面をコロコロと転がり落ちていくのをぼんやり見ていた。路傍の石は緩やかに停止して、また路傍の石に戻る。
「思うに、人類はみんな、病気なのではないでしょうか」
「まぁ、100%健康体って人もそういないだろうね」
けれども綾乃が言おうとするくだらない話は、そういう筋書きじゃなかった。
「つまり、誰もが死に至る病に感染してるのですよ。みんな感染してるから気付かないだけで、本来人は永遠に生きられるんじゃないかというお話です」
「おぅおぅ、今日は随分と飛ばしてるね。水瓶座?」
「魚座です。前時代的な発想ですよ、どうせ」
一応解説しておくと、魚座と水瓶座というのはニューエイジ思想のうんちゃらかんちゃらだ。魚座が旧世代で水瓶座が新世代である。生きていく上でこの上なく不要な知識だろう。
綾乃は前を向きながら、何も考えていなそうな目つきで適当に語り始める。
「死に至る病は非常に感染力が強く、致死率100%の最強ウイルスなのです。空気感染しますから、回避し生き続けるためには、人との触れ合いを断たなければいけないのです」
「ふーん」
こいつ、いつもどうでもいいこと考えてるなぁ。もっと悩むこと、あるだろうに。テストとか、進路とか、親とか、友達とか、身近で具体的なこと。
「じゃあ、人間は120歳までしか生きられないって科学研究についてどう考えてるの?」
「サンプルが悪いんです。世に出ているのは感染者しかいませんからね」
ふむふむ。陰謀論の香りがします。
「すると秦の始皇帝時代から生きている仙人はチベットの山奥にまだいるし、江戸時代からニートやってる奉行人の息子も生存している?」
「確実に生きてますね」
こいつは人間を何だと思ってるんだ。
「……でも、そうだとしたら、悲しい話だね」
人と触れ合うことで死んでしまうのだとしたら、それを避けようと人を避け、一人で生きようとするのなら、長く生きることだけを目指すのだとしたら。その人は悲しいと思う。
どれだけ長く生きたって、その先には何もないんだから。
「長く生きたら、いいことあるのかな」
僕が何にも考えずにそう呟くと、綾乃は何かを考えてから呟き返す。
「さぁ……嫌なことも多そうですけど」
特に言い返すことも思いつかなかったから、僕らは無言のまま帰路につく。
テクテクと、ビルの隙間から射し込む斜陽が眩しい頃、また綾乃が言う。
「だからみんな、病んでるんじゃないですかね」
「……なるほどなぁ」
「まぁ、私は人でなしなので、ながーく生存競争に励みますけど」
生存には心底向かなそうな性格のくせに、よく言うよ……
「140歳まで生きたいんなら、僕と話すのはどうなのさ。死んじゃうよ?」
「人類って面してませんよ、先輩は」
褒め言葉か?
「じゃあ、なに」
「先輩の笑顔は天使ですから」
急にデレるな。感情の落差がもはやエンジェルフォールじゃん。
「……それで。人との触れ合いに絶望感じて、どうかしたの?」
言い忘れたけど、言うまでもないけれど。
デンマークの哲学者キェルケゴールの著書『死に至る病』には、こう書かれている。
死に至る病とは絶望である。
「特には……先輩は私の唯一の希望なので、長生きして欲しいって話です」
「……はいはい」
けれど、僕はこうも知っている。
希望とは一般的に信じられている事と反対で、諦めにも等しいものである。
アルジェリアの作家アルベール・カミュの言葉だ。
「……それでも、ほんのちょっぴりでも死にたくなったら、私に言ってください」
綾乃はそう言って、僕の方を振り返ると、微妙な笑顔を貼り付けて、笑って言う。
「――私が殺してあげますから」
梶原綾乃は、そう言った。