もし生徒会長がマルクスの『資本論』を読んだら
気が動転していた。授業中も気が気じゃなく、叫び出して飛び出したい気分だった。
キンコンカンコンのチャイムが鳴ると同時に、僕は数学教師の衛藤先生が振り返るより先に立ち上がり、カツカツカツー! と勢いよく教室から吹っ飛んで生徒会室へと直行。
バーーー――ン!!!! と大きな音を響かせて扉を開け入る。
「ねぇ、綾乃!」
「ど、どうかしましたか、扉の開け方が……って、目が赤いですよ」
綾乃は困惑しながらも、僕の目が真っ赤なことに気付く。
あぁ、素晴らしいよ、綾乃! やっぱり、綾乃は僕が見込んだ通り、才能がある!!
「この充血はね、同志の証なんだよ。労働者の血の叫びなの!」
「…………はぃ?」
「同志綾乃……いや、アヤーノフ!」
「……はい?」
気分がいい。脳天からつま先まで核燃料棒で一本芯が通ってるみたいだ。エネルギーに満ち溢れている。うっかり余計なものまで溢れ出そうなくらいだ。
やっぱり、人は変われるんだ。
そう――――
「共産制社会を共に目指そっ!!」
資本論を読めば!!!!
「…………………は?」
*
綾乃は十五秒ほど口を開けたままフリーズしていた。僕がハイテンションのままに肩をぺしぺし叩くと、ようやく再起動したみたいで、ゆっくりと口を閉ざす。
それから。
「はぁああ~~~~……」
人語を理解しない類人猿にでも分かるくらい心底嫌そうなため息を吐きよった。
「先輩……」
「どうしたの、大丈夫? お金ないの? マルクス・レーニン主義者になる?」
綾乃はなぜか、すごく悩んでいるように見えた。とても面倒くさい厄介事に巻き込まれ、願わくば対岸の火事でありたいと遠い目をしていた。
「いえ、とりあえず、政治の話は、やめませんか?」
「え……」
「よく言うじゃないですか。親しき間柄でも政治と宗教と野球の話はするなって」
「あぁ、親愛なる同志マルクスも言ってたよ! 宗教はアヘンだし野球で最も雑魚がやるポジションは右翼だって」
「複合させないでください! 問題がなおのこと拗れます!!」
綾乃は本当に困っているように見えた。こみかめを押さえて現実逃避し、口をもごもご何か言いたげに言葉を探していた。
「……いや、むしろ一周回って大丈夫かもしれないですね」
「なにが?」
「政治ってよりは考古学の部類に入りそうなので。まぁ、ぎりぎりセーフかなって」
「その発言は日本共産党に失礼だよ、綾乃!」
「逃れられない!!」
綾乃が時計の方をちらっと見る。まだ四時半。じっくり一時間半は喋れるね。楽しいね。
「そ、そもそも、どうしたんですか急に。今どき共産主義って、どうなってるんです?」
「元々完成された理論だから大筋は変わらないけど、加速主義って言って資本主義を積極的に推し進めることで逆説的に共産主義社会の到来を早めようって考えを捉え直して」
「現代のコミュニズムについては聞いてないんですよ!」
「共産主義を古黴びた骨董品と思っているなら、それは大いなる誤解だよ、アヤ―ノフ」
「めちゃくちゃ祖国ソビエトに浸りまくりじゃないですか」
やれやれ、どうも綾乃は毒されている。せっかくの反骨精神もすっかり骨を抜かれて、ただのカルシウム不足な女子高生に成り下がってしまっている。
でもそういうのも全部、悪いのは資本家の豚どものせいだ。
僕らがなんとなくなにかが嫌だと感じるのも、眠れない夜が訪れるのも、生きているだけで恥ずかしくなるのも、疲れるのも、なにもしたくないのも、不定形で名前の付かない不安に追いやられるのも、全部、ぜんぶ!
…………でも、大丈夫。
偉大なる同志は、僕たちに進むべき道を示してくれている。
そう、革命という地上の天国の作り方を。
だから、僕らはきっと、大丈夫なのだ。
いつか、なんとなくいい感じに、それらは解決しているはずなのだ!
だから、綾乃、大丈夫だよ。
綾乃……僕が絶対に、救い出してあげるからね!!
「まったく……大慌てで飛び込んできたかと思えば」
けれども綾乃はどうにも、救いを求めている感じじゃなかった。
「す、すごいんだよ共産主義は。信じれば綾乃の悩みも全部解決するんだよ」
僕が言うと、綾乃はとても冷たい視線を向け、三度深いため息を吐く。
「なら、私が資本論を読めば、先輩は私と付き合ってくれるんですか?」
「そ、それは……」
「共産主義にも限界はあるんですよ、先輩。大方、分かりやすい巨悪の正体が見つかって舞い上がったのでしょうが……いいですか、先輩の悩みは今後も続きますし、将来の暗闇が晴れることはありません。生きているのがどれだけ恥ずかしく思えても、まとわりつく不安に包まれながら生きていくしかないのです。私たちにできることなんて精々、出来るだけ広い檻に出ようと、監獄の穴を掘るくらいですから」
「うぅ、うぅう……」
あまり人には言い触らさないけど、実は僕は結構だいぶ、打たれ弱い。
事実を数行指摘されるだけで、自己嫌悪に駆られる。
あぁ……なにが祖国ソビエトだ。こちとら生まれも育ちも名古屋市民だぞ。
「…………ほら、添い寝してあげますから。昨晩は徹夜だったんですよね。眠いでしょう」
僕はなんだかもう、生きているのが恥ずかしくて仕方なかった。
恥が服も着ずにさらけ出すだけ見せつけて、身勝手に満足している姿を思うだけで、布団に包まって社会から抜け出したくなった。一人になりたかった。一人きりで自分自身のふがいなさを嘆いて、やっぱり身勝手に満足していたかった。
「ごめんね、綾乃。ごめんねぇ……」
僕はなぜか謝っていた。綾乃は特に意味のない謝罪にも笑ってくれて、僕の頭を撫でる。
「先輩はまだ労働者ではないのですから、目を充血させなくてもいいんです。扶養所得のうちは、精々モラトリアムを享受しておきましょう。革命は……多分起きませんから」
結局その日、僕は綾乃の膝枕で寝てしまって、チャイムに起こされ家に帰った。
よく寝たから、夜はあんまり眠れずに、仕方なくぺらっぺらな一夜を過ごす。
*
あまりの興奮に授業中三度ほどシャドウボクシングを始めた。古典の高田先生も三度白チョークを投げつける。僕は白煙を立ち昇らせ四度目の格闘を開始する。
バァーーーーン! と生徒会室のドアを開放し、さぁ叫ぼう。
「綾乃、綾乃……綾乃!!」
「三回も呼ばずとも聞こえてますよ、血相な」
「へん! 僕は綾乃の話なんて聞かないからね!」
「……今度は何読んだんですか?」
綾乃の問いかけに、僕はスマートにかつ堂々威風に言い返す。
「『人の話なんか聞くな!』って本!!」




