いろは、珊瑚 こいにしき
ある方に捧げる、時代小説。
粗はあると思いますが、楽しんで頂ければ幸いです
――それは男が生まれて初めて感じうる情であり、衝動であった。
天下が統一され、武家中心の政になり早幾年。
天下泰平ともなれば武士とて刀や戦で富や名声、栄誉を得ることは難しく、刀の代わりに筆を走らせ、算盤を弾かねばお家を維持できない。
中にはそんな現実を見ようともせずに、先祖の威光をさも己が建てたモノのように横暴な振舞いをする輩もいる。
だがそのような輩や家は、長く栄華を感じることは出来はしない。
仮に出来たとしても、それは幕府によって踊らされている哀れな塵芥のような存在と言えよう。
さて、そんな生きやすいようで生きにくい武家社会の中で、日々淡々と生きる良い意味で堅実実直、お家第一、悪く言えば頭が堅く、仕事だけが取り柄の男が、ふとしたことで恋に落ちらどうなるだろうか。
これから語るは、とある男と女の恋錦である。
秋坂 瑞房は、とある藩の江戸屋敷に仕える祐筆であり、蝋燭係でもある。
蝋燭係とは定刻になると蝋燭の灯を消して回る、ある意味最も嫌われ、疎まれる役職であるが、それはお役目第一の頭が堅い男である。
「――お役目ご苦労、しかし刻限である為、蝋燭の灯は消さねばならん」
まだ数人が必死に筆を走らせてるのを横目に、瑞房は部屋の四隅にある蝋燭の灯を二つだけ残して消して歩く。
かつてはすべてを消していたが、それでは仕事が立ち行かないと幾人かが上役に訴えたのだろう。
ある日、瑞房は直々に家老に呼び出され、苦笑され譲歩をそれとなく促された。
尤も、瑞房とて好きで嫌われ役を買って出てるわけではなく、それが勤めであるからこそやっているだけであり、命じられれば従うだけである。
よって、かつてより僅かばかりに明るい部屋に残る同僚を気に掛けながら、瑞房は各々の部屋の灯を消し、その日の勤めを果たし、江戸屋敷を跡にした。
後にして思い返してみれば、きっとこの日の事がなければ、彼はおそらく生涯あの情動を知ることはなかったであろう。
瑞房は藩邸近くにある長屋に、身体の弱い妹と二人で細々と暮らしている。
秋坂家とて昔はそれなりの邸を持ち、使用人もいる生活を送っていたが、この世は何があるか判らない。
ある日、一人の使用人が忽然と姿を消したことで、秋坂家の家運は坂道を転がり堕ちる石ころのように急速に転がり落ちた。
父と母はそれがもとで心を病み、呆気なく世を去り、男の妹の千沙も、父母が他界したことで婚約が破棄されたことにより、よほど心に負担を与えたのか、以来、病を得やすい体となっていた。
はたはたと晩春の夕闇にに吹く生温い風に裾を吹かれながら、長屋までの帰り道を練り歩いていると、一人の子供が躓き泣いている所に出くわした。
子供は幼い男児で、男児を助け起こしているのは珊瑚色のぽってりとした唇を持つ娘だった。
娘は躓いたまま泣き伏してる男児を立たせると頭を撫ぜながら、囁くように男児に言い聞かせた。
「あらあら、痛かったわね。男の子だって痛いものね。でもあまり泣き過ぎては喉もいたくなるわよ」
はい,口を開けて?と娘が幼子に口を開けるように促しつつ首を傾げた時、一陣の風が吹き抜け、そのことでどうやら娘の目に埃が入ったらしく、娘の瞳に薄い膜が張った。
瞬間、瑞房の胸がドクリと、今まで感じたことのないような感覚を覚えた。
――な、なんだ、これは
ドクドクと心の蔵がせわしく鼓動を刻むのを自覚しながらも、瑞房は急ぎ足で娘と幼子の横を通り過ぎた。
ここで言い忘れていたことを一つ。
瑞房という男は堅すぎる性格が顔に出てしまっている上に、武士の嗜みとして剣術道場に通っている為、体格もよく、表情も凛々しいというよりは厳ついと言った言葉の方がよく似合う、ある意味女性と、とんと縁がない御面相であった。
つまり、瑞房が緊張した面持ちで二人の横を通り過ぎただけでも、二人は瑞房が怒っているものだと受け取ってしまう可能性があった。
事実、幼子は瑞房が恐ろしかったのか、止まりかけていた涙が再び流れ始めていたことなど、当の哀れな男は知る由もない。
が、ここで思いもよらぬことが起きていたとは、今の時点では誰も知り得なかった。
白い肌に、珊瑚色の唇、そして穏やかな優しげな瞳。
向けられる眼差しは温かく、抱きしめた躰は柔らかで吸い付くような肌触りで。
珊瑚色の唇から紡がれる言葉は己をこんなにも簡単に熱くさせる。
娘を求めるように伸ばした腕が、娘を抱き寄せた瞬間、目の前が白く染まった...。
ばっ、と、薄いだけの煎餅布団を蹴とばすように跳ね起きた男は、真夜中だと言うのに、顔と言わず体中紅く染まり、汗すら掻いていた。
男にとって今まで己の心をここまで惑わせ、そして誰かを夢に見ると言う事もなかった為、これがそれであるということに気付くのが遅れたが、つい先日、同僚たちの会話をいつもの如く聞き流していた時、飛び込んできた言の葉が男の心にぐさりと突き刺さった。
―曰く
誰にも触れさせたくない、こちらを見て欲しい。
自分を見て頬を赤らめて欲しい。
もっとその笑顔が見たい。
この中で一つでも心当たりがあれば、相手を憎からず思っているのだと言う。
まさかだった
青天の霹靂だった。
男は、――瑞房は、己は妹の世話を焼きつつ、生涯独り身を貫くのだと思い込んでいた。
誰にも心が揺るがないということは即ちそういうことなのだと半ば諦めていただけに、瑞房は自分が名も知らぬ町娘に恋焦がれている現状が、自覚した当初は中々受け入れられなかったが、視線は気付かぬうちに愛しいと自覚してしまった本能に基づき、勝手に姿を探し求めてしまう。
そして姿を見ては、贈れもしない簪を少ない給金の中から買い求め、身体の弱い妹に笑われている日々。
そんな意気地のなく悶々としていた瑞房の思いを、遂に行動に移させるある日がなんの前振りもなく訪れた。
当日は妹の定期的な病の薬を貰いに行った帰りで、瑞房は昼下がりの街をのんびり歩いていた。
医者が言うには、妹の病状は回復の兆しにあるらしく、このままいけば誰かに嫁ぎ、子を持つことも適うだろうと言う事だった。
もし仮に妹が嫁げば自分は本当に独りになってしまうのだなと気付き、瑞房は気付かぬうちに寂し気な儚い笑みを浮かべていた。
瑞房は侍ではあるが、生活は決して楽ではない。
もし暮らす金に余裕があれば、あの娘を嫁にと乞うことも出来たであろうかと、かなわぬ秘した想いに心を痛めていた時だった。
「きゃっ」
トン、っと、何かがぶつかったような気がして、瑞房は夢想していた世界から現実に立ち戻り、そして、唖然とした。
否、狼狽えてしまった。
――な、な、な、何故ここに珠殿が......!!
瑞房は本人には近づけなくとも、それとなく名前を探り、知っていた。
因みに本人は隠しているつもりだが、同僚たちには瑞房の遅い初恋は漏れており、同僚たちは焦れ焦れしながらではあるが、応援している。
その中には仕える藩の殿だったり、家老もいたりするのだが、それはまあ別の話。
恋焦がれた娘が目の前で転んでいるのを見た瑞房は、そこで手を貸せないほど潔癖ではなかった。
ここぞとばかり膝を折り、顔を真っ赤に染めながら、手を差し出した。
「っす、すまぬ。前を見ておらなんだった...」
が、蚊の鳴くような小さな声は、もしその場に瑞房の同僚らがいたら「貴様は女子供か、いや、虫か雑草か!!」と喝を入れられていたことであろう。
しかしながら、瑞房当人としてはこれでも頑張った方である。
異性といえば、妹の千沙しか知らぬ瑞房にとって、全くの他人、そして想いを寄せた異性は、目の前にいる女性のみなのだから。
そんな瑞房のことなど全く知らないながらも、時折美しい娘と手を繋ぎ、和やかに穏やかに歩く侍(瑞房)を、慕っていた娘は、侍が顔を真っ赤にしていることに驚きながらも、恐る恐る手を借り立ち上がり、お礼を言おうとしたところで、固まってしまった。
と、言うのも。
街の往来で唐突に抱きしめられ、耳元で囁かれた絞り出したかのような言葉に息が止まったからである。
「…く、口吸いをしてもよいだろうか...」
娘――珠は混乱しつつも必死に相手の顔を見ようともがき、漸くのことで密かに恋焦がれ、諦めていた相手の顔を見て、なんとも言えない嬉しさが溢れだした。
世間では武士や侍を悪く言う人もいるが、自分の目の前にいる人は、こんなにも可愛らしく、誠実だ。
自分は町人なのだから、相手はどうにでも強く出れるのに、自分に赦しを乞うてくる。
珠はおかしくなりクスクスと笑っていたが、瑞房がいつまでたっても口づけて来ないので、己から目を瞑り、瑞房の腕に手を置き、背伸びをし、己の唇をふにっと、瑞房のそれに押し当て、にっこり微笑んで見せた。
そして、
「私は呉服問屋、伊佐木屋の当主が長女、珠と申します。お侍様さえよければ、わたくしをお嫁に貰って頂けませんか?」
後に大衆演劇のもととなり、瓦版に描かれることとなったこの日の出来事。
瑞房は珠からの口付けに動揺していたが、ここが街の往来であることをいつの間にか、じっ、と自分たちを見ていた野次馬たちによって思い出し、またしても蚊の鳴くような声で、
「嫁に来てくれ」
と、瑞房にしては珍しくも柔らかな声と表情で想いを紡いだのだった。
こうして秋坂 瑞房、齢28 と、呉服問屋伊佐木屋の娘、珠、齢18 は出逢い、縁は繋がれ、瑞房は恋焦がれていた珊瑚色の唇を持った娘と、珠は不器用で堅物ではあるが、優しい侍と末永く仲良く暮らしたという。




